教養を弁ず2019年05月26日 10時36分46秒

しばらく風邪で臥せっていたので、記事を書けずにいました。その後、身体は復調しましたが、どうもなかなかノンビリ記事を書く気になれない世の有様です。

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日米首脳の顔を思い浮かべ、つくづく思うのですが、為政者がこれほどまでに学問や教養を蔑ろにし、むしろ、それを公然と嘲弄するなどということは、かつてなかったのではありますまいか。まあ、歴史は多様ですから、本当はあったかもしれませんが、現状はそれに伍すると思います。

他国のことはさておき、今の日本は「忖度」流行りだそうで、要は国を挙げて幇間曲学阿世の徒ばかりになってしまっています。そして、学を曲げて世におもねる男女が、かほどに横行するのは、為政者が学界と学者を目の敵にして、苛めまくっていることと、まさにオモテ・ウラの関係です。学問を軽視して国が栄えたためしはありませんから、為政者からすれば、これは自分の首を絞める行為のはずですが、そんなことは気にしないのが、無学の無学たる所以なのでしょう。

…とエラそうに言う資格はなくて、私もすこぶる無教養な人間ですけれど、少なくとも教養を重んじようという構えがある分、そこに少なからず違いがあるわけです。

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新潮選書に入っている、福原麟太郎氏『読書と或る人生』(1967)を読み返していたら、

 「〔…〕必ずしも、たのしみまたはくつろぎのためではなく、教養として読書をするということがあるはずである。たしなみのためと言ってよい。〔…〕そしてたしなみとして読んでおくというつもりで、読んでいるうちに面白くなって、たのしみに読む本と区別がつかなくなるなら、その人はすぐれた読書家である。」 (p.14、太字は原文傍点)

という一文があって、「たしなみ」という語に、虚を衝かれた思いでした。そして、これまた最近失われてしまった心組みだなあ…と感じました。

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「教養」という語には、ややもすると皮相な響きがあります。
人によっては、対社会的なアクセサリーのように受け取っている向きもあるかもしれません。でも、本来の教養は「たしなみ」であり、自分を支える根となるものでしょう。

教養がなくても、ちっとも困らない…という人もいます。それも真実かもしれませんが、でも教養がないと困るような生き方こそ「本物」じゃないかなあ…という気もするのです。真実を求める探求心とか、善く生きようとする倫理心とか、人が生きる上で、その根っこになるものはいろいろあるでしょうが、教養というのも、確かにその一つだと思います。


ちょっと眼を休めるものが欲しいと思って、庭に生えている植物を壜に活ける際、枝だけ切ってくるのと、根っこから抜いてくるのでは、結果がまるで違います。根のある植物は非常に強くて、何週間でも何か月でも、生き生きとしています。

根っこあるものは強い―。
教養もまたそうしたものでしょう。

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柄にもなくお説教口調になっているのは、福原博士の本を再読し、自省するところ甚だ大だったからです。

この本は、さっきアマゾンのマーケットプレイスを見たら、1円から出品されていて、ちょっとしょっぱい心持になりましたが、その気になれば、誰でも簡単に読めるのは良いことです。

福原博士は明治27年(1894)の生まれ。大正初年に東京高等師範学校に進み、戦前から戦後にかけて長く英文学者として、大学で教鞭をとられた方です。東京高師での師匠は、岡倉天心の弟である、岡倉由三郎(1868-1936)で、『読書と或る人生』には、そのことが再三出てきます。博士が亡くなられたのは昭和56年(1981)ですから、私がこの本を読んだ高校生の頃は、まだご存命だったわけで、そんな明治・大正の風が、私のところにまで細く、でも確実に吹いていたことを、ちょっと誇りに思います。

かつての大正教養主義の最良の部分が、この本には静かに満ちて感じられます。