白瀬詣で(前編)2019年05月05日 14時17分51秒



今から約60年前、昭和35年(1960)は、日本の南極探検50周年にあたり、その記念切手が発行されました。写真はそれを貼った初日カバーです。当時はまだ昭和基地開設から4年目で、南極観測船も「宗谷」の時代です。


今日の話題の主は、記念切手のモチーフとなった探検家、白瀬矗(しらせのぶ、1861-1946)。私の耳には「白瀬中尉」の称が親しいので、以下そう呼ぶことにします。

   ★

白瀬中尉のことを知ろうと思ったら、多くの人はまずウィキペディアの彼の項目を見に行き、その晩年の記述を読んで言葉を失うでしょう。

 「昭和21年(1946年)9月4日、愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)の、白瀬の次女が間借りしていた魚料理の仕出屋の一室で死去。享年85。死因は腸閉塞であった。 床の間にみかん箱が置かれ、その上にカボチャ二つとナス数個、乾きうどん一把が添えられた祭壇を、弔問するものは少なかった。近隣住民のほとんどが、白瀬矗が住んでいるということを知らなかった。」

敗戦後の混乱期であることを割り引いても、一代の英雄の最期としては、あまりにも寂しい状景です。

   ★

唐突ですが、家でごろごろしていてもしょうがないので、白瀬中尉のお墓参りにいくことにしました。家で彼の話が出て、ふとその臨終シーンが浮かび、ぜひ弔わねばいけないような気がしたからです。中尉にとっては甚だ迷惑な、余計な感傷だったかもしれませんが、でもこれは行ってよかったです。

その場所は、逝去の地である豊田市ではなくて、同じ愛知県内の西尾市です。平成の大合併前は、幡豆郡吉良町といいました。西尾市吉良町瀬戸にある「瀬門(せと)神社」がその場所です。


昨日は天気も良くて、中世の吉良荘以来の里の光景がくっきりと眺められました。


行ってみたら、私の感傷は的外れで、白瀬中尉のお墓は地域で大事にされていることが分かって、安堵しました。

(参道から鳥居を振り返ったところ)

深いお宮の森を通っていくと、そこにちょっとした広場が整備されていて、白瀬中尉を記念するスペースになっていました。


画面左手に見える自然石の碑が墓標です。正面の楕円形は、南極観測船「(初代)しらせ」のスクリュー翼で、さらに右手には白い説明板が立っています(その前の竹箒は、ここがよく手入れされている証拠です)。

ちょっと白飛びして見にくいですが、いちばん手前に大きな石(セメント)の円盤が横たわっています。


これは全体が南極大陸の地図になっていて、中心に南極点、脇には白瀬中尉が命名した「大和雪原」のプレートがはまっています。


(以下、後編につづく)

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック