大天使の剣2021年01月19日 21時43分13秒



19世紀の幻燈スライド。月景色のスライドを探していて見つけました。


正面はローマのサンピエトロ寺院。
右手の巨大な円筒形の建物は、サンタンジェロ城です。
テベレ川のほとりでは、男女が歌と踊りに興じ、その様子を月が黙って見下ろしています。

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ペストというと14世紀にはじまる「黒死病」のことばかり思い浮かべますが、そのはるか以前、6世紀にも東西のローマ帝国で大流行があったことを、ウィキペディアの「ペストの歴史」に教えられました。

その流行の末期、時の教皇グレゴリウス1世は、古のハドリアヌス帝の廟を改造した城塞・サンタンジェロ城の頂上で、大天使ミカエルが剣を鞘に収める姿を目撃し、さしもの疫病も終息を迎えたことを知った…というエピソードがあるのだとか。


月明かりに照らされて、城の頂に白く光る大天使の像。
この像は1753年に大理石から青銅に作り替えられたそうで、この幻燈画は昔の大理石時代の風俗を描いたものかもしれません。


上部が見切れていますが、側面ラベルには「dissolving pictures」と書かれています。これは幻燈の映写技法の一種、「スーパーインポーズ」のことです。このスライドの場合だと、昼間の景色を描いた別のスライドと重ねて映写し、昼景と夜景の入れ替わりを見せたのでしょう。

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第3ミレニアムの21世紀、コロナの威力はまことに強大で、さしものミカエルも未だ剣を収めかねているようです。でも、神や仏の力を期待するのは、およそ人事を尽くしてからです。我々には、まだ為すべきことや、為さざるべきことがたくさんあるように思います。

時計と天文学2021年01月21日 21時17分16秒

ヨーロッパ各地にある天文時計は、大時計の文字盤と並んで、月の満ち欠けとか、今太陽が十二宮のどこにあるかとか、各種の天文現象をシミュレートするからくり仕掛けで、見る者の目を楽しませてくれます。

(ベネチアのサンマルコ広場の天文時計。ウィキペディアより)

しかし、時刻を知らせる普通の大時計にしても、あるいは、それを見上げる観光客の手首に光る腕時計にしたって、そもそも、それ自体が天文現象をシミュレートするために生み出されたんだ…ということは、ややもすれば忘れられがちです。何の天文現象かといえば、太陽の日周運動であり、見方を変えれば地球の自転です。このことは以前も書きました。


そのことを改めて想起したのは、『時計製作術-天文学の子供』という、そのものズバリのタイトルの本を見たからです。

■Dominique Fléchon & Grégory Gardinetti(著)
 『Horology, a Child of Astronomy』
 Fondation de la Haute Horlogerie (Genève)、2013.

この本は、スイスのジュネーブに本拠を置く「高級時計財団」が発行したものです。ここは要するに時計の業界団体なのでしょうが、そこが自らのアイデンティティを振り返ったとき、自分たちは天文学という伝統ある学問の直系の子孫なんだ…と自覚したというのは、何だかスケール感のある話だなと思いました。


内容は美しいカラー図版で、天文学をめぐるいくつかのテーマに沿って、工芸品的な古今の時計を紹介するというものです。



時計というのは、昔から金満家の独壇場で、今でも百万円単位、さらには1千万円単位の腕時計を購入して悦に入る富裕層が少なくないようです。ステータスシンボルとしての時計と聞くと、少なからず感情的な反発も覚えますが、時計自体に罪はないし、一見無駄な細工に余分なコストをかけるのが文化だ…という考えに従えば、やっぱりこれも文化なのでしょう。

まあ金満家とは縁遠いにしろ、毎日使っている時計を眺めて、そこに天文学の片鱗を感じるとしたら、それはそれで豊かな経験といえるんじゃないでしょうか。

ベネチアの青い空と星座神話2021年01月23日 14時01分54秒

前回の記事の枕に、ベネチアのサンマルコ広場の天文時計の写真を載せました。
時計を含む塔楼は、1490年代に建てられた美しいルネサンス建築です。

(再掲)

あれには多少の意図があって、本棚の隅で寝ている天文時計にも、ついでに言及しようと思ったのでした。


どうです、なかなかきれいなものでしょう。


この文字盤は3層の円盤から成っていて、太陽と月はそれぞれ独立に回転するので、ベネチアの本家さながらの、立派な仕上がりです(もちろん自動で動くわけではありません。パーツが可動というだけです)。

そもそもこれは何か? 別にベネチア土産ではなくて、本の一部です。


本の外箱というか、表紙というか、そこに丸窓がくりぬかれていて、そこからこの天文時計の細工物が顔をのぞかせているのでした。外箱は、縦44cm、幅33.5cmの大きさがあって、さらに厚さが10cmを超えるという、相当かさばる本です。

