ペンギンの翼2019年07月16日 06時24分10秒

暑い夏を熱くする政治の話題も大切ですが、今日は涼しくペンギンの話。


ガラスシャーレに載っているのは、「ペンギンの翼
…という名前の二枚貝です。

和名はマベガイ。養殖真珠の母貝であるアコヤガイとは、同じウグイスガイ科の兄弟、そして食用にされるカキ(こちらは同じカキ目のイタボガキ科)とは、従兄弟のような関係になります。

学名の「Pteria penguin」は文字通り「ペンギンの翼」の意味で、英名も「ペンギンズ・ウィング・オイスター」。その名の由来については、説明不要でしょう。まさに名は体を表す。


この貝殻は磨きをかけてあるので、裏も表も美しい遊色が出ています。


まさに極地に出現するオーロラのようです。
その美しさから、マベガイは貝細工の原料とされ、また真珠母貝としても利用される由。

実際の生息地は南極ではなくて、温暖な西太平洋~インド洋です。
まあ、その出自は寒暑いずれにせよ、夏こそ恋しくなる海からの贈り物。

天文古玩選: 世界は渦巻く2019年07月18日 07時51分21秒



彼は例によってもじゃもじゃの頭を掻きながら、ぼそぼそ呟いた。

「そう、銀河全体のことを考えれば、地球という微粒子上の、さらに小さな一区画で何が起ころうが、あまり大した問題ではないんですよ。」

私が何か言いたそうにするのを見て、彼は続けた。

「ただ問題はね、うなりを上げて旋回する巨大な銀河よりも、コップの中の嵐の方が、コップの中の住人にとっては、はるかに大きな影響を及ぼすってことです。」

(この銀河模型については、http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/06/16/5167091 を参照)

「それに―」と、彼はここで少し遠くを見るような目をした。

「このちっぽけなコップでも、そこに含まれる点の数は不可算無限であり、銀河どころか宇宙全体に含まれる点の数とも等しいのですよ。ええ、別に比喩的な意味じゃなしに、あなたが今手にしているコップ、そのコップでも同じことです。コップの中には嵐も吹くし、宇宙全体をすっぽり収めることだってできる。」

「なるほど。たかがコップ、されどコップってわけですか。」

「ええ、コップを侮っちゃいけません。」

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上の文章は、「世界は渦巻く」と題して、2017年5月20日に掲載した記事の一部です。
我ながら含蓄のあることを言っている気がしなくもない。

インド占星術は政界の風を読む2019年07月20日 12時59分01秒

今年の1月に書いた記事の中で、インドにおける占星術の隆盛について触れました。

■インド占星術の世界
インドでは、古代から発展を続けた占星術が、現代でもなお生き続けており、人々の生活の一部になっていることを、矢野道雄氏の著書を引きながら、メモしたものです。その内容は1990年代の話でしたが、2019年現在でも状況は変わらず、むしろいっそう過熱しているのではないか…とすら思えます。

   ★

それは、たまたま下のようなページを目にしたからです。




時節柄、選挙と天文に関して、三題話的なことでも書ければ…と思って、ネット上を徘徊していたら、突如インドのモディ首相の写真がバーンと出て、そこに「2019年ローク・サバー選挙予測: ガネーシャの正しさを知れ」というタイトルが踊っていました。

ローク・サバーというのは、インド連邦議会の下院で、日本でいえば衆議院に当たります。そして、今年はインドも総選挙の年で、5年ぶりにローク・サバー選挙があったという話。

で、上のページ自体は、「GaneshaSpeaks.com」という占星術の総合サイトに含まれていて、記事の書き手は、選挙に先立って同社が占った結果が恐ろしく当たったぞ!…と、縷々(るる)強調しているのでした。(選挙は4月11日から5月19日にかけて行われ、上の記事は5月24日付です。)

本当に当たったのかどうかは、正直よく分かりません。
文中に出てくる占星術用語はちんぷんかんぷんだし、インドの政界事情にも疎いのですが、運営側は、「占星術の奥深さと、ガネーシャのすばらしい予測精度をとくとご覧あれ(Read on to know the depth of Astrology and the super quality of Ganesha's predictions)」と、自信満々です。

