桜図譜のはなし(1)2020年04月05日 12時34分44秒

季節はめぐり、みっしりと桜が咲きました。
そして、早めに開いた花はもうハラハラと散り始めています。
いつもの年と変わらぬ穏やかな光景。

年度替わりのゴタゴタに翻弄されていましたが、この週末は久しぶりに自由が戻ってきました。とはいえ、コロナのせいで心底くつろぐことはできません。今年は桜の花も何だか只ならぬ気配を帯びて感じられます。

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ちょっと前に書いたように、桜の図譜を手元に置いて眺めています。
現実の桜はもちろん美しいのですが、図譜は図譜で美しく、自粛ばやりの昨今、「ひとりデカメロン」の恰好の話し相手になってくれます。

桜の図譜はこれまで何度か編まれていますが、以下は「戦後三大桜図譜」と呼ぶにふさわしい本たち。


■『桜 SAKURA; Flowering Cherries of Japan』
 〔15代〕佐野藤右衛門(著)、堀井香坡・小松春夫(画)、大井次三郎(解説文)
 光村推古書院、1961
 ※掲載種 101(同一品種内で微細な変異を示すものを含む)。表紙サイズ 35.4×26.3cm。


■『日本桜集』
 大井次三郎・大田洋愛(著)〔大井氏が文、太田氏が画を担当〕
 平凡社、1973
 ※掲載種 154(園芸品種141、野生種・外来種13)。表紙サイズ 30.5×21.7cm。


■『サクラ図譜』
 川崎哲也(著/画)、大場秀章(編)〔川崎氏の遺稿を大場氏が整理編纂〕
 アボック社、2010
 ※掲載種 41(名前未詳の1種を含む。同一種複数図版あり。巻末の「花序図」を含め、図版総数は90)。表紙サイズ 37×26.5cm。

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それぞれの中身を順次見ていきたいのですが、その前に以下の本にまず触れておきます。


■『桜狂の譜-江戸の桜画世界』
 今橋理子著、青幻舎(2019)

副題に「江戸の桜画世界」とありますが、本書は桜を描いた江戸の画人を総まくりした本ではなく――そういう意味では、当時のほとんどの画家が桜の絵を描いていたでしょう――、今橋氏が「三熊派」とネーミングした4人の画家を集中的に取り上げています。(後半では、造園狂の大名・松平定信の事績と、彼が編ませた桜図譜、『花のかがみ』にも触れています。)

三熊派は、他の画家と違って、桜の絵「だけ」を描き続けた人たちです。
まさに「桜狂」の名にふさわしい人々。

三熊思孝(みくましこう、1730-1794)を始祖とし、思孝の妹である三熊露香(みくまろこう、?-1801頃)、思孝の弟子である広瀬花隠(ひろせかいん、1772?-1849頃)、そして露香の女弟子、織田瑟瑟(おだしつしつ、1779-1832)をメンバーとする、なんだか「派」と呼ぶのが覚束ないような、狭いサークル内で完結した画業です。

(広瀬花隠の画帖『六々桜品』より。上掲書pp.84-85)

彼らは、なぜ憑かれたように桜を描き続けたのか。
もちろん4人の人間がいれば、そこに4つの理由があるのでしょうが、こと思孝に関していえば、彼が「桜は皇国の尤物にして異国にはなし」という認識を持っていたからだ…と、今橋氏は指摘します(p.47)。

もちろん桜は日本の固有種ではありません。
にもかかわらず思孝がこう思い込んでしまったのは、貝原益軒(1630-1714)に原因がある…という指摘がさらに続きます。問題となったのは、益軒の『花譜』という本草書(1698刊)です。以下、今橋氏の文章を引用させていただきます(引用にあたって、漢数字を一部算用数字に改めました)。


 「その一文をここに引用してみよう。

  「花はいにしへより、日本にて第一賞する花なり。(中略)文選の詩に、山桜は果(くだもの)の名、花朱、色火のごとし、とあれば、日本の桜にはあらず。からのふみに、日本の桜のごとくなるはいまだみず。長崎にて、から人にたづねしも、なしとこたふ。朝鮮にはありといふ。」 (貝原益軒『花譜・菜譜』、筑波常治解説、八坂書房、1973年、31頁)

