パリに持っていきなさい2019年05月01日 09時19分06秒

貫く棒のごときもの。
年号が変わっても、日々の営みは変わらず続いていきます。

今日はアストロラーベのフェイクに関する話題のおまけ。
例のキング氏の文章に、ちょっとペーソスを感じるエピソードが載っていたので、それを引用して、アストロラーベの話題を終えます(以下、適当訳)。

 「1990年代のある日、私はロンドンのクリスティーズで、テュンパンでも、レーテでも、あるいは他のどんなものでもいいから、何かホンモノはないか期待して、何ダースものフェイク・アストロラーベを眺めながら午前中を過ごしていた。私がそうしているところに、アストロラーベを携えた一人の男がやってきた。彼はそれをオークションに出そうとして果たせなかったのだ。相談を受けた私は、それが旅行者向けのガラクタだと教えてやった。彼は不満げだった。

 その日の午後、私は同じことを考えて、今度はサザビーズにいた。すると驚いたことに、さっきと同じ人物が、例のフェイク・アストロラーベを抱えて入ってきたではないか。私は再度相談を受けた。しかし、今の彼はしょげかえっていた。「金が必要なんですよ。」と彼はこっそり打ち明けた。「何とかならんでしょうか?」 彼は感じのいい奴だったので、助けてやる気になった。「パリに持っていきなさい。」と私は言った。ジャコブ街のアラン・ブリウなら、直ちにそれが偽物だと告げることもできたろう。何せアランこそ、現代ヨーロッパの、ある科学機器贋作者を刑務所にぶち込んだ人物なのだから。だが、そんな時代は遠い昔のことだ。今や、フェイク・アストロラーベは、パリで大手を振ってまかり通っている。そしてロンドンでも。」 (前掲pp.160-161)

クリスティーズだ、サザビーズだと言えば、フェイクが付け入る隙はないように思ってしまいますが、どうも現実はなかなかキビシイようで、まこと世に贋作の種は尽きまじ。

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ときに、この一文を読んで、アラン・ブリウという名に親しいものを感じました。

(ストリートビューで覗いた店先)

ノートルダムにもほど近いジャコブ街48番地に店を構えた、博物系古書+アンティークの店「アラン・ブリウ書店(Librairie Alain Brieux)」については、このブログでも何度か触れた覚えがあります。でも、1958年に店を創業したブリウ氏その人のことは何も知りませんでした。

(Alain Brieux(1922-1985)、Dr Jean-François LEMAIREによる追悼記事より)

氏がすでに1985年に亡くなっていたことや、氏が科学史全般に通じていたのみならず、ことアストロラーベに関しては、並々ならぬ学殖の持ち主だった事実は、恥ずかしながら今はじめて知ったことです。毎度のことながら、斯道深し…の思いを新たにします。

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それにしても、かの好人物はパリで上手くやりおおせたのでしょうか?
そして、ブリウ氏が贋作者を刑務所送りにしたエピソードも気になりますが、ちょっと調べた範囲ではよく分かりませんでした。

フェイクと本物、そして物語2019年05月02日 07時16分44秒

フェイク・アストロラーベと、ちょっと毛色の似た話題をひとつ。

これも大いに驚きつつ読んだのが、カリフォルニア大学サンディエゴ校で、近世オスマン帝国史を教えるニール・シャフィール氏の『偽りのイスラム科学』というエッセイです。


Nir Shafir: Forging Islamic Science

タイトルの後に「イスラム科学を描いた偽の細密画は、今や最も権威ある図書館や歴史書にも入り込んでいる。いったいどのようにして?」というリード文が続くこの記事。科学を主題にしたイスラムチックな歴史画が現在大量に贋作され、それがイスラム科学史の本を飾り、錚々たる博物館や図書館まで侵食しているという、これまた衝撃的な内容です。

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ある日、講義の準備をしていたシャフィール氏は、学生向け指定図書に選んだ本を前に当惑します。上の画像のような絵が、その表紙を飾っていたからです。

