古典に親しむ秋2020年10月07日 06時56分59秒

仕事帰りに空を見ると、異様に大きく、異様に赤く光っている星があります。
言わずと知れた火星です。赤といっても、ネーブルの香りが漂うような朱橙色ですから、それだけにいっそう鮮やかで、新鮮な感じがします。

西の方に目を転ずれば木星と土星が並び、天頂付近には夏の名残の大三角が鮮やかで、秋の空もなかなか豪華ですね。昨日は久しぶりに双眼鏡を持ち出して、空の散歩をしていました。

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ところで、最近、このブログのあり方をいろいろ省みることが多いです。
もちろん、これはただの「お楽しみブログ」ですから、そんなに真剣に考えなくてもいいのですが、それにしたって、天文の話題――特に天文学史の話題をメインに綴っているのに、天文学の歴史を何も知らないのも、みっともない話だと思います。

まあ、「何も知らない」と言うのも極端ですが、「ほぼ何も知らない」のは事実です。
たとえば、私は天文学上の古典をほとんど読んだことがありません。かろうじてガリレオ『星界の報告』は岩波文庫で読みました。でも、そんな頼りない知識で、もったいらしく何か言うのは、恥ずかしい気がするので、少し努力をしてみます。


まずは、コペルニクス『天体の回転について』です。
何せその出版は、歴史上の事件であり、革命と呼ばれましたから、これは当然知っておかなければなりません。幸い…というべきか、岩波文庫版は、コペルニクスの長大な作品の第一巻だけ(全体は6巻構成)を訳出した、ごく薄い本ですから、手始めにはちょうどよいのです。

これが済んだら、次はガリレオ『天文対話』で、その次は…と、心に期する本は尽きません。まあ、どれも斜め読みでしょうけれど、どんな内容のことが、どんなスタイルで書かれているのか、それを知るだけでも、今の場合十分です。

たとえて言うならば、これは見聞を広めるための旅です。
旅行客として見知らぬ町に一泊しても、それだけで町の事情通になることはできないでしょうが、それでも土地のイメージはぼんやりとつかめます。さらに一週間も滞在すれば、おぼろげな土地勘もできるでしょう。書物(学問の世界)も同じで、何も知らないのと、何となく雰囲気だけでも知っているのとでは、大きな違いがあります。

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古典を知れば、ものの見方も変わります。

たとえば、火星と木星と土星。この3つが、この順番で地球に近いことは、天動説の時代から理解されていました。星座の間を縫って動くスピードの違いの原因として、動きの速いものは地球に近く、遅いものは遠いと考えるのが、いちばん理に適うからです。そしてこの常識的判断は、結果的に正しかったわけです。(同じ理由から、あらゆる天体の中で、いちばん地球に近いのは月だ…ということもわかっていました。)

自分が古代人だったら、そのことに果たして気づいたろうか?
そんなことを考えながら、空を眺めていると、宇宙の大きさや、過去から現在に至るまでの時の長さを、リアルに感じ取れる気がします。

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晴観雨読―。この秋は、星空散歩をしつつ、書物の世界を徘徊します。

コメント

_ S.U ― 2020年10月09日 08時29分07秒

ふと思い出したことがあります。こういうときでないと書くことはないかもしれないので、コメントさせていただきます。

 私は、子どもの時の科学の勉強で、「物は重さに関わらず同じ速さで落ちる」ということを本でよんで大層驚きました。そして、これはガリレオという人が実験したことを知りました。ピサの斜塔の絵が印象に残りました。
 一般の子どもが、成長過程で科学上の知識を知って驚くこと、それは、地球球体説、地動説についでこの落体の法則だと思うのですが、いかがでしょうか。地動説ほど派手ではありませんが、落体の法則は地動説と違って実験できますし、実験をする動機のハードルもごく低いと思います。また、生活にも生かせそうに思います。

 以下、私事で恐縮ですが、子どもの私も実験してみました。何を落としたかは覚えていませんが、ボールとか固体の道具のようなものを両手で同時に落とすのを.何度もやったと覚えています。軽い物と重い物は同時には落ちませんでしたが、そんな大差はありませんでした。それで、私が初めて読んだこの手の古典は、『新科学対話』(岩波文庫の青)でした。書かれている仮想実験や修辞にも感銘を受けました。でも、当時の私には、理解できない部分が大半でしたので、次に読んだ『天文対話』のほうが親しみやすかったです。

