余滴…「首相の招き断った 漱石の心中は」2020年11月01日 13時47分18秒

私の古典回帰は、プトレマイオスの『アルマゲスト』にまで至りました。
しかし、この古代天文学の精華は、なかなか難解です。ここは安野光雅氏の『天動説の絵本』を読む方が、いっそスマートではなかろうか…と思ったりします。

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さて、今日も本題を外れた雑談で恐縮です。

朝日新聞の各編集委員が、回り持ちで書いているコラム「日曜に想う」
今日の担当は、曽我豪氏でした。曽我氏は政権擁護の姿勢を、常ににじませている人で、朝日新聞の中ではちょっと異色な人だと思いますが、氏のコラムはいつも不思議な気持ちで拝読しています。

氏の文章には、一種の「型」があって、必ず遠近の歴史上のエピソードが織り込まれています。まあ、自説の補強に用いるための引用ですから、当然といえば当然なんですが、それにしても我が田に水を引くのに、あまりにも遠慮がなさすぎるのではないか…と、ときに唖然とすることがあります。

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今日のコラムもそうでした。
しかも、今日のエピソードが漱石先生だと聞けば、これは一寸看過できないものがあります。私は格別熱心な漱石ファンではありませんが、妙なところに、妙な形で漱石を引っ張り出すことは、漱石の真面目(しんめんぼく)に照らして、許されぬことと感じました。

テーマは、例の日本学術会議問題です。
曽我氏はこの件について、以下のように書きます。

 「言論は両極に割れる。一方は、憲法23条の「学問の自由」を侵害したと断じて菅政権の権力体質を難詰する。もう一方は、国家補助を受ける以上は国益に沿うべきだとし、学術会議の古い体質を改める「行政改革」へ論点を移そうする。

 国会も政権に対する肯定と否定の両極に分かれ、冷静に善後策を探る中庸の論はかすむ。相手の混乱に責任を負わせて譲らぬ分断状況こそが、安倍晋三前政権時代から続く「負の遺産」に違いない。」

いわゆる「どっちもどっち論」ですね。
自分はその局外にあって、冷静に事態が見えているとするポーズのいやらしさは脇に置くとしても、氏として、結局この問題をどう考えているのか、氏が言うところの「中庸な善後策」とは一体何なのか、読んでもさっぱり分からない文章です。

そして、任命拒否の妥当性については――それこそが問題の核心のはずなのに――いっさい触れずに、「言論が肯定と否定の両極に分かれていること、それ自体が問題なのだ」という立場をとることは、意図的かどうかは分かりませんけれど、論点ずらし以外の何物でもありません。

そもそも、ここで氏が挙げている二つの論は、「両極」でも何でもありません。
両極というのは、1本の軸の両端を意味するはずですが、上の2つの意見は、全然1本の軸に載っていません。学問の自由を尊ぶ人が、学術会議の改革を志向しても全然構わないし、その逆もありえます。要は、曽我氏は「学問の自由は常に不可侵かどうか」という軸と、「学術会議の在り方は現状のままでよいか」という軸の2本をごっちゃにしているのです。

氏の言い分を貫徹させるならば、

 「言論は両極に割れる。一方は、憲法23条の「学問の自由」を侵害したと断じて菅政権の権力体質を難詰する。もう一方は、国家補助を受ける以上は国益【=時の政権の意向、の意】に沿うべきであり、それに反して守られるべき「学問の自由」などというものはないと主張する。」

としなければ、論として成り立ちません。
そして、改めてこの「両極」に対して、氏はどう向き合うのでしょうか?
やっぱり「どっちもどっち」と言うのでしょうか?

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そんなわけで、氏の所論が無益であることは明らかですが、肝心の漱石先生の件に触れてないので、さらに先を読んでみます。

 「歴史が教える通り、言論の両極化は民主主義にとって脅威となる。〔…〕
 
 恐れるべきは、両極化によって言論が政治にもたらす善の力を失うことだと思う。熟考をもとに、時代の最適解と守るべき価値の優先順位を探り当てる穏当な文化の力である。それなくしてポストコロナの時代が開けてこようか。漱石の訴えは今日でも有用であろう。」