この絵は、昔の天文学者を描いたもののようです。塔のてっぺんで、ターバンを巻いた人物が望遠鏡で星を観測し、その下で弟子らしき男が、遥かな星を指さしています。さらにリンク先の原文には、絵の全体図が掲げられていますが、そこには別の望遠鏡を覗く人物や、地球儀を見ながら羽ペンで記録を取る男の姿が見て取れます。

 「色彩がいささか鮮やか過ぎるし、筆遣いがちょっと整いすぎているというのもあったが、私を大いに戸惑わせたのは望遠鏡だ。ガリレオが17世紀に発明して以来、望遠鏡は中東でも知られてはいた。しかし挿画にしろ、細密画にしろ、この品を描いた作品はほぼ皆無だ。」

望遠鏡ばかりではありません。地球儀もイスラムの古画にはめったに登場しないし、極めつけは「羽ペン」です。中東の学者ならば、伝統的に葦の茎を削った「葦ペン(リードペン)」を使ったはずなので、これは明らかに現代の贋作者の手になるものです。

同様の例は、今やあちこちで見られます。

天然痘の治療をする医師、虫歯の原因とされた奇妙な虫の姿をした魔物、人体の血管系を示す図…それらは過去の絵の模写だったり、アレンジだったりしますが(ちなみに上の望遠鏡の絵は、六分儀で星を観測する学者の姿が元絵で、贋作者がそれを望遠鏡に置き換えたものです)、そうした絵が現代のイスタンブールでは山ほど売られており、今や錚々たるコレクションにも入り込んでいるし、果てはオックスフォード科学史博物館の展覧会を飾るまでになっているのです(シャフィール氏はそう指摘します)。

さらに、そうした画像がひとたびネット上にアップされると、もはや人々は疑うことなく、それらの引用・再引用を繰り返し、イスラム科学に対する誤解まじりのイメージは、いよいよ強固なものとなっていきます。

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シャフィール氏の文章は、こうした現状を嘆くにとどまりません。
彼はそこからさらに深い問題へと読者を導くのです。シャフィール氏は、ここでイスタンブールにある2つの展示施設を取り上げます。

1つは「イスラム科学技術史博物館」です。
そこには天文観測機器あり、軍事機械あり、複雑な蒸留装置あり、過去のイスラム科学の「偉業」を、観覧者にこれでもかとばかりに見せつける施設です。ただし、そこにはホンモノが何ひとつありません。並んでいるのは、すべて最近作られた複製品ばかりです。中には、昔の本に記載があるものの、実物が全く知られておらず、そもそも実在したのかどうか不明な展示品もあります。

イスラム科学技術史博物館は、科学を通じてイスラム世界の特殊性ではなく普遍性を、閉鎖性ではなく開放性をアピールするという、一種ポジティブな意図があるようなのですが、その根っこにおいて、「人にこう見てもらいたい」あるいは「自らこうあってほしい」と願う姿に向けて、過去を再構成している点で、偽の細密画と共通するものがある…とシャフィール氏は指摘します。そこには素材選択の恣意性と加飾が必然的に伴っています。

(無垢の博物館。ウィキペディアより)

そして、シャフィール氏が注目するもう1つの施設が、「無垢の博物館(The Museum of Innocence)」です。ここは、2006年にノーベル文学賞を受賞した、トルコのオルハン・パムク(1952-)の同名小説(ウィキペディアの作品解説にリンク)を元に、その作品世界を具現化した建物です。建物の中には、昔のレストランの宣伝カード、古いラク酒の壜、焼き物の犬、懐中時計、ミスコンテストの写真…そんな1970年代のイスタンブール生活を偲ばせる品が、そして作品の主人公が、愛する女性に執着して集めた小物たちが並んでいます。

シャフィール氏はここで、「われわれは自分が集めたモノ(objects)からストーリーを物語るのだろうか?それとも、自分が望むストーリーを物語るためにモノを集めるのだろか?」と問います。「実際のところ、この2つのアプローチはコインの両面に過ぎない。われわれは、自分が想像した物語に一致する素材を集めるし、手元にあるモノとソースにしたがって物語を形作るのだ。」

