豚供養2019年05月21日 18時09分53秒

豚コレラの終息が見込めません。

そもそも感染経路もまだ不明であり、考えられる対策をすべて施してもなお、新たな感染が発生している状況なので、あとは神頼みに近い感じもあります。巷間言われるように、感染の拡大に小動物が介在しているならば、それを完全に断つことは、確かに神業に近いかもしれません。

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豚コレラの防疫措置、すなわち殺処分の現場は、当然のことながら酸鼻を極めたものです。仔ブタたちは、密閉空間内で二酸化炭素を放出することによって、一度に多数が死に至ります。親ブタたちは、大型の枝切りばさみのような、両側から体を挟み込む形の通電器によって、電撃を3回ないし4回与えられて、最後に薬液注射によって、一頭ずつ絶命させられます。

電撃の際、全身がピンと筋強剛する様も恐ろしいし、通電がうまくいかず、その都度ブタが挙げる悲鳴(それは確かに悲鳴であり、絶叫と呼ぶに足ります)を聞いて、まったく平気でいられる人は少ないでしょう。そして、苦悶の色を目に残して、ずるずると袋に落とし込まれるブタたちの顔、顔、顔…。

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こう言うと必ず、

「じゃあ、お前さんが食ってる豚肉、あれはどうやって作られてるんだね?」
「どうせ豚コレラがなくたって、彼らはいずれ食われちまうんだ。今さら変に善人ぶってどうする。」

という声が出るでしょう。私の心の内からもそういう声が聞こえるし、それはロジックとして正しい気がするので、答に窮します。

「だから、そんな罪深い殺生はやめた方がいいんだよ。」

という肉食廃止論者の人もいます。
それもまた正しいような気がするのですが、でも私が仮に、野に生きる狩人か何かで、野生のイノシシを仕留めて、その場で屠って、肉を食べる場面を想像すると、そこに「むごい」という感情はあまり生じません。それが自然な生の営みの一部として納得されるからです。

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結局、私の感じる「むごさ」の奥には、生類憐み的な感情のみならず、食べるためだけに肥育し、増殖するシステムと、その効率の最大化を進める「巧緻な非情さ」への、素朴な反発があるのだと思います。

近代牧畜業に限らず、古来、牧畜(あるいは広く農耕)というシステムには、やっぱり素の自然からは遠い、不自然なところがあります。もちろん、ヒトが人となり、社会を築いたのはそのシステムのおかげですから、私もそれを否定はしません。否定はしませんが、でも、そこにこそ人の「業」があり、我々は、今後も永く「楽園を追われた存在」として生きていかねばならないことは、繰り返し反芻せねばならないと思います。

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ところで、殺処分の実際を見聞して、一つ奇妙な事実に気づきました。

ブタは、目の前で仲間が殺されても、またその悲痛な声を聞いても、ピクリとも反応しないのです。殺処分が行われているすぐそばの豚房で、何事もないように、ブタたちは餌をあさり、互いにつつき合い、眠っています。子供のころから、屠殺前の動物が、死の予感におびえて恐怖する…という話を耳にしていたので、ブタたちがそうした素振りを露ほども見せないことに、違和感を覚えました。

ただし、そんなブタたちが、唯一恐怖を示すことがありました。
他のブタの群れから引き離されることです。

上記のとおり、ブタたちは一頭ずつ「処分」されるのですが、その際、同房のブタたちから引き離されることを、彼らはひどく恐れ、激しく逃げまどいます。でも、一頭だけ別区画に追い込まれてしまえば、さっきまでの恐慌が何だったのか、何事もなかったように、また餌をあさり始めます。

そんなブタたちの姿に、今の日本人を重ねて、別の意味で恐怖を感じた…と書くと、シニカルに過ぎるかもしれませんが、でも、正直その思いを抑えかねました。

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まあ、私の余分な感想はともかく、その後、鹿児島県立博物館で見た説明文(家畜化に伴うブタの知能低下)を思い出して、ブタたちの振る舞いも大いに頷かれました。


確かに野生の状態でああだったら、とても生き延びることはできないでしょう。しかし、これまた人間の業の深さを物語る事実だと思います。