それほどまでに当たるならば、明日の選挙結果もぜひ占ってほしいですが、まあ、こればかりはインドの叡智と伝統も、多少割り引いて考えねばならないでしょう。

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ときに、ローク・サバーを知るために、ウィキペディアを覗いたら、2019年の選挙結果が興味深かったです。545議席中303議席を得た「インド人民党」は、日本の自民党みたいな存在でしょうが、その後のロングテールぶりがすごいです。

「インド人民党」、「インド国民会議派」、「ドラーヴィダ進歩党」、「トリナムール(草の根)会議派」に始まって、そこに並ぶ組織・政党名は、実に36(「無所属」を除く)。
「解放パンサー党」とか、「ナガランド人民戦線」とか、「全ジャールカンド州学生組合党」とか、「シッキム革命戦線」とか、1議席だけの諸派も15を数えます。

まさにインド亜大陸の多様性を、目の当たりにする思いです。
日本も多党制の国だとはいいますが、インドと比べれば、まだまだですね(何が「まだまだ」なのか、自分でもよく分かりませんが)。

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さらにインドの外に目を向ければ、世界はいっそう広く、多様です。
時間軸に沿って眺めれば、その多様性は常に変化を続け、まるで万華鏡を覗いているようです。

今の日本で起こっていることも、その1コマであり、その1コマに過ぎない…と達観することで、いくぶん精神衛生が向上する気はしますが、それにしても、日付が変わって万華鏡がヒョイと回った時、いったいどんな光景が見えるのか、今から気もそぞろです。

天体議会の世界…カレイド・スコープ2019年07月21日 08時10分29秒

長野まゆみさんの『天体議会』
この1991年に発表された小説のことは、かつて集中的に取り上げました。それは作中に登場するモノを現実世界に探し求めるという、何だか酔狂な試みでしたが、その試みは途中で中断したままです。

唐突ですが、今日はいきなり最終章「五 水先案内」に飛びます。

舞台は年が明けたばかりの寒風の季節。今年最初の天体議会(=生徒たちによる天体観望会)の招集が決まり、午後7時からの開会を前に、主人公のふたりは、埠頭をぶらついて時間をつぶします。そこで、彼らはあの第三の主人公、自動人形(オートマタ)めいた謎の少年に再び出会うのです。

   ★

 身動きもできないほどの、その人いきれの中で、銅貨と水蓮はまた例の少年を見かけた。白い端麗な顔をして、ひとりで歩いている。 〔…〕

 「何か探してるのか。」
 はじめに声をかけたのは水蓮だった。少年は、はッとしたように顔をあげて、水蓮のほうへまなざしを向けた。彼は古びた三角の筒を手にしている。
 「小石や硝子片を探しているのさ。釦(ボタン)のかけらや、貝殻屑でもいい。」
 「何のために。」
 「この万華鏡(カレイド・スコープ)の中へ入れて船旅のお守りにする。ほら、もう随分集まった。」
 少年は三角の筒を振って、カシャカシャと音を立てた。 
〔…〕


 「南へ行くのか。」
 水蓮はもう一度、念を押す。
 「行く、」
 簡潔だが余韻を残した云いかたをして、少年は口を噤んだ。ことばは沈黙の中にのみこまれてしまい、彼はしばらくしてから付け足すように微笑んだ。それがひどく淋しそうに見えたので、銅貨は少年の持っている万華鏡のために何かを提供してもよいと思った。〔…〕水蓮は水蓮で、すでにネクタイから抜いたピンを手に持っていた。彼が最近作ったものでクリストバル石の淡碧(うすあを)い剥片を使ってある。彼はその剥片を少しだけはがして、少年に差し出した。銅貨はシャツの貝釦を取って小さく砕き、それを少年の持っている万華鏡の中に入れた。 
〔…〕

(ボディは鴨の羽色のマーブリング柄。3枚のガラス板を銀細工で留めてあります。)

 「中を覗かせてくれないのか。」
 水蓮は少年の万華鏡を指して訊ねた。銅貨も気になっていたことだ。ふたりで少年に注目していたが、彼は首を振った。
 「これは旅する者の特権。船に乗ってから、そっと覗くものなのさ。」 
〔…〕

