石の物語を聴く ― 2019年06月01日 07時22分36秒
「時計荘」の島津さんから、催事のご案内をいただきました。本日より開催です。
■時計荘×東京サイエンス 「鉱物夜市」
○会期 2019年6月1日(土)~6月30日(日)
10:00~22:00
○場所 三省堂書店池袋本店4階 Naturalis Historia
東京都豊島区南池袋1-28-1
思えば島津さんとの交流もずいぶん長くなりました。私はその創作活動の初期から現在まで、ずっと仰ぎ見てきたことになります。
もちろん、私自身は鉱物結晶を使って何かを創作することはなくて、ただ並べて楽しむぐらいのものですが、でも、そうした創作の背後にある観念や、心の動きには少なからず興味があります。
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改めて思うに、島津さんの創作活動は、きわめてユニークなものでありつつ、決して孤立した存在ではなく、むしろ長い文化史的伝統の中に位置づけることができるように思います。
石の表情の向こうに別の世界を垣間見る、あるいは石を使って別の世界を創出するというのは、東洋ではずいぶん昔から行われてきたことです。たとえば、伝統的な水石趣味や、さらにその一分科である盆石趣味などは、石を中心に据えて、箱庭的な心の風景を作るという点で、島津さんの鉱物ジオラマときわめて近い関係にあるものでしょう。
たしかに、盆石趣味はいかにも“侘び寂び”で、幻想的な島津さんの作品世界とは、ずいぶん異なる感じがします。でも、石の向こうに別の世界を覗き見るというのは、東洋に限らず、ヴンダーカンマーでおなじみの風景石もそうですし、シュティフターの連作『石さまざま』(1853)なども、まさに「石で物語を紡ぐ」という点で、その根は共通しています。
古来、石は人のイマジネーションを強く刺激し、ストーリーを喚起する力を有しているのだ、そうした石と人とのかかわりの長い歴史の一コマに、島津さんの作品もまたあるのだ…というのが、今私がぼんやり考えていることです。
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ときに、私自身は、鉱物標本をただ並べて楽しむだけだ…と書きました。
でも、こうして並べて楽しむ行為も、実はそれによって自分だけの「石物語」を描こうとする試みに他ならないんじゃないかなあ…と、ふと思いました。
稲垣足穂の小説『水晶物語』には、昔ながらの弄石趣味を激しく嫌悪すると同時に、理科室に置かれた鉱物棚に魅了され、尋常ならざる努力によって、それを自ら再現しようとする少年(足穂の分身)が登場します。そこでは床の間チックな石道楽と、科学の香り高い鉱物趣味が対比され、足穂少年の嗜好の在り様をうかがうことができます。でも、一歩ひいて眺めると、両者の距離はそれほど大きいわけではありません。石道楽が一種の文学的営為ならば、足穂少年の試みも、理科室趣味という名の文学的営為に他ならないからです。少なくとも、私の場合はそう呼ばれる資格が十分あります。
しかし、そうした営みを、「本当の鉱物学」に比して、一段低いものと見ることはできないでしょう。というよりも、プロフェッショナルな鉱物研究にしても、そこにはなにがしか文学的色合いがあるのではないか…と、私は大いに疑っています。
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「石というのはそういうものなのだ。それが石の魅力なのだ」と、言ってしまえばそれまでですが、その秘密の一端は、鉱物は動物や植物と違って、細かく分割しても、その相同性が完全に保たれるという特質にあるのかもしれません。
鉱物というのは、たとえ微晶であっても、堂々たる巨晶と同じ表情をしています。いや、表情ばかりでなく、それは実際に同じものと言ってもいいでしょう。メキシコにある巨大水晶の洞窟の奇観、あれは確かにすごいですが、でも指先ほどの水晶の群晶であっても、結晶の性質そのものは、何も変わりがありません。鉱物はまさに「一にして全」なのです、
(ウィキペディア「クリスタルの洞窟」の項より)
(差し渡し35mmの目くるめく結晶世界)
鉱物は、ごく小さな標本であっても、その向こうにある広大な世界をたやすく想像できるし、それだけ一層、細部に宿る神の息遣いを感じさせてくれます。
島津さんの作品の魅力――ミニチュアの人や建物とともに配された鉱物標本の味わい――も、そこに発している部分がおそらくあるでしょう。
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石の魅力は語れば語るほど出てくるので、こんな不得要領な片言隻句で何かを言った気になってはいけませんが、一枚のハガキに触発されて、個人的に思ったことを書きつけました。
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