「善の力」とか、「穏当な文化の力」というのが、何を指しているのかは、前後を読んでもよく分からないのですが、話のついでに担ぎ出された漱石こそいい迷惑です。

ここで曽我氏が引用する漱石のエピソードというのは、以下のようなものです。

明治の終わりから大正にかけて、フランスに留学した自由主義的な西園寺公望と、陸軍出身で国家主義的な桂太郎が交互に政権を担った、いわゆる「桂園時代」というのがありました。その西園寺が首相のとき、文人たちを招待して宴を催したことがあったのですが、漱石は何度招待されても、頑として招きに応じませんでした。

このことから曽我氏は、漱石が自由主義からも国家主義からも距離を保ち、単一の主義に偏するのを避けたのだ…と言うのです。そして、学術会議問題についても、「両極」はダメだと言いたいわけです。

妙な理屈だなあ…と、思います。

漱石が西園寺の招待に応じなかったのは、別に自由主義から距離をとったわけではなくて、「時の権力」から距離をとったわけです。ですから、時の権力からの独立を旨とする学術会議に、権力が介入したことに、今回多くの人が非を鳴らしたことに対して、漱石が「それは極論だから、自分はそれに賛成できない」と言うはずがありません。むしろ積極的に賛同したでしょう。

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さらに、曽我氏は、漱石が学習院で行った「私の個人主義」という講演(※)に触れて、「個人主義と国家主義は相矛盾するものではない。国家の危機に際しては、誰しも国家の安否を考えるだろう。だが、平穏な時にあっては、個人主義に重きを置くのが当然だ」…という漱石の意見を援用します。

漱石の個人主義は、自他の個性を、ともに尊重することをベースにしています。
それは権力や金力を有する者であっても同様で、自分の持つ力を、他の個人を圧殺するために用いてはならない、個人は個人として常に尊ばれなければならない、国家主義を唱えるのも良いが(ここで、「国家の危機に際しては、誰しも国家の安否を考えるだろう」という主張が出てきます)、人は基本的に「個」であり、常に国家のことばかり考えていることはできない…というところに、漱石の見識が表れています。

そのことが、学術会議問題とどう結びつくのか、私には曽我氏の思路が判然としませんが、漱石は明らかに強権政治を批判する立場であり、「菅政権の権力体質を難詰」することを後押しこそすれ、それに掣肘を加える立場では全くありません。

こういう頓珍漢なことが起きるのは、曽我氏が最初から「為にする議論」をしているからだと、私は考えます。そして、安倍前総理の招きに嬉々として応じ、その宴席にたびたび連なっていた曽我氏が、こういう文脈で漱石を持ち出すことに対して、憤りと失笑を禁じ得ません。


(※)青空文庫で全文を読むことができます。

恒星社 「新星座早見」2020年11月01日 16時57分07秒

雑談ばかりではしょうがないので、本筋のことも書きます。

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ヤフオクで、最近こんな星座早見盤を見つけました。

(差し渡し16.7cm、円盤の直径は15cm)

これは嬉しい発見でした。しばらく前に話題にして、その画像だけは目にしていたものの、その実物に接するのは初めてだったからです。

日本の星座早見盤史に関するメモ(14)…恒星社『新星座早見盤』

上に掲げた写真は、北緯35度の地点で、北を向いたときに見える星空で、裏返すと…


今度は南を向いたときに見える星空が描かれています。


よく見ると、運がよければ南の地平線すれすれに見えるカノープスが、顔をのぞかせています。


この製品は、以前も書いたように、恒星社(※)が戦後まもなく出したもので、考案者は京大の宮本正太郎博士ですが、宮本博士の名前はどこにも表示がありません。また発行年の記載もありませんが、脇に捺された検印から、手元の品は「昭和23年8月28日」に完成したことが分かります。


今回、実際に現物を見て分かったのは、クルクル回る円形星図が、どこにも固定されておらず、地平盤の「ポケット」に挿入されているだけだったことです。

(星座名は、戦前のままの古風な漢字表記)

そして南天用の星図には、日本からは見えない星座もきちんと描かれており、表裏をひっくり返して「ポケット」に入れれば…


地平線から35度の位置に、不動の天の南極があって、その周囲を南の星座がぐるぐる回転しているのが見えます(方位が逆転しているので、「北」は「南」に読み替えてください)。すなわち、これは南緯35度の土地(シドニー、ブエノスアイレス、ケープタウン等)から見た星空なのです。

そして北の方角を向けば、

(上と同じく図中の「南」が、真北の方角になります)

はくちょう座が地平線の近くを低く飛び、日本の北の空を彩る周極星(北斗やカシオペヤ)は、常に地平線下にあって、決して見ることのできない「幻の星座」であることも分かります。

