陶片と残欠2020年07月02日 21時02分54秒

前にも書いたかもしれませんが、自分の趣味嗜好の中に「本物嗜好」というのがあります。ふつうは「本物志向」と書くのでしょうけれど、「志向」と書くと、昔の「違いのわかる男」みたいな、何となくいかがわしいスノビズムの臭みが出てしまうので、ここは「嗜好」で良いのです。本物を好ましく思うというのは、単なる好き嫌いの問題で、そう大上段に構えるようなことではありません。

私の場合、本物に重きを置くのは、そこに資料的価値があるという理由が大きいです。
モノは自らの存在を通して、何かをアピールしていると思うのですが、本物がアピールしているのは、正真正銘ホンモノの歴史だ…というところに、有難味があります。実際に資料としてそれを活用するかどうかはさておき(たぶん活用しない方が多いでしょうが)、そうしようと思えば、生の資料になる―。これは本物が持つ絶対的な価値であり、完全な復刻品よりも、不完全な本物が優る点です。(…とはいえ、不完全な本物も無理となれば、復刻品もやむなしです。)

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このことは、「陶片趣味」を想起すれば明らかでしょう。

焼き物マニアの中には、そのかけらである「陶片」を熱心に収集している人がいます。もちろん焼き物の世界では、完品が最も評価されるわけですが、古い時代の焼き物の素材や技法を学ぼうと思えば、その断片でも十分役に立ちます。さらに陶片には陶片独自の美があると主張する人もいて、昔から焼き物趣味の一分科として、「陶片趣味」というのが確立しているらしいのです。

同様に仏教美術の世界でも、仏像の手だけとか、一片の蓮弁とか、古写経のきれっぱしとか、「残欠」を有難がる「残欠趣味」というのがありますが、これも意味合いは同じでしょう。

(陶磁研究家・小山冨士夫の陶片コレクションと天平時代の天部像裾残欠。別冊太陽『101人の古美術』と『やすらぎの仏教美術』より)

天文アンティークの世界で、陶片趣味や残欠趣味を、堂々と標榜している人を自分以外に見たことはありませんが、趣味としては十分成り立ちうることで、同様に滋味があるのではないかと思っています。そして、完品に比べれば、もちろんずっと財布に優しいので、その楽しみ方にも自ずと余裕が生まれるわけです。

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以上、言い訳めいたこと――というよりも、はっきり言い訳ですね――を前置きして、さっそく「陶片」と「残欠」の例を見てみます。