_ かすてん ― 2020年10月09日 13時12分48秒

玉青さん、お久しぶりです。

S.Uさんのを読んで私も思い出しました。落体の実験は私もやってみました。何を使ったのか、私も覚えていませんが、重さの違いから想像されるほどの時間差はなかったという印象でした。その後何年か後に、アポロ何号だったかが月面で羽とハンマーで実験したのを見ました。
地球球体説と地動説は初めて聞いた時点であまり抵抗なく受け入れてしまったように記憶しています。すでにスプートニクもエクスプローラーも飛んでいたことよりも、周囲の大人が疑っていなかったことの方が大きいかもしれません。

_ 玉青 ― 2020年10月10日 09時32分32秒

○S.Uさま

えっ、『新科学対話』や『天文対話』を子供時代に読まれていたのですか!
まさに栴檀は双葉より芳し、ですね。

老いを感じつつある私は、ようやっと『天文対話』を苦労しながら読み進めているのですが、年譜を見ると、ガリレオは68歳で『天文対話』を、74歳で『新科学対話』を出版したと知って、その事実にも驚き、かつ励まされた気がします。天才ガリレオと我が身を比べるのは僭越ですけれど、思索と学びに遅すぎることはなく、ぜひ「雪見に転ぶところまで」続けていきたいです。

ときに落体の法則。あれは不思議でしたね。

“「重さ」とは物が下に引っ張られる強さのことであり、強く引っ張れば、物はより速く移動するはずだ”…という素朴な直観は非常に根深くて、私の中には、無意識のうちに今でもそう思っている部分があると思います。ですから、火事とか咄嗟の場合は、たぶん落体の法則に反した振る舞いをすることでしょう。(思うに、水中だと重い物のほうが速く沈みますが、感覚的にはあちらの方がしっくり来るんですよね。ですから、もし人間が水中で進化していたら、科学の発展はだいぶ遅れたかも…と思ってみたりします)。

○かすてんさま

おお、かすてんさんも。
落体の法則は、「え、本当かなあ?」と子供に疑いを起こさせる要素が、やっぱりありますよね。その意味では、子供が科学に目覚めるよいきっかけだと思います。

地球球体説と地動説を、自分がいつどこで学んだのかは、まったく記憶がありません。
地球は丸く、太陽を回る惑星の1つだということは、テレビの子供番組も、絵本も図鑑も雑誌も、すべてそれを前提に作られていましたから、それを疑う余地がそもそもなかった気がします。私にとって、世界は最初から「そういうもの」でした。

そこから逆に、子供のころから「神はいる」とか、「地球が宇宙の中心だ」とか、「それらは言うまでもないことだ」という文化に生まれ育った人の経験する世界のありようというものを、ぼんやり想像することができる気もします。

_ S.U ― 2020年10月10日 13時41分39秒

>子供時代
 いつまでを子供と言うのかは知りませんが、『天文対話』はともかく『新科学対話』は、いわゆる子供では読めませんね。ガリレオの仕事の伝記を読んで実験をしたのは小学校時代だったと思いますが、古典を読んだのは高校時代です。
 それで、高校物理で学んだこの力学原理がなんとなく納得できるようになったのは、大学に入ってからです。 f = m a とか普通の人は(物理を専攻する人でも)、暗記して計算はできても、その真意を理解するには、力とか質量の概念を各人なりに抽象的かつ具体的に意義づけする必要があるので、やはり2年はかかるのではないかと思います。これを1年くらいで体得できる人は、天性の素質だと思います。

_ 玉青 ― 2020年10月11日 18時04分57秒

>その真意を理解

うーむ、これは深いです。科学的認識も、人間が世界を把握する、その把握の仕方の一形態には違いないので、その道に参入して修行の階梯をたどれば、おのずと奥義とか、体得とか、悟道とか、そういった曰く言い難いものが登場してくるようですね。定義からして、科学は「不立文字」の対極にあるものでしょうが、最後の最後の局面に至ると、ちょっとそういった気配も出てくるでしょうか。

_ S.U ― 2020年10月12日 07時08分51秒

確かに深い問題ですね。ここで私が申した「真意」は、たとえば教育学理科専攻の先生あたりが体感している「真意」というくらいのところです。自分勝手な考えで問題は解けても、広く初学者を教育するには何らかの人類共通的なその体感法が必須と思います。
 それは、奥義、悟道というほど深いものではないかもしれませんが、力学、電磁気学、量子力学と各細分野の教育には、何らかの悟りが必要なようです。私からすると面倒な手続きのように思います。