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デザイン的には地味ですが、端正な表情をした、機能的にも興味深い佳品です。


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(※)メモ:恒星社について

恒星社は「恒星社厚生閣」が正式名称ですが、私は「恒星社」の下に引っ付いている「厚生閣」というのが何なのか、今一つ分かっていませんでした。さっき調べたら、下のブログにその経緯が詳しく書かれており、結論から言うと、両者はもともと別の会社です。

しかし、人的つながりや、業務上の関係が以前からあって、戦時下の企業統合で合併したまま今に至っている由。さらに、恒星社を起こした土居客郎(1899-1966)は、「土井伊惣太(どい・いそうた)の別名で活動していたことも、これを読んで初めて知りました。

■出版・読書メモランダム:
 古本夜話739 土居客郎、恒星社、渡辺敏夫『暦』

天文和骨董の世界2020年11月15日 16時41分51秒

世の中は三日見ぬ間の桜かな。
まことに転変の多い世です。


昔の高橋葉介さんの漫画、「宵闇通りのブン」(1980)だと、少女ブンが「パパ遅いな…」と、街灯の下で腕時計を気にしている間にも、貧相なチョビ髭の男が民衆の英雄となり、一国の指導者に上り詰め、戦争が起こり、「話が違うじゃないか!」と嘆く民衆の上に爆弾が降り注ぎ、焼け跡に終戦の号外が配られたところで、ようやく父親が姿を見せて、「ひどいわ。ずいぶん待ったのよ。退屈しちゃったわとブンがふくれっ面をする傍らで、かつての「英雄」は、民衆によって縛り首になる…。


それぐらいの時間感覚で、世界が動いている感じです。
まあ、動くにしても、いい方向に動いているかどうかが肝心でしょうが、そこは一寸混沌としています。

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さて、しばらく蟄居している間に、私の身辺や心の内にも、いろいろなことが去来し、そこにも有為転変の風は吹き荒れていました。でも、だからこその天文古玩です。自らを安んじるため、古人の思いを訪ねて、モノを手にすることは続いています。

そんな中で、最近考えるのは「天文和骨董」は可能か?という命題です。

天文アンティークというのは、私自身それを唱導し、また世間でもそれを愛好する人がポツポツ現れて、そういう品に力を入れるお店もあるわけですが、総じて西洋の品で商品棚が埋まっているのが現状でしょう。

このブログだと、七夕の話題に関連したりで、和の品もときどき登場しましたが、それに興味を持つ人は皆無と言ってよく、2020年現在、「天文和骨董」というジャンルは、まだ存在していないと思います。しかし、これはいずれ形を成す…いや、成してほしいです。

まあ、遠い星の世界を愛するのに、地球上の国や地域という区分は、あまり意味がないとは思います。でも、人々の星への思い―すなわち「星ごころ」は、文化的バックグラウンドがあって花開くものですから、星と同時に「星ごころ」を愛でようとするとき、その時代や国・地域を無視することはできません。

そして、この島国に生まれ育った私が、自らの星ごころを振り返り、その文化的背景に自覚的であろうとすれば、「天文和骨董」というジャンルは、どうしてもあって欲しいのです。確かにそれがなくても、別に困りませんが、自分の趣味嗜好を、他の人と分かち合うためには、そこに共通言語があったほうが何かと便利でしょう。

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「天文和骨董」というと、野尻抱影にも先例があって、抱影には『星と東方美術』という著作があります。この本は以前【LINK】取り上げましたが、そこで抱影が話題にしているのは、「東方美術」の名にふさわしい、博物館や社寺の秘庫に収まっているような歴史的文化財です。

(画像再掲)

一方、私の言う天文和骨董は、趣味人が手元に置いて愛でたくなるような、身近な品々なので、抱影の文章は大いに参考にはなりますが、その手引きには程遠いです。ですから、天文和骨董を語ることは、ちょっと大げさに言えば、「僕の前に道はない」的な、やや強い決意を要することです。

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と言って、最初から「これが天文和骨董だ」と、決めてかかることはしません。

今回、ささやかな試みとして、「和骨董・和の世界」という新カテゴリー【LINK】を作りました。ここには和骨董的な古びた品々をはじめ、ジャパネスクな伝統工芸品や、和の匂いの濃い品をまとめました。そうした品々が集積した先に、おそらく「天文和骨董」の世界も徐々に輪郭を備えてくるのではないか…と予想します。