 〔…中略…〕実際には、中国の四川省や雲南省には桜の自生地が有るのだが、たまたまそうした事実を知らない中国人と出会ってしまった益軒は、海外情報を旺盛に摂取・発信しようとしたがために、却って逆に誤った事実を自著に記してしまったのである。だがそれ以上に問題だったのは、益軒が「中国にはなし、朝鮮にはあり」と、国ごとの桜の有無を述べていたにも拘わらず、「桜=中国不在」説がいつの間にか「桜=大陸不在」説となり、ついには「桜=異国不在」あるいは「桜=日本固有の花」「桜=国花」説という強引な文脈(コンテキスト)が出来上がってしまったことである。

 このような文脈が益軒以降、いつ頃より出来上がってしまったのかはわからないが、大博物学者益軒に端を発したことの意味は重く、この誤った情報は時代を経るにつれてより拡散され、庶民の間においても流布したことがわかっている。さらにその上、国学者の賀茂真淵(1697~1769)や本居宣長(1730~1801)らが、次のような歌を詠んでしまう。

  もろこしの人に見せばや三吉野の吉野の山の山さくら花  加茂真淵
  敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜はな  本居宣長


 つまり真淵の歌では、中国人に示すべき花は桜で「日本の花=国花=桜」という図式が示されている。そして宣長の歌ではさらに、「桜=日本精神の象徴」という文脈までもが作り出されているのである。」
 (『桜狂の譜』pp.48-49.)

こうなると、戦時中の桜プロパガンダや、現代のネット国士の桜アイコンにまでつながる話ですから、なかなか広がりのある話題です。そして、その源が江戸の国学を越えて、さらに本草学者・貝原益軒にまでさかのぼる…というのは、目から鱗でした。

(三熊思孝筆 桜図(寛政6年、1794)・部分。上掲書pp.32-33)

もちろん、美しい桜の画はただ虚心に眺めればよく、それを強いてイデオロギッシュに解釈する必要もないのですが、こういうのは知っているのと知らないのとでは、大きな差が生じますから、やはり知っておいた方がよいのです。

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さて、こういう桜党の前史を下敷きに、「戦後三大桜図譜」を見に行きます。

なお、「戦後」というからには「戦前」もあるわけですが、こちらは意外に少なくて、大部なものは、三好学『桜花図譜』(1921)が目に付くぐらいです。でも、これはかなりの稀本で、私もまだ実物を目にしたことはありません。内容を知るだけなら、以下のページで全頁カラー画像を眺めることができます(大英博物館の所蔵本です)。


(この項つづく)

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【閑語】

ホラー映画を見ていて、「あ、これは何か出るな…」とドキドキしている感じというか、強いて日常の生活を送りながらも、何だか不安で不穏な気分が持続しています。コロナのせいで、いささか気弱になっているせいでしょう。

ちょっと前まで、安倍氏は緊急事態宣言を出したくてたまらないんだろう…と、多くの人が推測していましたけれど、実際にはかたくなに拒んでいるように見えます。そして、そのことで、また多くの批判を招いています。

安倍氏には、緊急事態宣言を出すことをためらう理由が何かあるのか?
ひょっとして、彼は何かを察知しているのか? 例えば市民の外出が制限された機に乗じて、自分を検束する動きがあるという情報に接しているとか…。

5月15日、首都に複数の銃声が響きわたっても驚かないぐらい、今の私は心が浮動的です。

桜図譜のはなし(2)… 佐野藤右衛門『桜』(前編)2020年04月07日 17時20分48秒

桜と言えば花を賞するもの。
葉桜というのは、あまり芳しからぬものですが、葉桜の時期ともなれば、他の木々も若葉の装いをこらすのが自然の摂理で、これからは緑の美しい季節になります。