なかなか深いところに入ってきますね。

古今東西、「偽史」というのがあって、贋物に基づいてフェイク・ストーリーを語ったり、あるいはフェイク・ストーリーに合わせて、贋物をでっちあげてしまうというのは、ありがちなことです。

でも、ホンモノに基づくフェイク・ストーリーというのもあります。
ホンモノを綴り合せて、自分好みの衣装を仕立ててしまう―- これは良心的な歴史家なら常に自戒しているところでしょう。

歴史家のみならず、古物好きも一度はこの問いを自問しなければなりません。
もちろん私も含め、趣味の範疇ならば、「自分が望むストーリーを物語るためにモノを集める」のでも一向にかまわないとは思います。でも、そこで捨象されるもの、無視されてしまう歴史的存在、自分が見たくないために目を覆っている事実があることも、たまには思い出すことが必要なんじゃないかなあ…というのが、たぶんシャフィール氏の帰結であり、私もそれに同意します。

いずこも同じ秋の夕暮れ、とは言え2019年05月03日 10時53分43秒

何となく他人のふんどし的話題が続いていますが、今日もふんどしの続きです(幼い日に聞いた“長い長いふんどしの話”って覚えてますか?)

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話題の主はふんどしじゃありません。もっと美しいものです。
さっきまで1枚の写真を前に、しばし物思いにふけっていました。

(Wikipedia「Lund Observatory」の項より)

スカンジナビア半島の先端、エーレ海峡を越えればすぐコペンハーゲンの町というロケーションに、スウェーデンのルンド天文台はあります。上の写真は美しくも愛らしい、その外観(1867年完成)。したたる緑に囲まれて、まるでお伽の国の天文台です。

今このタイミングで、この写真を見に行ったのは、今朝がたいつもの天文学史のメーリングリストで、何とも言い難い投稿を読んだからです。
すなわち、同地のGöran Johansson氏はこう述べています(適当訳)。

 「皆さん、こんにちは。

 スウェーデンのルンド大学の天文学部門は、2001年に新住所に移転しました。市民公園の隅にあった少しばかりの小さな建物から引っ越したのです。

 元の建物の一つは、1860年代に溯るものですが、そこは今も空き家のままです。金を払ってそこを借りようとする者が誰もいないからです。建物は今や徐々に朽ち果てつつあります。地元の政治家たちは、ここをレストランか、科学普及のための施設にしたいと考えていますが、その資金がないので何もできません。
 一体どうしたらいいのか、2018年に彼らが意見を求めたところ、2、30個の提案がありました。さて、それを受けて政治家たちはどうしたか?以前と状況は何も変わりません。誰も金を持ってないので、どうしようもないのです。

 こうした事態が馬鹿げているのはもちろんです。いったいどうしたらいのか、何か妙案はないでしょうか?おそらく、同じようなことは他の土地でもあったことでしょう。だから、こうした場合にどんな手が打たれたのか、知りたいと思います。」

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スウェーデンといえばノーベル賞の国だよ、高負担高福祉の国だよ、日本とは文化にかけるお金が違うんだよ…という、漠然としたイメージがありましたが、それでもやっぱりこういうことは起こり得るのですね。

「いずこも同じ…」の感が深いです。しかし、この愛すべき建物が腐朽に任せるのは、まことに忍びないです。と言って、やっぱり金のない極東の住民は、こうやって心の中で応援するぐらいしかできません。その思いが建物に伝わって、「よし、俺ももうちょっと頑張ってみるか」と思ってくれると良いのですが。