天文和骨董 序説2020年11月17日 06時39分41秒

天文和骨董を考える上で、前から考えていたことを書きます。

天文和骨董というのは、絵画や工芸の分野に限れば、要するに日月星辰を描いた作品です。…というと、「じゃあ、正月の床の間にかける初日の出の掛け軸も、『天文和骨董』と呼んでいいの?」という疑問が、もやもやと浮かんできます。

(オークションで売られていた掛軸の画像をお借りしました)

「さすがにそこまで行くと、概念の拡張のしすぎじゃない?」という、内なる声も聞こえます。でも、初日の出の掛け軸だって、見方によっては立派な天文和骨董だ…というのが、熟考の上での結論です。

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日本は、星にかかわる習俗や文化が相対的に希薄だというのが、一般的理解だと思いますが、そんな日本人の暮らしにも、星(天体)に関する行事は、連綿と引き継がれています。

たとえば七夕です。あるいはお月見です。
そして初日の出を拝む行為もその一つです。

毎年、暦の最初の日に、大地や海から上る太陽を拝んで一年の幸を祈る、さらにそれを絵に描いて家の中心に飾る…となれば、これは押しも押されもせぬ、立派な天文習俗でしょう。あまりにも陳腐化して、我々はそのことを忘れがちですが、異文化の目を通して見れば、きっとそのように見えるはずです。

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それと、もう一つ気になっていることがあります。

それは「お星様」という言い方です。「お日様」「お月様」という言い方もあります。これらは現在、何となく幼児語として扱われている気がしますが、「お海様」とか「お山様」とは言いませんし、「お雲様」とも「お虹様」とも言いません。ただし「雷様」とは言います。

こうして並べてみると、「雷様」が明らかに人格化された雷神を指しているように、お星様、お日様、お月様という言い方も、日月星辰を神格化し、敬っていた名残だろうと推測されるのです。そして、お日様を「お天道様」とも言うことから、そこには中国思想の影響が濃いこともうかがえます。

こういう風に考えると、日本は星にかかわる習俗や文化が相対的に希薄だ…という言い方もちょっと怪しくて、過去のある時期において、日本人は大いに日月星辰を意識して、しょっちゅう天を振り仰いでいたんじゃないかなあ…と思うのです。(そのわりに星座や星座神話が未発達なのは何故か?というのは、また別に考えないといけません。)

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旭日画に「お日様」の姿が読み取れるなら、月の絵についてはどうでしょうか?

月を愛でるのは、多くの文化に共通でしょう。日本でも月を描いた作品は、これまで無数に描かれてきました。ただ、日本に特徴的なのは、桜、梅、ホトトギス、秋草、雁…そういう特定の自然物と組み合わされて描かれることが多いこと、すなわち表現の様式化が著しいことです。これは日本の詩歌も同様と思います。

(これも借り物の画像)

言うなれば、これはリアルな月(=個性化された月)よりも、様式化された月(=無個性な月)を愛でる態度に通じます。これこそが旭日画との大きな共通点であり、そこに私は「お月様」の匂い――月の神格化の残滓――を感じるのです。(宗教画は本来「偶像」であり、没個性をその本質とするものでしょう。) ここでは、梅や秋草や雁は、いわば月という<本尊>に対する「お供え」であり、荘厳(しょうごん)なのだ…というわけです。

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まあ、この辺は異論もあるでしょうし、私の中でもまだ生煮えの考えに留まっています。
それに、上に書いたことは、あくまでも「理念」です。潜在的に天文和骨董と呼びうるからといって、何でもかんでもそうだと言い立てるのは、良識ある態度とは言えません。記事の方はもう少し節度をもって書き進めたいと思います。

いずれにしても、この国に暮らした人々の天空への思いを、モノを通してたどろう…というのが、私の意図するところです。

異文化としての天文和骨董2020年11月20日 06時31分40秒

前回の記事は、何だか全部自分の頭で考えたことのように書きましたが、私が「天文和骨董」という概念を、明瞭に自覚したのは、一種の「外圧」によるものです。つまり、異国の人に指摘されて、そのことに気づいたのでした。

以前もチラッと触れた【LINK「History of Astronomy」というツイッターアカウントがあります(@ HistAstro)。

シカゴのサイエンス・インダストリー博物館の学芸員、ヴーラ・サリダキス(Voula Saridakis)さんのアカウントで、内容は読んで字のごとくですが、狭義の「天文の歴史」のみならず、天文に関わる事象を広く取り上げているので、ここではシンプルに「天文史」と呼ぶことにします。

