異文化としての天文和骨董2020年11月20日 06時31分40秒

前回の記事は、何だか全部自分の頭で考えたことのように書きましたが、私が「天文和骨董」という概念を、明瞭に自覚したのは、一種の「外圧」によるものです。つまり、異国の人に指摘されて、そのことに気づいたのでした。

以前もチラッと触れた【LINK「History of Astronomy」というツイッターアカウントがあります(@ HistAstro)。

シカゴのサイエンス・インダストリー博物館の学芸員、ヴーラ・サリダキス(Voula Saridakis)さんのアカウントで、内容は読んで字のごとくですが、狭義の「天文の歴史」のみならず、天文に関わる事象を広く取り上げているので、ここではシンプルに「天文史」と呼ぶことにします。

そして、そこにしばしば日本のモノも登場します。でも、我々の感覚からすると、「おや?これも天文に関わる事物なのかな?」と思えるものが多くて、そこに興味を覚えたのでした。

最近のツイートから、その実例を見てみます。
(以下、青字部分はツイート本文の私訳)

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 「七福神のうちの二人である恵比寿(左)と大黒(右)、そしてネズミから始まる十二支動物の輪を描いた絹本掛軸(1816年)。依田竹谷〔よだ・ちっこく〕作、大英博物館蔵。」
https://britishmuseum.org/collection/object/A_1881-1210-0-2348

どうでしょう?この絵が、古星図やアストロラーベと並立する存在だと感じられますか?我々からすれば、単なる縁起のいい吉祥画にしか見えませんが、サリダキスさんの目には、これが「天文史の遺品」と見えているのです。おそらく、十二支という観念が、暦学をはじめ、中国文化圏における時間と空間の秩序を規定するものとして、いかに重要かを、彼女が熟知しているからでしょう。

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今度は北斎の錦絵です。

 「“天の原 ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも”
 日本人・葛飾北斎(1760-1849)の絵。詩は阿倍仲麻呂(698-770)が中国で詠んだもの。」
https://metmuseum.org/art/collection/search/56175

仲麻呂の歌の英訳も面白いので挙げておきます。

"It might be the moon that shone above Mount Mikasa in Nara 
that I see in this faraway land 
when now I look across the vast fields of the stars."

繰り返しになりますが、この絵も天文史の1ページを飾る作品なのです。少なくともサリダキスさんは、そのようなものとして、これを引用しています。月に深い望郷の思いを重ねた古人の心根とともに、「遠隔地で観察した月」という主題が、天文史的エピソードを構成しているのでしょう。

   ★


恵比寿・大黒に続いて、布袋さまも登場です。
この禅画「布袋指月図」の賛は、英語ではこうなっています。

"His life is not poor
He has riches beyond measure
Pointing to the moon, gazing at the moon
This old guest follows the way" 

そのオリジナルとともに、以下ツイートの本文を挙げます。

 「指月看月途中老賓 (月を指し 月を看る 途中の老賓)
 生涯不貧大福無隣 (生涯貧ならず 大福隣なし)
 風外慧薫(ふうがい・えくん 1568-1654〔別資料では1650〕)作。軸装。紙本に墨。ジョンソン美術館〔ニューヨーク〕蔵。」
https://museum.cornell.edu/collections/asian-pacific/japan/hotei-pointing-moon

分かったような、分からないような話ですが、天文史の世界は、こうして禅の世界も包摂して広がっているのです。これは月の精神性というテーマに関わる領域でしょう。

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こちらは仏画です。と言って、純粋な仏画とも言えません。

 「日本の神道/仏教の掛軸。1700年ころ。雨宝童子を描いたもの。雨宝童子は毘盧遮那仏(真理と光明を放つ大日如来)の化身である。また神道の太陽女神である天照と結びつき、難陀竜王と金毘羅王を付き従えている。ジョンソン美術館蔵。」
http://emuseum.cornell.edu/view/objects/asitem/items$0040:37143

ここでは太陽の神格化が、インド・中国・日本で複雑に絡み合っている様子が、天文史的に興味深いわけです。

   ★

さらに、こうした文芸・美術関連の品々ばかりでなく、オーソドックスな天文学史的品ももちろん紹介されています。以下は、日本の国会図書館の特設ページ「江戸の数学」からの一品。


 「江戸時代の日本の著作『秘伝地域図法大全書』の付録。太陽と月の位置関係を示す紙製装置が備わっている。国会図書館蔵。」
https://ndl.go.jp/math/e/s2/4_2.html

   ★

他人の褌を借りましたが、こうして眺めると、私が言わんとする天文和骨董の広がりを、おおよそ分かっていただけるでしょう。そして、何となくすすけた品々が、異文化の目を通して見ると、また違った色合いに見えてくるのを感じます。

コメント

_ S.U ― 2020年11月20日 08時04分37秒

この「異国の人に指摘」の件は、何か2つの極端が混じっているように感じます。それはそれで面白いです。

 一つは、日本にとって、「お月様」「お星様」がかなり親しい存在であるために(神様ではなくて、近所のちょっ物知りの人のような)、天文に関わる比較的凡俗な作品が学問的に見えてしまうことがあるように思います。