ルンドの天文時計2019年05月04日 06時43分17秒

ルンドつながりの品。


ルンド天文台のすぐ近くにあるルンド大聖堂の名物、天文時計の絵葉書です。


「ルンド旅行協会」が発行したお土産品で、このてっぺんのダイアルを回すと…


カードの「窓」から、人物像が順繰りに現れるという他愛ないもの。
いわゆる「メカニカル・ポストカード」、仕掛け絵葉書の一種です。

この人物像は、天文時計の出し物である人形行列を模していて、キャプションにその説明が書かれています。

 「有名なルンド大聖堂の天文時計は、1380年頃に作られ、1837年に取り外された後、デンマークの塔時計製作者 Bertram-Larsen と、聖堂建築家 T.Wåhlin の手で、1923年に復元された。三賢王が処女マリアと幼子に礼拝するところを見るため、毎日大勢の見物客が大聖堂を訪れる。時計の演奏は、平日は正午と午後3時、日曜日は午後1時と午後3時に行われる。」

その実際の場面は、YouTubeにもアップされているので、簡単に見ることができます。

YouTubeの当該動画にリンク。演奏は0:48から)

演奏される曲は、「In dulci jubilo(もろびと声あげ)」。

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この絵葉書はごく新しい品だし、取り立ててどうということもないように見えますが、実はなかなか大したものです。

というのも、これは実際に探してみて分かったことですが、天文時計のメカニカル・ポストカードは、有りそうで無いものの一つだからです。以前も登場したストラスブールやプラハのそれを除けば(この両者は山のようにあります)、今のところ、このルンドの絵葉書が唯一のものです。

たしかに天文時計はヨーロッパのあちこちにあります。そして大抵は観光名所ですから、その絵葉書もたくさん売られています。でも、メカニカル・タイプのものは、ストラスブールとプラハの専売特許かと思うぐらい、他所ではふっつりと見かけません。他愛ない仕掛けですから、他にもあっていいはずですが、全く見ません。他愛なさ過ぎるからでしょうか?

まあ、だから何だという類の話ですけれど、モノと付き合っていると、こういうどうでもいいことが、ふと気になります。

白瀬詣で(前編)2019年05月05日 14時17分51秒



今から約60年前、昭和35年(1960)は、日本の南極探検50周年にあたり、その記念切手が発行されました。写真はそれを貼った初日カバーです。当時はまだ昭和基地開設から4年目で、南極観測船も「宗谷」の時代です。


今日の話題の主は、記念切手のモチーフとなった探検家、白瀬矗(しらせのぶ、1861-1946)。私の耳には「白瀬中尉」の称が親しいので、以下そう呼ぶことにします。

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白瀬中尉のことを知ろうと思ったら、多くの人はまずウィキペディアの彼の項目を見に行き、その晩年の記述を読んで言葉を失うでしょう。

 「昭和21年(1946年)9月4日、愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)の、白瀬の次女が間借りしていた魚料理の仕出屋の一室で死去。享年85。死因は腸閉塞であった。 床の間にみかん箱が置かれ、その上にカボチャ二つとナス数個、乾きうどん一把が添えられた祭壇を、弔問するものは少なかった。近隣住民のほとんどが、白瀬矗が住んでいるということを知らなかった。」

敗戦後の混乱期であることを割り引いても、一代の英雄の最期としては、あまりにも寂しい状景です。

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唐突ですが、家でごろごろしていてもしょうがないので、白瀬中尉のお墓参りにいくことにしました。家で彼の話が出て、ふとその臨終シーンが浮かび、ぜひ弔わねばいけないような気がしたからです。中尉にとっては甚だ迷惑な、余計な感傷だったかもしれませんが、でもこれは行ってよかったです。

その場所は、逝去の地である豊田市ではなくて、同じ愛知県内の西尾市です。平成の大合併前は、幡豆郡吉良町といいました。西尾市吉良町瀬戸にある「瀬門(せと)神社」がその場所です。


昨日は天気も良くて、中世の吉良荘以来の里の光景がくっきりと眺められました。


行ってみたら、私の感傷は的外れで、白瀬中尉のお墓は地域で大事にされていることが分かって、安堵しました。

(参道から鳥居を振り返ったところ)

