名古屋星めぐり(その3)2020年11月25日 06時42分00秒

(前回の続き)

これら「天の両極」を囲むように、さらに、いくつかの関連スポットを見出すことができます。

一つは「星の町」です。
それが天の両極エリアの東北に位置する「星ヶ丘」


これは古い地名ではありません。
戦後になって、新興住宅地のイメージ向上を狙ってネーミングされたものです。そこに込められた願いは、「星にもっとも近く、輝く星の美しい丘」。全国のあちこちに新興の「ナントカが丘」は多いですが、星を持ってきたのは上出来です。

その甲斐あってか、今ではちょっとオシャレな繁華街として、毎年、住みたい街ランキングの上位に入る街に成長しました(あくまでも名古屋ローカルのイメージです。全国区ではありません)。

(「やっぱり憧れの街」と購買欲をあおるデベロッパー。

古い由緒はないにしろ、戦後(1950年代)、星のロマンチシズムが人々に訴求力を持ち、引いてはその住選択行動までも左右したという事実、これも星の文化史の一頁でしょう。

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もう一つは、「月の町」です。
すなわち、天の両極エリアの西北に位置する、「観月町(かんげつちょう)」「月見坂町」で、いずれも江戸時代、ここが月見の名所だったことに由来します。



現在は、地下鉄の覚王山駅(※)をはさんで、南が観月町、北が月見坂町になっています。

(覚王山駅周辺の景観。ウィキペディアより)

今ではすっかり都市化しましたが、江戸の昔、名古屋の風流人士は盛んにこの地に杖をひき、月への憧れを和歌や俳句に詠みました。星ヶ丘にならえば、ここは「月にもっとも近く、輝く月の美しい丘」だったわけです。

(※)覚王山とは「覚王山日泰寺」のこと。ここはインドで発見された真正の仏舎利を祀る寺として有名です。明治時代、インドからタイを経て日本に贈られた、この仏舎利の受け入れをめぐって、京都と名古屋の仏教会が、当時熾烈な争いを繰り広げたと聞きます。現在は各宗が輪番で住職を務める、超宗派の寺院になっています。

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以上のことは、単なる言葉遊びに過ぎないかもしれません。
でも、偶然にも「意味のある偶然」というのがあります。そして、そこに確かに意味があるならば、さらに偶然は続くものです。

天の両極を囲んで「星の町」と「月の町」があるなら、「太陽の町」もあるべきで、現に「太陽の町」は存在します。そして日月星辰が美しいトライアングルを描いているのです。


「太陽の町」、それは両極の南に位置する「八事天道(やごとてんどう)」です。
八事には興正寺のほかに、実はもうひとつ「コウショウジ」があって、そちらは「天道山高照寺」(臨済宗)といいます。もちろん、町名はこの寺の名が元になっています。上の地図の「天道幼稚園」がその位置で、ここは高照寺が経営する幼稚園です。


このお寺は「天道祭り」というのを、毎年行っています。
「天道祭り」と書いて「おてんとまつり」、文字通り「おてんとさま」ですね。


立派な境内ですが、仔細に見ると、ここはずいぶん不思議なお寺です。


本堂の中をのぞき込むと、その本尊は何と「神鏡」。
仏像の一形態として、金属円盤に仏の姿を彫りつけた「鏡像」というのもあるので、鏡を本尊にしても、別に悪くはないんですが、この鏡は神社のご神体そのままです。一体なぜか?

それを解くカギが、拝殿の長押(なげし)に掲げられた御詠歌の文句(和讃)です。



要するに、このお寺が祀るのは「太陽」であり、月であり、星であり、太陽をシンボライズした大日如来こそが、その本尊だというのです。そして大日如来は、本地垂迹説に基づいて天照大神と同一視され、鏡はその象徴です。まさにすべてが太陽尽くし。だからこその「天道」山であり、「高照」寺なのです。

「その1」に登場した、妙見山浄昇寺と同様、ここも神仏習合の匂いが濃いですが、実際、明治の神仏分離以前、ここは隣接する「五社宮」という神社と一体の存在でした。臨済宗らしからぬ大日如来を本尊にしているのも、もともと宗派のはっきりしない「村のお堂」にそのルーツがあるからでしょう。

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名古屋のごく狭い地域に限っても、星をめぐる文化史的エピソードには事欠きません。こうして眺めてくると、日本には星に関わる信仰・習俗が希薄どころか、大いにあった…ということが、自ずと実感されます。そしてまた、習合を繰り返した星の神々の複雑な歴史の向こうに、汎ユーラシア的な文化の広がりが感じられるのです。

(この項おわり)