(“Eido U.S.A.”のサインが銅板に彫られています。Eido氏の正体は今も不明)

 少年たちは別れの挨拶ひとつしなかったが、その必要もなかった。客船は沖へ向かい、まるで水先案内(カノープス)に導かれて南へ行くように見えた。〔…〕靄はだいぶ濃くなり、船体はほとんど見えない。ただ、燈の点った窓が揺れ動いている。
 銅貨と水蓮は、遠ざかり見えなくなる船が、暗い海の涯てに消えてしまうまで眺めていた。

   ★

万華鏡の登場は、昨日自分が書いたことに触発されたものです。“万華鏡”と文字にして、「そういえば…」と、昔の自分の企てを思い出したわけです。

残念ながら、作中の万華鏡と違って、この品はオブジェクトを入れ替えることができません。中身も昔ながらのガラスビーズだけという、単純なスコープです。でも、その素朴さゆえに、どこか懐かしい、いかにも万華鏡らしい光景を見せてくれます。


   ★

こうして作中の万華鏡は、少年たちの奇妙な友情の証として遠い世界に旅立ち、私も昨日は久しぶりに万華鏡を覗いて、いろいろ物思いにふけっていました。

(次の記事へと続く)

万華鏡を覗き、そっと目を離せば2019年07月21日 08時22分59秒

(本日2投目です)

万華鏡を手にボンヤリ考えたこと。

万華鏡を覗く人は、目の前に展開する美しい光景に心を奪われます。
でも、もし仮に万華鏡の中しか知らない人がいたら、彼はその無限に変化を続ける光と色と形のパターンこそが、世界の全てだ…と思ってしまうでしょう。そして、

 「私はこれまで実に多くの光景を目にした。それらは互いに驚くほど違った相貌を持ち、等しく私の心に深い印象を残した。私はこれまで何と多くの経験をしたことだろう…。ひょっとしたら、もはやこの世界に、自分が新たに学ぶことは無いのではないか?」

…という慢心を抱くかもしれません。

   ★

彼は大きな見落としをしているのです。
すなわち、彼が無限と感じたパターンの連なりは、3枚の合わせ鏡と、ごく少数のオブジェクト(内容物)によって生み出された「ちっぽけな無限」に過ぎないことを。

人間の認識そのものが、あるいは似たようなものでしょう。
万華鏡における3枚の合わせ鏡は、人間がそこから逃れられない認識の枠組みです。そしてオブジェクトは、人間に認識できる、ごく限られた対象です。人間は、認識の万華鏡をくるくる回して、いっぱし世界を知り尽くした気になっていますが、もちろんそんなことはないのです。

これは哲学者たちが認識論と称して、昔から侃々諤々やってきたテーマですが、議論よりも何よりも、実際にこの「認識の万華鏡」からそっと目を離したら、いったい何が、どんな光景が見えるのでしょうか?

想像するに、それは決して言葉にならない経験であり、お釈迦さまが「悟り」と呼んだものに通じるのでしょうけれど、もちろんこう書いたからといって、何一つ分からないことに変わりはありません。

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まあ、こんなことを考えるのは暇人の証拠で、「下手の考え休むに似たり」でしょうが、でも、人間はとかく慢心しやすいものですから、時にはこんなふうに己の限界を省みた方がよいのです。

万華鏡は単純な玩具に過ぎないとはいえ、その示唆するところはなかなか深遠です。
人生という船旅のお守りに、ひとつ手元にあっても好い。

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さて、選挙です。
悟りの道は遠けれど、このちっぽけな無限世界に、ちっぽけな影響力を及ぼすことは、ちっぽけな私にもできますから、ちょっと行ってきましょう。

石の色(1)2019年07月24日 21時31分42秒

学校の夏休みが始まり、梅雨が明け、空はあくまで青く、雲はあくまで白く。

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今から3年前の夏に、神奈川県の横須賀美術館で、いかにも夏休みらしい企画展がありました。「自然と美術の標本展」と題された、この展覧会のことは、リアルタイムで話題にしました(→ リンク)。


そこには、フジイキョウコさんの幻のように美しい鉱物展示があり、橋本典久さんによる巨大昆虫写真の展示があり、江本創さんによる幻獣の展示がありました。そして、これら標本とアートの接点をさぐる試みの中に、鮮やかといえば、これ以上ないぐらい鮮やかな展示がありました。