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桜図譜の話を続けます。
最初に登場するのは、以下の本です。

(前回、でかでかと写っていたのは化粧箱で、中身はこんな表情です。左上は前の所有者が貼ったラベル。机の上では開くこともできないので、畳の部屋に持ち出して撮影しました。)

『桜 SAKURA; Flowering Cherries of Japan』
 〔15代〕佐野藤右衛門(著)、堀井香坡・小松春夫(画)、大井次三郎(解説文)
 光村推古書院、1961

(同書奥付。当時、1000部限定で出ました。)

(同目次・部分。総計101の種を収録しています。)

中身は下のような感じで、見開きの左側に解説、右側にアート紙に別刷りした図版を貼り込んであります。昔の美術書にまま見られる体裁です。

(品種名「胡蝶」)

(品種名「八重紅虎の尾」)

(同解説)

この印刷について、著者はこう述べています(字下げのない改行は引用者)。

 「本書の眼目はまず桜品〔おうひん〕の原色図版で、如何にして実物に忠実なものとして、最良の効果を挙ぐべきか、私の考慮はこの問題に集中されたのであります。

そこで考えられるのはカラー写真で、私は実際にあたってつぶさに調査し研究したのでありますが、遺憾ながら原色写真では桜の花をはじめ葉も枝も、すべて実物そのものの色彩光沢を表わすことが出来ないことを知ったのであります。

これより先私は実物の写生画の作成を思いたち、在洛の画家で元帝展審査員、現日展依嘱の堀井香坡氏及びその門下小松春夫氏を煩わし、父と私が蒐集した二百五十余種から代表的なものを選択し、前後二十数年かかって百六十余種の写生画を完成したのであります。

 この写生画を原色印刷に付して、その成果を確かめるために、私は色彩の異なるもの数種を試作せしめ、これを比較研究したのでありますが、十目の見るところ光村原色版印刷の技術が最もよく原画を表現し、他の追随をゆるさぬことを認識したのであります。それは原画の正確な再現に加えて、さらに生きた桜そのものの生彩光沢を発揮しているのであります。私の喜び、むしろそれは驚嘆といってよいものであります。そこで私は原色図版その他一切を光村原色版印刷所にゆだね、その発行を京都の光村推古書院に決定しました。」
 (著者序文「刊行に際して」より)

(「八重紅虎の尾」拡大)

(さらに拡大)

インクの退色もあるでしょうけれど、カラー印刷としては、今ならむしろ粗の部類で、そんなに大絶賛するほどでもないように思うのですが、60年前にはこれが最高水準の印刷でした。この間の技術の進歩をまざまざと感じます。

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まあ、本書の場合は、純粋に図版を愛でるというよりは、著者の熱意にひたすら打たれるところに妙味があるのかもしれません。何といっても、本書は「この著者にしてこの著あり」としか言いようのないところがあって、その歴史性を珍重するに足りるからです。

(この項つづく)


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【閑語】

私の与太な予想はあっさりはずれて、安倍氏も緊急事態宣言を出しました。
当分、検束されることはなさそうですね。

ただ、検束はされないにしても、やってることは相変わらずデタラメだなあ…と思います。安倍氏は、コロナ対策に108兆円かけるのだと威張っています。国民1人当たりにすれば――お年寄りも赤ちゃんも含めて――ざっと100万円にあたります。このお金が流れ流れて、果たしてどこにいくのか?

例えば、我が家は現在5人暮らしなので、500万円相当の予算が割り振られているはずですが、直接的な恩恵は、今のところ例の布マスク2枚だけです。これはいったいどういうことか?

まあ、我が家のことは脇においても、今この瞬間、生活が立ち行かない人々の休業補償や生活保障に、108兆円のうち、いったいどれだけ割かれるのか?あるいは、医療崩壊が叫ばれる中、医療資源の拡充にどれだけ予算が充てられるのか? 