そして、そこにしばしば日本のモノも登場します。でも、我々の感覚からすると、「おや?これも天文に関わる事物なのかな?」と思えるものが多くて、そこに興味を覚えたのでした。

最近のツイートから、その実例を見てみます。
(以下、青字部分はツイート本文の私訳)

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 「七福神のうちの二人である恵比寿(左)と大黒(右)、そしてネズミから始まる十二支動物の輪を描いた絹本掛軸(1816年)。依田竹谷〔よだ・ちっこく〕作、大英博物館蔵。」
https://britishmuseum.org/collection/object/A_1881-1210-0-2348

どうでしょう?この絵が、古星図やアストロラーベと並立する存在だと感じられますか?我々からすれば、単なる縁起のいい吉祥画にしか見えませんが、サリダキスさんの目には、これが「天文史の遺品」と見えているのです。おそらく、十二支という観念が、暦学をはじめ、中国文化圏における時間と空間の秩序を規定するものとして、いかに重要かを、彼女が熟知しているからでしょう。

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今度は北斎の錦絵です。

 「“天の原 ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも”
 日本人・葛飾北斎(1760-1849)の絵。詩は阿倍仲麻呂(698-770)が中国で詠んだもの。」
https://metmuseum.org/art/collection/search/56175

仲麻呂の歌の英訳も面白いので挙げておきます。

"It might be the moon that shone above Mount Mikasa in Nara 
that I see in this faraway land 
when now I look across the vast fields of the stars."

繰り返しになりますが、この絵も天文史の1ページを飾る作品なのです。少なくともサリダキスさんは、そのようなものとして、これを引用しています。月に深い望郷の思いを重ねた古人の心根とともに、「遠隔地で観察した月」という主題が、天文史的エピソードを構成しているのでしょう。

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恵比寿・大黒に続いて、布袋さまも登場です。
この禅画「布袋指月図」の賛は、英語ではこうなっています。

"His life is not poor
He has riches beyond measure
Pointing to the moon, gazing at the moon
This old guest follows the way" 

そのオリジナルとともに、以下ツイートの本文を挙げます。

 「指月看月途中老賓 (月を指し 月を看る 途中の老賓)
 生涯不貧大福無隣 (生涯貧ならず 大福隣なし)
 風外慧薫(ふうがい・えくん 1568-1654〔別資料では1650〕)作。軸装。紙本に墨。ジョンソン美術館〔ニューヨーク〕蔵。」
https://museum.cornell.edu/collections/asian-pacific/japan/hotei-pointing-moon

分かったような、分からないような話ですが、天文史の世界は、こうして禅の世界も包摂して広がっているのです。これは月の精神性というテーマに関わる領域でしょう。

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こちらは仏画です。と言って、純粋な仏画とも言えません。

 「日本の神道/仏教の掛軸。1700年ころ。雨宝童子を描いたもの。雨宝童子は毘盧遮那仏(真理と光明を放つ大日如来)の化身である。また神道の太陽女神である天照と結びつき、難陀竜王と金毘羅王を付き従えている。ジョンソン美術館蔵。」
http://emuseum.cornell.edu/view/objects/asitem/items$0040:37143

ここでは太陽の神格化が、インド・中国・日本で複雑に絡み合っている様子が、天文史的に興味深いわけです。

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さらに、こうした文芸・美術関連の品々ばかりでなく、オーソドックスな天文学史的品ももちろん紹介されています。以下は、日本の国会図書館の特設ページ「江戸の数学」からの一品。


 「江戸時代の日本の著作『秘伝地域図法大全書』の付録。太陽と月の位置関係を示す紙製装置が備わっている。国会図書館蔵。」
https://ndl.go.jp/math/e/s2/4_2.html

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他人の褌を借りましたが、こうして眺めると、私が言わんとする天文和骨董の広がりを、おおよそ分かっていただけるでしょう。そして、何となくすすけた品々が、異文化の目を通して見ると、また違った色合いに見えてくるのを感じます。

お知らせ2020年11月22日 10時18分40秒

天文和骨董のマイブームに乗って、この辺で大いに記事を書こうと思ったのですが、好事魔多し、身辺がのっぴきならない状況になってきたので、またちょっと記事の間隔があきます。(身体が二つ、ないし三つ欲しいと思うのは、こういう時ですね。)