画材ラボ・PIGMENTさんによる、伝統画材の展示です。
そして、これまたやっぱり鉱物に関係があるのでした。
鉱物は人類の歴史とともにある古い画材のひとつであり、西洋でも東洋でも、長いこと無機顔料の主原料だったからです。

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日本画の世界では、これを「岩絵具」と呼びます。

岩絵具は、文字通り岩を原料にした絵具です。赤い辰砂、青いラピスラズリ、緑の孔雀石など、鮮やかな色の鉱物を粉砕して、その粉を絵具として用いるものです。

ただし、これは元はそうだったということで、今では人工的に作られた製品が幅を利かせています。これを「新岩絵具」と称します。それに対し、昔ながらの岩を原料にしたものは、「天然岩絵具」と呼び分けられます。(新岩絵具は、いろいろな色の金属酸化物を溶かした一種の色ガラスを、天然の岩石と同様に粉砕して製したものです。)

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この美しい「石の色」を、実際に手にとって愛でたいと思いました。
幸い、画材屋さんでは、今も天然岩絵具のセットを扱っています。絵筆をふるうわけでもないのに、決して安くはない岩絵具を買うのは、無駄といえば無駄ですが、鉱物趣味から派生して、そうしたいと思う人がいてもおかしくはないでしょう。


私が送ってもらったのは、京都の伝統画材メーカー、ナカガワ胡粉絵具(株)さんが製造した天然岩絵具48色セットです。(→ リンク


岩絵具には、鉱物種による色相の違いと、粒径による明度・彩度の違いがあって、粒径が大きければ色は濃く、小さくなるにつれて白っぽくなります。このセットは、24の色合いについて、濃いめの「8番」と薄めの「12番」を組み合わせたものです(一部は「12番」の代わりに、さらに薄い「白(びゃく、14番の通称)」が入っています)。

私が好きな緑や青も、これが石そのものの色か…と思うと、いっそう興趣が増すし、


水晶の純白色なんて、見た目だけでなく、イメージからして凛と涼しげです。

(この項つづく)

贅言:選挙のあとさき2019年07月24日 21時54分53秒

色と言えば、選挙が終わって、自分の中に少しほっとした色が見えます。

立憲民主党の躍進と、自民党の勢力後退が目立ったし、改憲勢力が3分の2を割り込んだことも、胸をなでおろした理由です。まあ、与党支持者が言うように、与党が改選議席の過半数を制したことも事実なので、客観的に見れば、痛み分けでしょう。

しかし、はげしい攻防の中で、今回の選挙が残した最大の果実は、何と言っても「れいわ新選組」の誕生です。個別具体的な政策以上に、彼らの運動は、無党派層の学習性無力感(=失敗経験の連続が作り出した無気力状態)を打ち破ったという点に、その最大の意義があったと思います。人々は今回新たな学習をし、そして意識のありようを大きく変えました。これは非常に大きな出来事です。

れいわが今後も政界の台風の目となることは間違いないでしょう。
私も彼らの「庶民ファースト」の主張を支持して、1票を投じたので、今後の活躍を大いに期待しています。

ただ、自民党についてよく言われるように、私はれいわに対しても「白紙委任状」を与えたわけではありません。具体的に言えば、今後、彼らが<外交>について何を語るのか、その点に深く注目しています。

日本を切り売りする現政権との対決姿勢を強めた先にあるのが、トランプ氏のお株を奪うような、身も蓋もない「ニッポン・ファースト」でない保証はないからです。

石の色(2)2019年07月26日 06時55分05秒

岩絵具の話のつづき。


この繊細な色合いと、ずらっと並んだ標本感に、私は言い知れぬ魅力を感じますが、鉱物趣味の観点からこのセットを眺めた場合、ひとつ不満が残ります。
それは原料の鉱物種が不明なことです。


絵具の中には、「黒曜石末」とか、「岩辰砂」とか、鉱物名をそのまま色名にしたものもあるのですが、それ以外は「柳葉裏」とか、「朽葉色」とか、優美ではあるけれど、元の鉱物名とは無縁の名前が付いています。この点は、メーカーであるナガガワ胡粉絵具さんのサイトを見ても同様で、そこにも原料鉱物の解説はありません。