何だかんだ言って、最後は火事場泥棒みたいな連中の懐にみんな入ってしまうんじゃないかと、そのことが気がかりでなりません。というか、今の政権のやり方を見ていると、それ以外の可能性が思い浮かびません。(さらに言えば、政権そのものが火事場泥棒の集団のように私には見えています。)

理性のあるメディアは、その辺を特にしっかり報道してほしいと思います。

桜図譜のはなし(3)… 佐野藤右衛門『桜』(後編)2020年04月08日 19時11分16秒

「畢生の大作」という言い回しがあります。
「生涯を通じて最高の大作」という意味です。

著者・佐野藤右衛門(以下、物故者は敬称略)にとって、本書がまさにそれだと思います。本書は著者の還暦記念出版であり、当時のことですから、60歳ともなれば、死をごく身近に感じて、その出版を急いだと想像します。

だからこそ、本書の完成は著者にとって格別喜びに満ちたものであり、政治家で旧子爵の岡部長景、ノーベル賞学者の湯川秀樹、京都市長の高山義三、造園界の大立者である丹羽鼎三や井下清…といった紳士貴顕の寄せた序文が、巻頭をずらっと飾るのも、その晴れやかさの表れでしょう。

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図鑑というのは、たいてい多くの人の協力によって出来上がるものですから、ふつうの本とは違って「誰それが著者だ」と、スパッと言い難いことがあります。この『桜』の場合も、桜の原図を描いたのは、日本画家の堀井香坡と小松春夫であり、本文の学術解説を書いたのは、当時国立科学博物館にいた大井次三郎(植物学)です。

では、著者とされる佐野藤右衛門はいったい何をしたのか、何もしてないじゃないか…と思ったら大間違いで、この本は、すべて彼の企画・発案になるものであり、掲載の桜は、ことごとく彼と、その父親である先代藤右衛門が、全国を桜行脚して収集し、手ずから育てた、我が子にも等しい木々なのです。本書は、多くの苦労を伴って成し遂げられた、その偉業の集大成であり、まさに記念碑的著作。

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「佐野藤右衛門」の名は、「現代の桜守」としてマスコミに登場することが多いようです。佐野家は「植藤(うえとう)」の屋号で、江戸時代から造園業を営む家で、マスコミで拝見することの多い当代の藤右衛門氏(1928-)はその16代目。御年90歳を越えて、なお壮健と聞き及びます。

そして、『桜』の著者である藤右衛門は、そのお父さんに当たる15代藤右衛門(1900-1981)です。

(左・15代、右・16代藤右衛門氏。父子だけあって面差しが似ていますね。左は『桜』掲載写真、右は講談社刊・『桜守のはなし』表紙より)

造園業者であれば、桜の木を扱うことも多いでしょうし、「桜守」の名も別に突飛な感じはしないのですが、佐野家が深く桜に関わるようになったのは、さらに一代遡って、14代藤右衛門(1874-1934)の代からで、その時期は大正15年ですから、「植藤」の家業の中では、わりと後発の仕事に属します。

(昭和5年(1930)、藤右衛門が育てた実生の山桜の中から見出された八重咲き品種。親交のあった牧野富太郎によって「佐野桜」と命名されました。)

そのきっかけは、大正6,7年ごろ、大典記念京都植物園(現・京都府立植物園)に、植藤から植木を納入した際、そこの主任技師であった寺崎良策と知己になったことです。寺崎はその後東京に転じて、荒川堤の桜育成に関わり、さらに日本の桜品を一か所に集めた名所作りに奔走していたのですが、人世無常なり。

 「ところが、大正十五年はからずも寺崎氏の訃報に接し、父は急遽東上して良策氏の令兄新策氏に会った。新策氏は「弟は自分の遺志をつぐ者は京都の佐野しかいない」という遺言を父に伝えた。父は感激して必ず微力をつくすことを誓い京都に帰ると、私を呼んで「おれはこれから桜の蒐集をやる。お前はわしに代って家業のかたわら桜の栽培をやってくれ」と言った。
 以来父は桜を尋ねて全国を歩き廻り、私は家業と共に桜の栽培に力をそそぐことになった。」 
(本書巻末掲載の「さくら随想」より「桜を知る」の章より)

