贅言 ― 2020年02月22日 12時06分46秒
いよいよ政権も断末魔の様相を呈していますが、そもそも「断末魔」ってなんだ?…と思って調べたら、これは「断末+魔」ではなくて、「断+末魔」という語の組み立てになっていると知って、ほおと思いました。
手っ取り早くweblioを見ると、三省堂の『大辞林』を引いて、
≪仏≫〔「末魔」は 梵 marman の音訳で、これを傷つけると激痛をともなって死ぬとされる身体の極小の部位〕 死ぬとき。死ぬ間際の苦痛。また、それに相当する苦しみ。「-の苦しみ」「-の叫び」
と解説しています。なるほど、仏教用語由来だったのですね。
では…と、続けて中村元氏の『仏教語大辞典』を開くと、
【末摩】まつま(S〔サンスクリット〕)marman の音写。死穴・死節と漢訳する。身中にある六十四か所、あるいは百二十か所の急所のこと。これに触れると死に至るといわれる。<『倶舎論』一〇巻一七-一八、一五巻二〇オ><『瑜伽論』一巻(大〔大正新修大蔵経〕)三〇巻二八一上>
末魔(あるいは末摩)は当て字で、そういう名前の悪魔がいるわけではありません。
その正体は、まさにケンシロウが突く秘孔にほかならず、これに触れて命を断つことが「断末魔」であり、「ひでぶ!」とかいうのが断末魔の叫び。首相の場合は、たぶん「あべし!」と叫ぶのでしょう。
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安倍氏の命脈が断たれるとき、その取り巻きがどういう態度をとるか?
これは人間というものを知るうえで、本当に良い教材になると思います。まあ、こう書くと何となく皮肉まじりの感じになるし、実際皮肉が混じってないこともないのですが、それ以上に、これは普遍的な学びの機会に他なりません。
今人の振る舞いを見ることで、歴史上の様々な出来事の意味が、一層よく理解できるようになるという意味で、これはいわば温故知新ならぬ「温新知故」。
そんなわけで、私は大いに「その時」を注視しています。
コメント
_ S.U ― 2020年02月22日 20時33分12秒
_ 玉青 ― 2020年02月23日 10時29分38秒
あはは、無用の用的な何かですね。
あべしの場合、もうそんな人間は相手にしないで、周りが一斉に席を立って、一人ぽつんと居残らせればいいようなものですが、そうすると今度は部屋の中の物を勝手にいじったり、黙って懐に入れたりする恐れがあるので、それも出来かねる…みたいな、もう本当にどうしようもない人だと思います。もはやあべしに付ける薬はないのかもしれません。
あべしの場合、もうそんな人間は相手にしないで、周りが一斉に席を立って、一人ぽつんと居残らせればいいようなものですが、そうすると今度は部屋の中の物を勝手にいじったり、黙って懐に入れたりする恐れがあるので、それも出来かねる…みたいな、もう本当にどうしようもない人だと思います。もはやあべしに付ける薬はないのかもしれません。
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というか、そもそも「贅言」というのこそ勉強になるのかもしれません。必要に応じて行う勉強は、切羽詰まってやるものですから、予定された収支のバランスしか得られず、余剰利益は贅言から生まれるというのが経済学の原理ですね。(真面目に受け取らないで下さい)
「あべし!」で思い出しましたが、どこかのネットニュースで、「将棋のプロ棋士は詰む前に投了するが、安倍首相は詰んでいても座を立たない、と喩えていました。私が見る限りでも、どうみても詰んでいる、しかも、「待った」を重ねたとしても3、4回は詰んでいると思うのですが、将棋で詰んでも座を立たない棋士がいた場合はどうするのでしょうか。そんな心配までしているところです。