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でも、ふと気づきました。
岩絵具の色は、鉱物の微粉末の色であり、それは結局「条痕色」と同じだと。

鉱物趣味の方はご存じでしょうが、条痕色とは鉱物種を判別する手掛かりの一つです。鉱物を素焼きの板(専用の条痕板や、茶碗の糸底など)にこすりつけると、鉱物によって特有の色が出ることから(出ないものもある)、その素性を知るヒントになるというもの。塊としての鉱物の色と、条痕色は一致するときもあるし、一致しないときもあって、条痕色のメカニズムは、なかなか奥が深いです。

条痕色に思い至ったのは、我ながら上出来。
ここで具体的に、鉱物と条痕色の対応を知るために、取り急ぎ以下の本をアマゾンで注文しました。

(松原聰、『図説 鉱物肉眼鑑定事典』、秀和システム、2017)

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ただし――と、急いで付け加えますが、岩絵具の奥深さは、岩絵具の色と鉱物種が1対1対応しているわけでもない点にあります。

たとえば、緑系の岩絵具の原料は、ほぼ孔雀石(マラカイト)一択ですが、ひと口に孔雀石といっても、その色味は多様ですし、人工的に加熱することによって、さらに黒みを増すこともできます。他の色も同様で、多くの場合、1つの鉱物種はいろいろな色に対応しています。

そのことは、岩絵具の歴史を知るために、本棚から下の本を引っ張り出してきて、パラパラ読んだら分かりました。さらに、鉱物質の顔料としては、岩絵具のほかに、土を原料とした「泥絵具」も重要だとか、日本で「新岩絵具」と呼ばれる、色ガラスを原料にした顔料も、西洋では15世紀には使用が始まっており(青いコバルトガラスを原料にした「スマルト(花紺青)」)、その歴史は長い…とか、岩絵具とその周辺の話題は、なかなか尽きないのでした。

(クヌート・ニコラウス(著)、黒江光彦(監修)、黒江信子・大原秀之(訳)『絵画学入門―材料+技法+保存』、美術出版社、1985 /東京芸大大学美術館『よみがえる日本画―伝統と継承・1000年の知恵』展図録、2001)

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これで、今年の夏の自由研究のテーマは決まりです。
この夏は石の色の謎を追って、涼やかに過ごせるといいのですが、あんまり入れ込むと暑くなってしまうので、その辺の力加減が難しいです。


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【余談】

ときに、「色って本当にあるのかな?」…と疑問に思ったことはありませんか。

色はたしかに物理的基礎を持っています。それは光のふるまいによって生まれる性質であり、物理学の言葉で客観的に記述することができます。

と同時に、「色そのもの」は「色彩経験」としか呼べない性質も有しており、純然たる主観世界の住人のようにも思えます。たとえば、赤いリンゴの「赤さ」は、リンゴの側ではなく、我々の心の側にあるのではないか…という気もします。

この辺の事情は、たぶん色彩心理学の分野で、詳しい概念整理が行われてきたと思いますが、結論から言えば、「色」とは主観と客観が出会うところに発するものでしょう。

禅宗のお坊さんは、手をポンと叩いて、「今の音は右の手から出たのか、左の手から出たのか」と謎をかけたりしますが、「色」もその類で、主―客接するところにポンと発するのが色なんじゃないかと思います。

「これぞ色即是空、空即是色のことわりなり」…とか言うと、ちょっと尤もらしいですね。

星の色2019年07月27日 18時02分29秒

肉眼で見る星は、一部の例外を除いて、だいたい白っぽいです。
人間の目は、暗い対象には色覚がうまく働かないからです。大口径の望遠鏡で光量を集めれば、だんだん色味も感じられてくるのでしょうが、それにしたって鮮やかな天体写真のような具合には、とてもいきません。

それでも、19世紀以降の天文趣味人は、星の色に強く惹かれ、望遠鏡を使って空の宝石箱を眺めることに喜びを見出してきました。

特に色を感じやすいのは、二つの星の対比効果によって、色合いが強調される場合です。旧来の二重星ファンは、たぶん二重星という存在への興味よりも、その色彩に興味を持って観望してきたように思います。

