明治科学の肖像2020年08月16日 10時57分19秒

寺田寅彦といえば、彼の写っている「生写真」が手元にあります。
といっても、集合写真の一角に写っているだけですが。


(写真の要部拡大)

上は当時の「東京帝国大学理科大学」(現・東大理学部)の卒業写真。
年次は明治39年(1906)で、当時は9月から学校年度が始まったので、この写真は7月の撮影です。写真の大きさは21.5×28cm、台紙も含めると33.5×41.5cmと、かなり大きなものです。


その一番後ろに写っているのが寺田寅彦
当時の肩書は「物理学講師」で、まだ博士号を取得する前の一理学士の頃です。
漱石は彼をモデルに、『吾輩は猫である』に出てくる「理学士・水島寒月」を造形しましたが、『猫』は当時リアルタイムで連載中だったので、まさにこれがリアル寒月君の風貌ということになります。

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寅彦もさることながら、この写真自体、明治科学の歴史を伝える興味深いものなので、もう少し仔細に見てみます。

この写真は、日本地質学会の会長も務めた、地質学者の中村新太郎博士(1881-1941)の手元にあったもので、そのご遺族から出たものと思います。私はたまたまヤフオクで見つけました(他にも旧制高校時代の写真や、家族写真なんかと一括で出品されていました)。


写真のいちばん右下に写っているのが、卒業生の一人である中村博士です。

(下の名前一覧と対照しやすいように再掲)

この写真で興味深いのは、写真の台紙裏面に、中村博士自筆のメモが貼付されていて、人物をすべて特定できることです。

(裏面のメモ)

画像では読み取りにくいので、全員書き起こしてみます。(分かりやすいよう、教員は太字にしました。原文にあるカッコ書きは、卒業生の所属学科です。)

▼第5列=最後列
辻卓尓(化)、西澤勇志智(化)、門岡速雄(物)、勝山秀尾(物)、寺田寅彦
▼第4列
山本豊次(化)、大友幸助(化)、吉田得一(物)、粟野宗太郎〔(植)〕、田畑助四朗(植)、川村清(植)、横飛私城(物)、内藤丈吉(数)、柴山本弥(数)
▼第3列
長俊一(化)、坂井英太郎、松原行一、守屋物四郎、本多光太郎、飯塚啓、高木貞治、藤井健次郎、田丸卓郎
▼第2列
垪和為昌、坪井正五郎、三好学、田中館愛橘、箕作佳吉、櫻井錠二、小藤文次郎、鶴田賢次、渡瀬庄三郎、中村清二
▼第1列=最前列
細井貫了(物)、磯野正登(数)、北山心寂(物)、福田為造(物)、石原純(物)、野田勢次郎(質)、中村新太郎(質)

大雑把に言うと、後ろ2列と最前列が学生で、それ以外は教員なのですが、なぜか寺田寅彦だけ最後列の端っこに並んでいて、この辺が彼の奇人ぽいところです。

当時の教職員や学生名簿は、国会図書館デジタルライブラリに収められている『東京帝国大学一覧(明治39-40年)』にすべて掲載されています。それを見ると、この明治39年(1906)に晴れて理科大学を卒業したのは、学科別に、数学科(4)、星学科(0)、理論物理学科(1)、実験物理学科(8)、化学科(6)、動物学科(0)、植物学科(3)、地質学科(3)の計25名で、写真に写っているのは、そのうちの21名です。

それにしても、錚々たる顔触れですね。
当時の最高学府ですから、当然といえば当然ですが、日本の近代科学を牽引した人々がずらり並んでいます。ちなみに3列目の右端に写っている田丸卓郎(1872-1932)は、以前、熊本の旧制五高で物理を教えた人で、同僚の夏目漱石とともに、その頃から寺田寅彦の恩師にあたります。

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昨日、日本の原爆開発を下敷きにしたドラマ「太陽の子」をNHKでやっていました。
登場人物たちは、軍事研究をめぐる疑問と葛藤を心に抱きつつも、時代はそうした個々人の苦悩をすべて押し流し、日本の科学立国の夢もまた烏有に帰した時代を描く内容でした。

1945年といえば、上の写真に写っている学生たちですら、すでに退官した老先生になっている頃ですが、中には最年長の田中舘愛橘(たなかだてあいきつ、1856-1952)のように、江戸時代に生まれ、戦後まで長く生きた人もいます。

彼らにとって、自らの人生を捧げた科学とは果たして何であったのか? 科学の目的や価値を、突き詰めて考えた人もいるでしょうし、そうでなかった人もいるとは思いますが、そんなことが1枚の写真からいろいろ想像されるのです。