 ところで、玉青さんのおっしゃる火事場の喩えに関係して私は有用な体験をしました。
 普通、重い物は動きにくく軽い物は吹っ飛びやすいですよね。重さがものをいう場合にはその通りです。ところが、東日本大震災の時にはまったくあてがはずれました。地震というのは、物にかかる力ではなく、地面の動く加速度なのですね。それで、どちらかというと慣性の大きい物の方が動きやすいのです。
 空き缶や消火器が元の場所に立ったままなので安心していたら、本がいっぱい詰まった本棚や、数カ所で固定されている大型の装置が固定器具をへしまげて動いたり、バランス崩して倒壊したりしていました。物に力が働いて動いたのではなく、地面が勝手に動いたのだと思うと納得がいきました。

_ かすてん ― 2020年10月12日 11時52分12秒

>地面が勝手に動いたのだと思うと納得がいきました
 慣性の大きい(動きにくいはずの)ものほど、地面が動いた場合には相対的に大きく動かされたのですね。

_ 玉青 ― 2020年10月13日 06時33分18秒

>初学者を教育する…体感法

なるほど、いわゆる「自家薬籠中の物とする」というやつですね。

>物に力が働いて動いたのではなく、地面が勝手に動いたのだと思うと納得がいきました。

なるほど!!と、ここでかすてんさんと共に、再び膝を打ちました。頭にポッと灯がともった感じです。そこにとどまるがゆえに、動いたように見えるという、フーコーの振り子的な現象と考えれば良いのですね。それにしても、重いものほど動いたように見える…というのは、人間にとっては動いたのと同じでしょうが、なんとも恐ろしいですね。それを逆手にとって、免震・制震技術が必要とされるのも頷けます。

_ S.U ― 2020年10月14日 12時39分22秒

またも蒸し返しで申し訳ありませんが、f = m a(ニュートンの運動の第2法則)について、たまたま驚くべき文献を見つけました。

 日本物理学会誌・先月号(2020.9)に、塚本浩司氏(千葉科学大学教授)の「運動の第2法則はいつから運動方程式となったか?」という西洋科学史の研究が載っていました。

 読んでみますと、ニュートンの『プリンキピア』(1687)では、方程式のかたちになっておらず、幾何学的な形式で、撃力が速度の方向を変えるというイメージになっているそうです。 f = m a からはほど遠いイメージです。
 結局、f が力、mが質量、aが加速度(位置座標の2階時間微分)として、現在の f = m a に揃って普及をし始めたのは、何と1850年代のことだそうです。170年かかったのです。この科学史に比べると、初学者が1~2年で到達できればこれはもう上出来と言わざるを得ません。

 塚本氏は、末尾で、物理教育に関して次のように書いていらっしゃいます。今回、私の観点と共通していて(たまたまですが)たいへん嬉しく思いました。

(以下、引用)
 我々はともすれば、現代的な解釈で、 初学者の物理概念の混乱を断罪しがちである。しかし、その形成過程を見ると、多くの概念的混乱と修正、そして偶然も重なって力学教科書の体系ができあがったことがわかる。このことは、「現代の力学教育についても、根本的に作りかえるような創造的な研究の余地がある」ということを示すものだといえるだろう。

_ 玉青 ― 2020年10月15日 06時54分15秒

F=ma に関しては、私はS.Uさんの真意をつかみ損ねていると思いますが、でも一般論としては大層興味深いです。以前もやりとりのあった、個体発生と系統発生の関係がここにも顔を出している感じですね。初学者の「混乱」こそ、おそらく過去の碩学を悩ませた「重大問題」であり、それを嗤うことは決してできないですよね。

個人の理解も、学問としての体系も、新たな概念を生み出し、それを練り直しつつ、苦労の末に進んでいくのは当然ですが、さらにそのステップに(細部は異なるでしょうが)ある程度パラレルな関係がある…というのは、まだしっかり考証されていないかもしれませんが、大いにありそうなことだと思います。

_ S.U ― 2020年10月15日 12時29分27秒

>以前もやりとりのあった、個体発生と系統発生の関係がここにも顔を出している感じ

 たぶん、この手の物理学史の議論では、今やそこが本質なのかもしれません。上掲の塚本先生は理科教育法の先生だそうです。私も独立に同じ教育学との関係の連想をしましたし、玉青さんもそこに中心的にご興味をお示しになりました。

 運動の第2法則についてはその問題の特殊性もあって、理科教育からの議論は以前から多いものと思いますが、物理学(天文学も)全般にわたって、ヘッケル的な仮説を立てている人はまだ少ないように思います。

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