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ときには、その喜びを家族や友人で分かち合うための幻灯会も催されました。
星好きの人にとっては、曇りや雨の晩の恰好の慰みだったでしょう。
そんなふうに想像したのは、実際にそうした幻灯スライドを見つけたからです。


暗黒の空をバックに光る、うしかい座エプシロン星
赤色巨星に寄り添う青緑の星が美しい二重星です。


その実体は、黒いラシャ紙に半透明の色紙を貼り付けたお手製のスライド。
そう、星の幻灯会は、こんなにも簡単な工夫で上演できるのでした。
幻灯スライドといえば、写真だったり、手描きの凝った絵だったりというのを見慣れていたので、最初見たときは、虚を衝かれた思いがしました。


こちらはカシオペヤ座エータ星。本によっては「黄色の主星とオレンジ色の伴星」と書かれますが、ここでは白色とルビーとして表現されています。


星群(アステリズム)のかたわらで、ひときわ鮮やかな深紅の星は、ミラ型変光星のひとつ、うさぎ座R星。その大きな光度変化は、死を迎える間際の星の荒い息遣いに他なりません。


オリオン座シータ星
オリオン座大星雲中のいわゆるトラペジウム。複雑な多重星です。



フレームには「カシオペヤ座シグマ星」とラベルが貼られています。
でも、同星は確かに連星ですが、美しい色合いで有名だとは聞きません。
このオレンジと青は、どうみてもアルビレオはくちょう座ベータ星)だと思うんですが、今となっては詳細不明。

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これらの素朴なスライドは、一括して「Stars & Glusters」(星ときらめき)というシールが貼られた元箱に入っていました。国はイギリス、時代はたぶん19世紀末~20世紀初頭頃。


その晩の賑わい、歓声とため息を想像すると、100年後の私まで何だか愉しくなってきます。


【関連記事】

■天空の色彩学(その1)
■(その2)
■(その3)

「NEAF 2019」に居並ぶアンティーク望遠鏡2019年07月30日 09時04分29秒

今年も蝉時雨の夏到来。
風に吹かれる空蝉や、羽化に失敗したむくろを目にして、いろいろ物思う季節でもあります。

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さて、NEAFというのは、「Northeast Astronomy Forum」の略で、アメリカ北東部のアマチュア天文家を主体とする天文イベントです(主催はロックランド・アストロノミー・クラブという非営利団体)。多くの機材メーカー、天文関係の出版社、天文団体がブースをつらね、そこに天文ファンが詰めかけて交流を深め、ときに商談に及ぶという、お祭りとビジネスショーを兼ねた催しです。

これは今年に限りませんが、アンティーク望遠鏡協会(ATS)は、今年もニューヨークで開催された「NEAF 2019」にブースを出し、会場に一種独特のムードを醸し出していました。その動画が以下。(画像は単なる切り貼りなので、その下のリンクをクリックしてください。)


この手の催しでは、最新鋭の機材に注目が集まるのが世の常。
そこに敢えて真鍮製の古望遠鏡を並べるのは、奇抜といえば奇抜だし、偏屈といえば偏屈です。まあ虚心坦懐に言って、色物的ブースといっていいでしょう。

アンティーク望遠鏡マニアは、世界的に見て、たぶんアメリカに最も多くいると思いますが、その本場のアメリカでも、アンティーク望遠鏡趣味自体が、かなり特殊でマイナーな立ち位置であることは否めません。

まあ、アンティーク望遠鏡マニアにしても、かく言う私にしても、別に世のため人のため趣味にいそしんでいるわけではないですが、そうした「記憶の番人」がいなくなると、世の中は妙に薄っぺらくなってしまう気がするので、ここは偏屈だろうが何だろうが、己の感覚を信じて、趣味に邁進して吉…と信じます。

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それに、100年前に放たれた星の光を、100年前の望遠鏡で覗くなんて、それだけでも素敵じゃないでしょうか。レンズの向こうの星の輝きと、真鍮の鏡筒の輝きの対比――それこそ、人類と星がこの時空をともに旅していることの証と感じられます。