名古屋星めぐり(その1)2020年11月23日 08時31分28秒

昨日の今日ですが、忙しいと逃避したくなるもので、やっぱり記事を書いてしまいます。
天文和骨董から連想して、以下、身近な場所で日本における星の文化史を考えようという試みです。

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名古屋の東部、昭和区に「浄昇寺」というお寺があります。


名古屋の地理に通じている方は少ないでしょうが、ランドマークでいうと、名古屋大学や東山動物園の南にあたります。

(浄昇寺公式サイト http://joushouji.web.fc2.com/
 同寺インスタグラム https://www.instagram.com/josho_ji/?hl=ja

ここはお寺なんですが、なぜか参道に鳥居が立っていて…


そこに「妙見宮」という額がかかっています。


お寺の正式名称は「妙見山浄昇寺」。妙見町という地名の由来にもなっています。

(一つ上の写真は裏参道で、こちらが表参道。ここにも鳥居と「妙見宮」の扁額)

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宗派でいえば日蓮宗のお寺ですが、より端的には「妙見信仰」の寺で、こういう神仏習合的な寺のあり様は、妙見信仰そのものの複雑な性格を物語っています。

(ウィキペディアの「妙見菩薩」の項に載った、その多様な姿)

本尊である妙見菩薩は、北極星を神格化したもので、仏教や神道というよりも、本来は道教や陰陽道の星神信仰の色彩が濃い尊格です。日本では、中世に武神としての性格を強め、さらに北斗信仰と融合し、坂東平氏の一族である千葉氏が深く帰依したことでも知られます。

近世に入ると、「妙見」の文字から、眼病平癒を祈願する庶民信仰の場として、各地で繁盛しました。浄昇寺の場合も、元は神仏に祈って眼疾が治った村人が、妙見像を勧請したのが始まりだそうです。


しかし、本堂に「北辰殿」の額がかかり、星祭りの祈祷会を毎年行っているのは、星辰信仰の場たるその本分を今に伝えています。

名古屋における妙見信仰の場は、ごく希少です。まずはここを起点に話を進めます。

(この項つづく)

名古屋星めぐり(その2)2020年11月24日 06時19分35秒



昨日の浄昇寺から南に10分ぐらい歩くと、「八事山興正寺(やごとさんこうしょうじ)」という大きなお寺があります。



尾張徳川家の祈願所として、「尾張高野」とも呼ばれた真言宗別格本山で、境内には江戸時代に建立された五重塔がそびえる、なかなか立派なお寺です。(ひところ寺の経営をめぐって内紛があり、新聞紙上をにぎわしましたが、今は正常化しました。)

(興正寺公式サイト https://www.koushoji.or.jp/

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その本堂の隅に、一体の仏像が祀られています。


しかし、これまた仏像といっていいのか、神像といっていいのか、でもルーツを考えれば、道教系の神様でしょう。

(本堂の正面向かって右手の厨子に安置されています。)

それは寿老人です。興正寺の寿老人は、「名古屋七福神」の一つになっているので、福を求める人々になかなか人気があります。

妙見が北極星の神格化なのに対して、寿老人は南極星の神格化です。
もちろん、日本や中国からだと、天の南極は地平線下にあって見えませんけれど、南の地平線近くに輝くカノープス(りゅうこつ座アルファ星)を南極星に見立てて、これを古来「南極老人星」と称しました。

北極星も、南極星も、人の運命を司る存在という基本的な性格は同じです。
でも、北極星には「死」、南極星には「生(長寿)」のイメージが投影されたことで、寿老人は、妙に福々しい存在となりました。

(大日如来や弘法大師が祀られた本堂)

そして興正寺は真言宗の寺ですから、真言の儀軌にしたがって、毎年2月に星祭り(星祭御札祈祷会)が行われます。

(興正寺発行のフリーペーパー「八事山文庫」、2020冬号より)

北に北極あれば、南に南極あり。
名古屋のこの狭いエリアで、天の南北両極が対峙し、星に祈りを込める人々の強い磁場が形成されているのは、なかなか見事な眺めです。

(この項さらに続きます)

名古屋星めぐり(その3)2020年11月25日 06時42分00秒

(前回の続き)