深いお宮の森を通っていくと、そこにちょっとした広場が整備されていて、白瀬中尉を記念するスペースになっていました。


画面左手に見える自然石の碑が墓標です。正面の楕円形は、南極観測船「(初代)しらせ」のスクリュー翼で、さらに右手には白い説明板が立っています(その前の竹箒は、ここがよく手入れされている証拠です)。

ちょっと白飛びして見にくいですが、いちばん手前に大きな石(セメント)の円盤が横たわっています。


これは全体が南極大陸の地図になっていて、中心に南極点、脇には白瀬中尉が命名した「大和雪原」のプレートがはまっています。


(以下、後編につづく)

白瀬詣で(後編)2019年05月05日 14時27分31秒

(2連投のつづき)



白瀬中尉の墓碑。「南極探検隊長/大和雪原開拓者之墓」と刻まれています。揮毫したのは元侍従長の藤田尚徳氏。



側面に彫られた戒名は「南極院釈矗徃(なんきょくいんしゃくちくおう)」

「矗徃」とは「まっすぐにゆく」という意味のようです。なお、隣に並ぶのは、昭和26年(1951)に亡くなった安(やす)夫人の戒名。反対側の側面には、「昭和三十三年九月四日/吉良町史跡保存会建之」の文字があります。

 

今の豊田市で亡くなった白瀬中尉が、この地に葬られたのは、中尉が亡くなった翌年、次女である武子氏がこの地の中学校に勤務することになり、安夫人も遺骨を携えてここに転居したからです。その後、安夫人も亡くなったため、武子氏はここに遺骨を仮埋葬して東京に転居した…ということが、傍らの説明文には書かれています。




墓碑の向って左手に立つ「白瀬南極探検隊長墓碑建立の由来」碑と、その銘文。


これを読むと、昭和32年(1957)に郷里から親戚が訪ねてくるまで、ここが白瀬中尉の墓だとは、本当に誰も知らなかったみたいで、やっぱり不遇な晩年だったと言わざるを得ません。(今のように墓域が立派に整備されたのは、「ふるさと創生事業」の余得で、あの悪名高いばらまき事業も、ちょっとは世の役に立ったみたいですね。)

 

参考資料として、境内にある他の案内板の文面も掲げておきます。


(白瀬矗隊長略歴)


(南極観測船「しらせ」スクリューの解説)


(オーストラリア・ウラーラ市にある記念銘板の紹介)


なお、瀬門神社は「西林寺」という小さなお寺と隣接しており、最初の埋葬地は、上の説明文にあるようにお寺側だったようですが、現在はそれが神社側に移っているように読めます。


(西林寺山門)

 

   ★

 

白瀬中尉は南極点に立つことはなかったし、その足跡も大陸の端っこをかすめただけかもしれません。でも、彼はたしかに英雄と呼ぶに足る人物です。

 

そのことは、もしアムンゼンやスコットが、白瀬中尉と同じ装備・同じ陣容で南極に挑んだら、どこまでやれたろうか…と考えるとはっきりするのではないでしょうか。

 

試みにその旗艦を比べても、スコット隊の「テラ・ノヴァ号」は、全長57m、総排水量764トン、エンジン出力140馬力。アムンゼン隊の「フラム号」は、同38.9m、402トン、220馬力。対する白瀬隊の「開南丸」は、同33.48m、199トン、18馬力に過ぎません(数値の細部は異説もあります)。

 

一事が万事で、スタートラインがはなから違うので、彼らと比較して云々するのは、中尉にとっていささか酷です。

 

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5月の木漏れ日はあくまでも明るく、緑の風がさわやかに吹いていました。

その中で、中尉が心穏やかに憩っているように感じられたのは、これまた感傷の一種には違いないでしょうが、陰々滅々としているよりは何層倍もいいです。



彗星のメロディ2019年05月08日 21時36分52秒

彗星のアイテムを漫然と探していて、こんな品を見つけました。


「コメット・ラグ」。1910年にボストンで出版された楽譜です。作者はEd. C. Mahony。
探してみたら、ずばり「ハレー彗星ラグ」というのもあって、いずれもハレー彗星の接近を当て込んで作られた曲のようです。