…という次第で、昭和9年(1934)に14代が亡くなると、こんどは当時34歳の次代が15代となり、内地はもちろん樺太、朝鮮、満州までも足を延ばし、蒐集行を続けました。

桜の蒐集というのは、既に知られた各地の名木を分けてもらうとか、そんな生易しいものばかりではなく、走る汽車やバスの中から、民家の軒先でもどこでも「これは!」という桜を見つけると、翌年二月ごろ、記憶をたどって再度尋ねていき、接ぎ木用の穂(枝先)を譲ってもらうという、大変手間のかかるものでした。1回の旅で5~6種の収穫があったそうですが、その接ぎ木にも家伝のコツがあって、

 「接木は夫婦協力するのが、イキが合うといのかきわめて活着率がいい。あたかも子供を育てるようなものである。私は桜の接木には格別苦労しているが、接木を終ったあとで雨でも降ると、夜中であろうと一家中が飛び起きて、雨覆いをするやらいろいろと手配をする。第三者から見ると気狂い沙汰と思われるかも知れないが、それほどにしなければ最良の結果は挙がらぬものである。」 (同)

その後、まもなく戦争の時代がきて、当初こそ軍部の御用で、中国大陸への桜植樹に従事したりしたものの、戦況の悪化とともに「植木職人も続々と徴用され、桜などにうき身をやつす者は国賊呼ばわりされる世情」となり、言うに言われぬ苦労を重ねられた末、「敗戦後二年ばかりはそういう私すら桜に関心を失ったくらいである」と、15代は述懐しています(同・「戦争を中心として」より。余談ながら、この辺の心情は、敗戦とともに一時星への関心を失った野尻抱影のことを思い起こさせます。)

戦後、世の中に落ち着きが戻るとともに、再び桜蒐集に取り組んだ結果が、6千坪の土地に植わった250種、3万本の桜たち。その中から代表的なものを100種余り精選して編んだのが、この大著『桜』です。ここで冒頭に戻って、本書をあえて15代藤右衛門「畢生の大作」と呼ぶ理由もお分かりいただけるでしょう。

(大島桜)

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花あれば人あり。人あれば書物あり。
そして、そこにはまた歴史とドラマがあるわけです。

(この項つづく。閑語も弁ずべきこと多々。)

賢治さん、あなたは今どこにいるのか2020年04月12日 16時34分55秒

灰色の空から雨がしきりに降っています。
ブログを書く気分というのがありますが、今はだめですね。
だから桜の話もちょっと中断です。

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 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
 東ニ病気ノコドモアレバ
 行ッテ看病シテヤリ
 西ニツカレタ母アレバ
 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
 南ニ死ニサウナ人アレバ
 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
 北ニケンクヮヤソショウガアレバ
 ツマラナイカラヤメロトイヒ

賢治の言葉はいちいち心にしみますが、最後のくだりだけは頷けません。

もちろん、つまらない喧嘩や訴訟ならやめればいいですが、世の中には大切な喧嘩や訴訟もあります。病気の子供や疲れた母親を放置している社会の不正義に対しては、大いに怒らないと、彼の理想は実現しないはずです。まあ、そんな当たり前のことは賢治だって百も承知で、たぶん賢治が言いたかったのは、「自利の喧嘩」はダメだということでしょう。

眼前の事態に対して、「こんなときに政府を批判するな」と言う人がいます。それに対する反論もあります。思うに、こういうとき大切なのは、目の前の人を突き動かしているのが自利の心か、利他の心か、それを虚心に見つめることでしょう。表面的な発言よりも、その点に心を向けると、いろいろ見えてくる気がします。

病気の子供や、疲れた母や、死にそうな人のために怒り、行動する人。
そういう者に私はなりたいですが、懐手をしてウンウン唸っているばかりで、なかなか動けないのが、我ながら不甲斐ないです。

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賢治さん、あなたは今どこにいるのですか?
今も下の畑を歩いているのですか?