桜を愛でる師走2019年12月07日 14時24分26秒

桜を見る会の件で、安倍氏とその取り巻きが犯した罪は数々あれど、私が人知れず憤慨しているのは、安倍氏のおかげで、桜に何となく薄汚いイメージがまつわりついてしまったことです。

もちろん、桜に一切罪はなく、ひとえにその咎は、桜にことよせて無法なふるまいをした安倍氏自身にあります。しかし、これから年々桜を見上げるたびに、きっと私の心には安倍氏のエピソードが去来するでしょうし、苦い記憶が重なることで、桜の見え方もこれまでとは幾分違ったものになるでしょう。

とはいえ、年月が重なれば、いつか暗愚な為政者の逸話も歴史の一ページとなり、桜はそうした俗世の出来事とは無縁に美しく咲き誇り、むしろそのコントラストが、桜をいっそう美しく見せることになるかもしれません。…でも、それはまだ少し先の話です。

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その「少し先」に備えて――あるいは「少し先」を手繰り寄せるために――桜の勉強をすることにしました。

探してみると、桜に関する本は山のように出ています。図書館に行けば、桜の本は植物学の棚にもあり、文学や美術のコーナーにもあり、あるいは民俗や宗教の棚にも並んでいるという具合で、桜の見せる顔は多面的です。そして、それらの顔が混然となって桜の魅力は構成されているようです。

これから注文した本が順次届くにつれ、ちょっとした桜ブームの到来です。

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何はともあれ、桜はあくまでも清々しい心持ちで見上げたいものです。

月清らかに花は降るべし2019年12月22日 17時39分51秒

桜の話題に関連して、桜の本をいろいろ読んでいました。
その過程で桜の図譜を何冊か手にして、この辺のことは博物趣味的に書くべきことが少なくありません。


こう書くと、何となく心に余裕があるようでもありますが、世間の動きは急であり、何といっても師走ですから、身辺はなかなか落ち着きません。しかも、晩秋に自宅のリフォームが終わったと思ったら、今度は下水が壊れて汚水があふれ、それが直ったと思ったら、白蟻が出現し、床下に潜って調べたら、さらにコンクリートの基礎も大規模な補修が必要だ…という具合で、実際には心も財布もてんで余裕がないのです。

でも、最近、素敵な方たちから、企画展のお知らせをはじめ素敵な便りを頂戴し、余裕が無いなりに心は豊かです。

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今日、ふと思い立って記事を書こうと思ったのは、本来の記事を離れて、「これは…」と思うことがあったからです。例によって政治向きのことです。

朝日新聞の各編集委員が回り持ちで書く「日曜に想う」欄。
今日の筆者は曽我豪氏でした。曽我氏といえば、しょっちゅう安倍首相と会食していることで知られますが、この人の担当回はいつも興味深く読んでいます。


今日のタイトルは「深まる教育格差 40年放置の罪」というもので、これまた非常に興味深かったです。

そこで取り上げられているのは、例の「身の丈」発言と、その後に続く英語民間試験の導入延期と、国語・数学の記述試験の見送りです。

曽我氏によれば、これは昨日今日の問題ではなく、実に40年前からこういう「教育格差」は放置されてきたと言います。「40年前の1979年に共通1次試験が導入されたときもそうだった」…と、曽我氏は書きます。そこで何が問題になったかといえば、共通1次の結果生じる「足切り」であり、全国の大学が偏差値で序列化される「輪切り」現象でした。そして、

 「私、早大を受けようかしら」
 「あなた、やめておきなさいよ」
 「分相応にしておいたら?」
 「そうよ、うちの学校は三流校なのだから…」

といった、往時の高校生の会話を引用しつつ、その「分相応」という言葉と、萩生田大臣の「身の丈」発言を並置して、それを「教育格差」という言葉で曽我氏はくくって見せるのです。

しかし、一億総中流と呼ばれ、実態としても、人々の意識の上でも、格差縮小が進んだ時代における「偏差値偏重」の弊と、経済格差が教育格差を拡大再生産している現在の恐るべき状況を、同列に論じることは到底できないでしょう。この両者は言うまでもなく全然別物です。それを敢えて同じもののように語るのは、明らかに言葉の詐術であり、曽我氏は故意に目くらましをやっているのだ…と、私は思います。

その辺を意識してのことか、曽我氏は巧妙にアリバイ的言辞をちりばめて見せます、
曰く、「むろん、学校現場を覆う重苦しさは40年前の比ではなかろう。現代の輪切りは偏差値の前に家庭の所得という本人の努力とは無関係の数字で決まりかねない。」
そう、その通りです。でも、曽我氏はすぐに「ただ」…と、言葉を続けます。

「ただ、分相応や身の丈といった言葉が当たり前のように横行する状況に手をこまねき、深刻な教育格差がはびこるまで悪化させた文教行政の放置の罪を思う。」

家庭の経済格差が問題である…と、言ったそばから、曽我氏はそのことと全く無縁な文教行政を悪玉として指弾し、しかも、そこで名指されているのは、今の特異な政権下における文教行政ではなく、40年来のそれだと言うのです。

結局のところ、曽我氏の論法は、現政権に特異的な問題である教育改革の粗雑さや醜怪さを、「昔からの宿痾」みたいに言いつくろうことで、現政権を免罪しようとしているのです。これは明らかに為にする論で、実に悪質だと思います。