これら「天の両極」を囲むように、さらに、いくつかの関連スポットを見出すことができます。

一つは「星の町」です。
それが天の両極エリアの東北に位置する「星ヶ丘」


これは古い地名ではありません。
戦後になって、新興住宅地のイメージ向上を狙ってネーミングされたものです。そこに込められた願いは、「星にもっとも近く、輝く星の美しい丘」。全国のあちこちに新興の「ナントカが丘」は多いですが、星を持ってきたのは上出来です。

その甲斐あってか、今ではちょっとオシャレな繁華街として、毎年、住みたい街ランキングの上位に入る街に成長しました(あくまでも名古屋ローカルのイメージです。全国区ではありません)。

(「やっぱり憧れの街」と購買欲をあおるデベロッパー。

古い由緒はないにしろ、戦後(1950年代)、星のロマンチシズムが人々に訴求力を持ち、引いてはその住選択行動までも左右したという事実、これも星の文化史の一頁でしょう。

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もう一つは、「月の町」です。
すなわち、天の両極エリアの西北に位置する、「観月町(かんげつちょう)」「月見坂町」で、いずれも江戸時代、ここが月見の名所だったことに由来します。



現在は、地下鉄の覚王山駅(※)をはさんで、南が観月町、北が月見坂町になっています。

(覚王山駅周辺の景観。ウィキペディアより)

今ではすっかり都市化しましたが、江戸の昔、名古屋の風流人士は盛んにこの地に杖をひき、月への憧れを和歌や俳句に詠みました。星ヶ丘にならえば、ここは「月にもっとも近く、輝く月の美しい丘」だったわけです。

(※)覚王山とは「覚王山日泰寺」のこと。ここはインドで発見された真正の仏舎利を祀る寺として有名です。明治時代、インドからタイを経て日本に贈られた、この仏舎利の受け入れをめぐって、京都と名古屋の仏教会が、当時熾烈な争いを繰り広げたと聞きます。現在は各宗が輪番で住職を務める、超宗派の寺院になっています。

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以上のことは、単なる言葉遊びに過ぎないかもしれません。
でも、偶然にも「意味のある偶然」というのがあります。そして、そこに確かに意味があるならば、さらに偶然は続くものです。

天の両極を囲んで「星の町」と「月の町」があるなら、「太陽の町」もあるべきで、現に「太陽の町」は存在します。そして日月星辰が美しいトライアングルを描いているのです。


「太陽の町」、それは両極の南に位置する「八事天道(やごとてんどう)」です。
八事には興正寺のほかに、実はもうひとつ「コウショウジ」があって、そちらは「天道山高照寺」(臨済宗)といいます。もちろん、町名はこの寺の名が元になっています。上の地図の「天道幼稚園」がその位置で、ここは高照寺が経営する幼稚園です。


このお寺は「天道祭り」というのを、毎年行っています。
「天道祭り」と書いて「おてんとまつり」、文字通り「おてんとさま」ですね。


立派な境内ですが、仔細に見ると、ここはずいぶん不思議なお寺です。


本堂の中をのぞき込むと、その本尊は何と「神鏡」。
仏像の一形態として、金属円盤に仏の姿を彫りつけた「鏡像」というのもあるので、鏡を本尊にしても、別に悪くはないんですが、この鏡は神社のご神体そのままです。一体なぜか?

それを解くカギが、拝殿の長押(なげし)に掲げられた御詠歌の文句(和讃)です。



要するに、このお寺が祀るのは「太陽」であり、月であり、星であり、太陽をシンボライズした大日如来こそが、その本尊だというのです。そして大日如来は、本地垂迹説に基づいて天照大神と同一視され、鏡はその象徴です。まさにすべてが太陽尽くし。だからこその「天道」山であり、「高照」寺なのです。

「その1」に登場した、妙見山浄昇寺と同様、ここも神仏習合の匂いが濃いですが、実際、明治の神仏分離以前、ここは隣接する「五社宮」という神社と一体の存在でした。臨済宗らしからぬ大日如来を本尊にしているのも、もともと宗派のはっきりしない「村のお堂」にそのルーツがあるからでしょう。

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名古屋のごく狭い地域に限っても、星をめぐる文化史的エピソードには事欠きません。こうして眺めてくると、日本には星に関わる信仰・習俗が希薄どころか、大いにあった…ということが、自ずと実感されます。そしてまた、習合を繰り返した星の神々の複雑な歴史の向こうに、汎ユーラシア的な文化の広がりが感じられるのです。

(この項おわり)