 もう一つは、汎学問としての東洋哲学が、天文学として捉えられていることです。これは、気と象、易の哲学は現在の化学・物理学に対応するものですから、ある意味、正しい見方と言えると思います。でも、東洋哲学全体を天文学と見るのは、大風呂敷の広げすぎでしょう。

 ここで、十二支と天文に関連した疑問ですが、

「十二支」は「十二次」から派生し、「十二次」は木星の毎年の位置を記すためと事典にあります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E6%AC%A1

「十二次」が「十二支」に派生した動機が、木星の周期だというふうに読めます。

 しかし、一般向けには、木星は、天空を回る周期が12年で「十二支」と同じなので「歳星」と呼ばれると説明されています。
 一見、因果関係の説明が循環論法になっているように思いますが、どういう時間順なのでしょうか。

 まず、木星とは関係なしに、天の位置システムとして「十二次」が存在した。
 木星が、毎年、この位置システムを移動していくことが発見され、「歳星」と呼ばれるようになった。
 これが「歳星紀年法」という年を記す方法として暦に応用された。
 その後、暦の記載の便宜のために十二支が生まれた。

ということになるのでしょうか。これだと、十二支が生まれたのは、木星の存在のおかげということになります。

_ 玉青 ― 2020年11月21日 08時48分06秒

>大風呂敷

あはは。まあ大風呂敷は大風呂敷ですよね。
でも何せ相手は大宇宙ですからね。それを包むには相当な大風呂敷が必要です。

  +

ときに十二支の件、全然不案内なので(にもかかわらず、知ったかぶりをして記事を書いたのは、私なりの大風呂敷です)、とりあえずウィキペディアの各項に拠って頭の中を整理してみます。

まず、十二支の起源が何かは、歴史の闇に溶け込んで、よく分からないみたいですね。いずれにしても、殷代にはすでに干支による日取り法が使われていたそうですから、その歴史は黄河文明と同じぐらい、非常に古いもののようです。

しかし、十二支の称が天球の十二分割の名称に“転用”され、「十二辰」として用いられるようになったのは、戦国時代のことと言いますから、かなり後代に属します。

一体に、戦国時代は中国天文学の道具立てが出揃った時期で、十二次や十二辰という座標系や、木星を「歳星」とする考えが相前後して生まれたのもそうですし、「十二辰=十二支」と「十二次=歳星」の並び順を整合させるために、「太歳」の観念が生まれたのも、紀元前4世紀のことと言います。これはすなわち魏の石申や、斉の甘徳の活躍期にあたり、この頃が中国天文学の「第1次確立期」ということになるのでしょう。

なお、十二次という観念と、木星の12年周期の発見の先後ですが、十二次というアイデア自体は、木星と無関係に創案できるにしても、それに形を与えるには、やっぱり木星という確たる存在が必要だったんじゃないでしょうか。そして、木星の天球上の位置を知るには、その前提として星座の知識が不可欠ですから、歴史的順序としては、「二十八宿の成立」→「木星の12年周期の発見」→「十二次の設定」だったのでは…と想像します。

_ S.U ― 2020年11月21日 18時40分59秒

十二支の起源の考察、ありがとうございます。

 十二支の漢字(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)の象形的意味の説明として、植物の生長を著しているというのが、これまで私はもっとも説得力のある説明だと思っていました。これが正しいとすると、十二支は1年の12の月から発生したことになりますよね。

 ただし、東洋で暦の12か月を恒星の座標系に移した独自例がない(西洋の黄道星座の占星術の伝搬を除いて)とすると、この流れはここでストップしてしまいます。西洋占星術が早めに伝わっていたら、歳星が番を張る以前に天に十二支の12区画を作ることができるのですが・・・、混沌としてきたように思います。

 いずれにしましても、御ブログの天文和骨董の世界で、私の申し上げた両極端、つまり「日本民衆の凡俗な天文ネタ」と「難解な東洋哲学理論」の双方を結びつけるような品が見つかることを楽しみにしております。

_ 玉青 ― 2020年11月22日 08時14分13秒

十二支の由来は茫洋としていますが、西洋の人がそこに天文史的興味を感じるのは、英語で言うところの「(chinese)zodiac」という名称そのものが、十二宮とパラレルに感じられるから…というのが大きいかもしれませんね。

私の感覚だと、十二という数字を除けば、あまり両者に共通するものを感じません。十二支を天と結びつけて考えることが、日常ほとんどないからでしょう。あるいは、西洋・ヘレニズム文化圏の人も木星に注目して、それを十二宮と結びつけて考えていたら、大いに似てきたはずなのに、なぜそうならなかったのか、そこがむしろ不思議です。

何にせよ、十二支にしろ十二宮にしろ、同一のシステムが何千年も使われ続けていることは、素朴にすごいです。

   +

「さっき天気予報を見てたら、気象庁が台風に厳重警戒をとか言ってたよ。え?それで明日の自然観察会は中止?道理で浮かない顔をしてるわけだ。まあ何事も運命だよ。元気出しなよ。」

天気、気象、自然、道理、運命、元気…

平凡卑俗と東洋哲学の粋は、日常生活の中で既に合一しているのです…というのは冗談ですが、日ごろ使っている言葉も、突き詰めて考えるとなかなか味わい深いですね。宅配便に貼られた「天地無用」のシールが、何だかやけに高邁な四字熟語に見えてきたりします。

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