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曽我氏の文章は、大抵いつもこの調子です。
批判しているように見せかけて、実際には擁護する。

もちろん、別に擁護したってかまわないのです。主義主張は様々ですから。でも、そうならそうで、堂々と擁護しなければだめです。私にとっての曽我氏の印象は、「ソフィスト的な巧言令色の徒」であり、誠の少ない人だと感じます。

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「いや疑ひは人間にあり、天に偽りなきものを」

――謡曲「羽衣」の主人公である天女のセリフです。
春霞たなびく三保の松原で、天の羽衣をまとった天女は美しい舞を舞い終えると、ふわりと虚空に浮かび、徐々に高度を上げて、遥かなる天上世界へと帰っていきます。

どうでしょう、来年の花の盛りには、塵埃多き下界を忘れて、澄み切った星の光を余念なく楽しめる世の中になっているでしょうか? 天文古玩本来の記事を、のんびり書き継げる世界が、早く復活しますように。

歳末と終末2019年12月31日 08時07分55秒

いよいよ大晦日。
一年の終わりに当たり、ちょっとそれらしいことを考えてみました。

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宇宙は広大で、その歴史は長い。
…それは確かにそうです。でも、宇宙が広大なのは認めるにしても、その歴史はあんまり長くないんじゃないかなあ…と、子どものころから感じていました。

改めて最新の数字で考えてみます。
宇宙の大きさを、とりあえず人間が認識可能な「可視宇宙」に限定しても、その直径は930億光年に及びます。メートルにすれば、8.8×10の26乗メートル。すなわち、宇宙の大きさに比べて、人間の大きさは10の26乗分の1の、そのまた5分の1ぐらいしかありません。(そして「本当の宇宙の大きさ」は、「可視宇宙」より遥かに大きいとも言われます。)

(差し渡し約3億光年、ガラスの中の超銀河団。過去記事参照)

でも、時間的に見ると、宇宙の年齢はわずか138億歳です。
われわれ人間だって、100歳以上生きる人が結構いるのですから、人間の寿命は、宇宙の年齢の1億分の1、すなわち10の8乗分の1あります。

人間を空間的に1億倍しても、月までの距離の半分にしかなりませんが、時間的に1億倍すれば、宇宙の年齢に匹敵する…というのが、何だか非対称な感じです。空間的スケールでは、宇宙は無限ともいえるほど巨大ですが、時間的スケールでは、宇宙は驚くほど若く、人間は驚くほど長生きです。

ですから人生の短さを嘆くには及びません。人生は十分に長いのです。

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むしろ、真に嘆くべきことがあるとすれば、それは「宇宙の華やぎの短さ」です。

雑誌『ニュートン』最新号(2020年2月号)の特集は、「宇宙の終わり」
これを読んで、子どものころ感じた、上のようなモヤモヤを思い出しました。


 「地球や星はいつか死をむかえるのだろうか?宇宙に「終わり」はあるのだろうか?太陽系から銀河、宇宙全体にいたるまで、さまざまなスケールの宇宙の未来を徹底解説」…と謳う2月号。

記事は、まず星の一生と、80億年後に訪れるであろう、我らが太陽系の終末図を描いたあと、「PART2 天体の時代の終わり」に筆を進めます。

1000億年後には、多くの銀河団が合体して「超巨大楕円銀河」が生まれ、我々の可視宇宙には、ただ1つの超巨大楕円銀河が存在するだけになる…と、ニュートン編集子は述べます。この巨大な星の集団の外には何もない、ある種孤独な世界です。

そして10兆年後、超巨大楕円銀河に含まれるすべての星が燃え尽き、世界は真の闇へと沈んでいきます。

さらに、10の20乗年が経過すると、そうした星の残骸の多くが銀河中心のブラックホールに飲み込まれ、巨大なブラックホールが、暗黒の中にいっそう暗い表情で浮かんでいるだけの、虚無的な世界が出現します。

そして10の34乗年後には陽子の多くが崩壊して、わずかに残った物質も無に帰し、10の100乗年後にはブラックホールすらも蒸発して、完全なる無が訪れる…。

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もちろん、以上のことは現時点での理論的予測(の1つ)であり、今後シナリオが書き変わることも十分ありえます。それにしても、空に輝く星々が、いずれ輝きを失うことは確実ですから、子ども時代の私が宇宙に「若さ」を感じたのは、事実、宇宙が若いからに他ならないのでした。

宇宙はこれから後、これまでよりも桁外れに長い時を生き続けるでしょう。そのことを考慮すれば、やっぱり人間は宇宙にかないません。

でも、そうした宇宙の「全人生」を考えたとき、そこに星が輝き、生命が盛んに生まれ出る豊饒な期間は、驚くほど短く、その後に続く衰亡と退嬰の時間の長さを思うと、まこと花の命は短くて、空しきことのみ多かりき…

(ハッブル宇宙望遠鏡が捉えた宇宙の華やぎ。Wikipediaより)

何はともあれ、我々がここにこうして存在していることは、宇宙の若さの帰結であり、我々はみな宇宙の青春そのものだ…と考えると、大いに気分が若やぐではありませんか。

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皆さま、どうぞ良いお年を!