(こちらは未入手)

「ラグ」というのは、「ラグタイム」の略。
19世紀末から20世紀初頭にアメリカで流行った、陽気で明るいアップテンポなピアノ曲がラグタイムで、時代的にはジャズに先行し、その淵源の一つになったと言われます。スコット・ジョプリンの「ザ・エンターテナー」というのが、たぶん一番有名な曲で、聞けば誰でも「ああ、あれね」と思うはず。(YouTubeだと、例えばこちら


それにしても、この彗星のラグたち、いったいどんな曲なのか?
いかんせん楽譜が読めないので、さっぱりです。

…ここで、ふと思いついて検索したら、果たして「コメット・ラグ」も「ハレー彗星ラグ」も両方ともYouTubeにアップされていました。便利な世の中です。

■Comet Rag by Ed Mahony (1910, Ragtime piano)

■Halley's Comet Rag by Harry J. Lincoln (1910, Ragtime piano)

この陽気さも、ハレー彗星騒動の一側面ですね。
個人は知らず、世界に目を向ければ、そこにパニックなどなかったということは、重ねて強調しておく必要があります。

湖上の月2019年05月10日 21時53分26秒

連休明けのウィークデイ。
身体はしんどかったですが、仕事を終えて夕暮れの町を歩いていると、うっすらとした新月が徐々に光を増していく様が、美しく眺められた一週間でもありました。

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意識的に集めているわけではありませんが、月光を感じさせる絵葉書や幻燈スライドを、つい買ってしまいます。これもそんな流れで手にした、月光派のステレオ写真。米イリノイ州の人から買いました。

メーカー名の記載がどこにもないので、たぶん当時(1900年頃)の写真マニアが手作りした品でしょう。右下にペン書きされた文字は、「Moonlight on the Lake」


それにしても、いかにも謎めいた光景です。

オールを手にした白衣の女性と、黒い影法師のような男性を乗せて、ボートは静かに進みます。辺りには幽かな水音と、オールのきしむ音だけが響き、空には透明な光を放つ満月と星たち―。

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この写真をビュワーで覗いたらどう見えるかですが、ステレオカメラで撮ったと思しい湖上の景色は、さすがに立体的に見えます。でも、手描きの星や月は左右が融合せず、ダブって見えます。まあ手作りですから仕方ありません。

(裏面に押された“E. R. DAVIS/BIRD PHOTOGRAPHE[R?]”のスタンプ)

これを作ったのは、「鳥の写真家」を名乗る心優しいデービス氏。
…と言って、デービス氏が何者なのか、彼が本当に心優しいかどうかは、私にも分かりません。でも、彼が堂々たる月光派であることは間違いないでしょう。

天文の世界史2019年05月11日 07時23分14秒

このブログで綴っているのは「天文趣味史」であって、「天文学史」ではないんだ…ということを、これまで折に触れて書いてきました。天文趣味史というのは、過去から現在に至るまで、人々が抱いてきた星への思いや憧れ、いわゆる“星ごころ”をたどる試みであり、学問としての天文学史とは少しく異なるものです。

でも、両者は当然からみあっています。

天文学に新たな展開があれば、人々の星ごころも変化するし、人々の星ごころは同時代の天文学をドライブする役割を果たしたように思います。…と理屈をこねるまでもなく、天文趣味に関心を示す者は、天文学そのものにも関心を示すのが普通なので、私の中でも、両者がサクッときれいに分かれているわけではありません。

そんなわけで、今日は「本当の天文学史」の話題です。

   ★

先日、一冊の天文学史に関する本を手に取りました。
そして大きな驚きを以て読み終えました。


■廣瀬 匠(ひろせ・しょう)著
 『天文の世界史』
 集英社(インターナショナル新書)、2017. 

