あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」について考える2019年08月03日 12時02分59秒

今、話題の標記展覧会。
いろいろな意見を眺めていて、気になったことを書きつけます。

ただし、「国辱」とか、「反日」とか、「胸糞悪い」とかは、単なる感情の発露であって、「論」とは言えないので、ここでは取り上げません。ここでは、目についた以下の3つの論について、私見をメモ書きします。


(その1)
「あれを展示するんだったら、〇〇も展示したらどうだ」論

これはまったくその通りで、それを拒む理由はありません。
ただし、今回はいったん展示されたものの、何らかの理由によって展覧会から撤去された作品群というくくりなので、それに合致する必要があります。また、それは提案としては「あり」ですが、強制できる性質のものでもないでしょう。

(「展示したくても展示を拒否された作品もあるぞ。それも表現の不自由を表しているんじゃないの?」という意見もあると思います。それもまた別に考えないといけません。)


(その2)
「表現の自由と言うなら、ヘイトも認めるんだな」論

これは「表現の自由」の論理を貫徹すると、そういうことになります。
つまり、ヘイトスピーチをしている人が「これが俺の表現だ」ということは自由だし、表現の自由に基づいて、ヘイトを表現することは本来自由です。(この点で、私と意見を異にする人も少なくないでしょう。でも、表現の自由を突き詰めると、そういうことになるはずです。)

ただし、ここでハッキリさせないといけないことがあります。

表現の自由を認めることと、表現の内容を是認することは、全く別の次元の話だということです。以前挙げた例だと、私は誰かが「地球は平たい」と主張する自由は認めますが、同時に地球は平たいという説には反対です。両者は全く問題なく両立します。ヘイトも同じことです。私はヘイトを叫ぶ自由は認めますが、ヘイトには断じて反対です。

「でもさ、現実にあちこちでヘイトに対する法規制が進んでいるじゃない。あれは表現の自由に対する脅威じゃないの?」と思う人もいるでしょう。もし、これが「ヘイトは絶対悪だから規制する」という主張だったら、確かにその通りです。それは表現の自由に対する脅威以外の何物でもありません。

しかし、現実の法規制は、「ヘイトが悪だから」という何やら神学論争めいたものではなくて、それが他者の私権を侵害しているから存在するのです(と、私は理解しているのですが、違っていたら教えてください)。

各種のハラスメントや、さらには暴行・傷害・殺人まで「表現」と呼ぶ人がいてもおかしくはないですが、それが禁じられるのも同じ理由です。それは表現の自由に対する規制ではなく、私権侵害に対する規制です。

「じゃあ、あの少女像だって、俺の私権を侵害しているぞ。あれのせいで俺の感情はいたく傷つけられた。俺の平穏な生活が脅かされたことはどうしてくれるんだ」という意見もあるでしょう。それも論として十分成り立っているので、そう主張するのも自由だし、「像の撤去と損害賠償を求めるぞ」と実行に移すのももちろん自由です。それにしたって、日本では自力救済が認められないので、判断は司法にゆだねなければなりません。


(その3)
「税金を使ってあんな展示をするのはけしからん」論

納税者の権利として、そう主張することは問題ありません。というか、大事なことだと思います。私だって「〇〇に無駄な税金を使うなんて!」と、国を非難したことは数知れません。

問題は「あんな展示」を支持する人も多いことです。そうした中で、自分の主張を絶対視するのはバランスを欠きます(これは私自身についても当てはまります)。バランスを欠こうが何だろうが、自分の主張を貫くのも「あり」ですが、「支持する人もいる」ことも、しっかり念頭に置いてほしいです。

「こんなものに俺の税金を使うな。その分返せ」というのは心情的には理解できますが、通らない意見でしょう。ましてや意見が割れているのに、「俺は反対だから、俺の主張だけ通せ」は全く通らないです。

   ★

今回の展示は「表現の不自由展」という名称どおり、「表現の自由」という命題がテーマで、各作品はその<素材>に過ぎません。そういう特殊な企画なので、「展示作品の意図」と「展示企画の意図」を切り離して考えないと、ここは一寸おかしなことになります。

展示作品に対する批判はそれとして、批判する人は、表現の自由そのもの、つまり「表現行為に対する社会的制限のあり方」についても、ぜひ意見を開陳してしかるべきです。

いずれにしても、これが重要な問題提起であることは間違いなく、そういうテーマに公金を投じる意義は十二分にあると、私は考えます。