いったい何に驚いたか?
ここで敢えて問いたいですが、新書1冊で天文学の通史を書けると思いますか?
それも洋の東西を合わせた世界の天文学の通史を、ですよ?
それができるというのは、まったく想像のほかでした。

ネタバレになりますが、そこにはある巧妙な仕掛けがあります。

天文学の通史というと、国や地域別に天文学の発展を述べるとか、古代・中世・ルネサンス等の時代別に輪切りにして語るのが普通でしょう。でも、廣瀬さんの本は、そういう構成になっていません。

この本は、

 第1章 太陽、月、地球
 第2章 惑星
 第3章 星座と恒星
 第4章 流星、彗星、そして超新星
 第5章 天の川、星雲星団、銀河
 第6章 時空を超える宇宙観
 終章 「天文学」と「歴史」

…といった天体別の章立てになっていて、それぞれの対象の捉え方が、いかに時代を追って精緻になってきたかを記しています。と同時に、この章立てそのものが、実は人類の視野の拡大と、天文学の発展の骨格を示しています。上で言う「仕掛け」とは、このことです。

(同書目次より)

つまり、この本は最初に明快な見取り図を示した上で、そこから倒叙的に事態を記しているのです。従来の通史は、この見取り図が完成するまでの曲折を描こうとして、ボリュームが大きくなりがちでした(それもまた意味のある作業でしょう)。でも、廣瀬さんは、そこを大胆にそぎ落とすことで、大幅なコンパクト化に成功したのでした。

   ★

この本が読みやすいのは、もちろんコンパクトだからというのもあります。

でも、それだけではない、生き生きとしたものが文章にあふれていて、読む者を引き付けます。それは廣瀬さんが、現在、スイスで研究と教育に携わる少壮天文学史家であると同時に、一人の天文愛好家でもあって、本書全体のベースに、これまでご自分で空を見上げ、ご自分なりに感じ、そして思索されてきたことの集積があるからでしょう。つまり、文章によく血が通っているのです。

さらに、「天文ソムリエ」としての経験も、込み入った知識を分かりやすく伝える上では、大いに役立っているのだろうと、私なんかが言うのは甚だ僭越ですが、そんな風に思います。

   ★

廣瀬さんとは、以前、ラガード研究所の淡嶋さんと一緒に食卓を囲んだことがあります。のみならず、我が家においでいただき、いろいろなことを教えていただきました。だからといって、私には提灯記事を書く理由も意思もないので、上に記したことは、全て私がそのまま感じたことです。

星に興味がある方、その背後に刻まれた人間精神の旅路に興味がある方に、広くお勧めしたい一冊です。

月は球体なり2019年05月12日 09時28分37秒

一昨日につづき、今日も月のステレオ写真です。
ただし、その表情というか、意図するものはだいぶ違います。


前回の写真に漂うのは、ミスティックな月光と夜空の詩情でした。
今回の写真にみなぎるのは、望遠鏡が捉えた犀利な科学のロマンです。
しかし、意図こそ違え、そこにロマンのベールがかかっている点で、両者はともに天文趣味史を彩る品です。


月のステレオ写真もいろいろですが、自分としては今日の1枚がベスト。


写真も実にくっきりとしているし、何といっても地紙の鳶色と金文字のコントラストが、奥ゆかしくも鮮やかです。

発行元は、バーモント州ノースベニントンに本拠を置いた、ステレオ写真の老舗 H.C. White社。(余談ですが、こちらのページによると、1915年にホワイト社が廃業した際、同社保有のネガを買い取ったのが、ステレオ写真最大手のキーストーン社で、キーストーン社の製品のうち、品番がWで始まるものは、ホワイト社由来のものの由。)


この下弦の月を撮ったのが誰かは説明がありませんが、1905年、あるいはそのちょっと前に、1か月のインターバルを置いて、ほぼ同じ月相の月を撮影して並べたものです。


周縁部に注目すると、月の秤動(首振り運動)によって、嵐の大洋やグリマルディ・クレーターの位置が、明瞭に動いていることが分かります。これをビュワーで見ると、はっきりと球状に見えるのが面白く、そこに100年前の科学のロマンがほとばしるのです。