ただ、上で「本」と言いましたが、これは通常の意味で本の形をしていません。



外蓋を開け、さらに天文時計の付いた中蓋を開けると、箱の中にはマット装された彩色写本の複製が12枚バラの状態で入っているという、セット物の画集です(マットサイズは40×29.5cm)。

■Herrscher des Himmels: Die zwölf Tierkreiszeichen und ihre Mythen.
 『天の統治者―黄道十二宮とその神話』
 Coron Verlag (Zurich)、2005



読んで字のごとく、十二星座を描いた古写本の複製零葉を集めたもので、有名な「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」から採った1枚をはじめ、主に15~16世紀の写本を中心に、大小さまざまな絵柄を目で楽しむセットです。外箱の天文時計は、十二星座に歴史ロマンを重ねて見る、そんな現代の読者に向けた、ブックデザイナーのサービス精神に満ちた贈り物なのでしょう。


各種ファクシミリ版の刊行は、現在もコンスタントに続いており、デジタル時代になっても(デジタル時代だからこそ?)、美麗な頁をパラパラ手でめくりたいという願望は、なかなか根強いものがあるようです。


【参考】 以下、全図版一覧です。

1) AQUARIUS - Stammheimer Missale, Hildesheim, 1160-1180頃
  Los Angels, The J. Paul Gety Museum, Ms. 64, fol. 4r 
2) PISCES - Stundenbuch des Herzogs von York, Rouen, 1430/40頃
   Rome, Biblioteca Vaticana, Cod. Vat. Lat. 14935, fol. 2v/3r
3) ARIES - Breviarium Mayer van den Bergh, 1510頃
  Antwerpen, Museum Mayer van den Bergh, inv. 946, fol. 2v
4) TAURUS - Stundenbuch der Isabel la Católica, 1450-1460
  Madrid, Real Biblioteca del Palacio Real, s.n., fol. 4r
5) GEMINI - Grandes Heures d´Anne des Bretagne Paris, 1503-1508
 Paris, Bibliothéque nationale de France, Ms. Lat. 9474, fol. 8r
6) CANCER - Flämischer Kalender, Brügge, 1525頃
  München, Bayerische Staatsbibliothek, Clm 23 638, fol. 7v/8r
7) LEO - Französisches Stundenbuch, 1500頃
  London, British Library, Add. Ms. 11866, fol. 6v/7r
8) VIRGO - the Bedforn Hours, 1420頃
  London, British Library, Add. Ms. 18850, fol. 8r
9) LIBRA - Grandes Heures du Duc de Rohan Paris, 1430-1435頃
  Paris, Bibliothéque nationale de France, Ms. Lat. 9471, fol. 13r
10) SCORPIUS - Les Très riches Heures du Duc de Berry Paris, 1413頃
  Chantilly, Musée Condé, Ms. 65, fol. 10v
11) SAGITTARIUS - Les Petites Heures du Duc de Berry Paris, 1372 - 1390
  Paris, Bibliothéque nationale de France, Ms. Lat. 18014, fol. 6r
12) CAPRICORNUS - Stundenbuch Niederlande/Brügge(?), 1500頃
  München, Bayerische Staatsbibliothek, Clm 28345, fol. 13r

現代文明を作ったもの2021年01月24日 09時55分00秒

現代文明を作った究極のものとは何か?
電気でしょうか?それとも通信技術でしょうか?
あるいはコンクリート?近代教育制度?

いろいろな考え方があるとは思いますが、下の箱の中に、私が思う究極のものが入っています。イギリスの業者の言い分によれば、オーストリアで使われた1950年頃の学校教材だそうです。

(箱の大きさは30×40cm)

その中身は…


これです。私が考える、現代文明を作った究極のものとは「化石燃料」
上の教材は、さまざまな産状の石炭と石油精製物のサンプルをセットにしたものです。

文明とは人間の活動の総体であり、当然エネルギーを必要とします。
そして近代以降、人間社会が飛躍的な変化を遂げた根本原因は、人類が化石燃料という膨大なエネルギー源を手にしたからだ…というのが、私の考えです。その基本構図は、おそらく200年前も、今も変わってないでしょう。

今もこうしてキーボードをカシャカシャ叩いて、IT技術こそ現代文明の根幹のような気になっていますが、一皮むけば、今もこれらの顔触れが、それを下支えしているはずです。(ここに顔を出していない大立者は天然ガスですが、それもまた化石燃料です。)


右側の石炭ファミリーは、いかにも地味ですが、左側の石油ファミリーは、こう言ってよければ、「きれいな」表情をしています。

前者が、原木から泥炭、さらに亜炭褐炭瀝青炭無煙炭へと、自然の大地が長い時間をかけて、徐々に石炭化を進めた結果であるのに対し、後者はガソリンにしろ、重油軽油にしろ、その他パラフィンや各種の機械潤滑油にしろ、すべて人間がせっかちに分留・混和してこしらえたものという点が、両者の印象の違いを生んでいる気がします。(もっとも、大地だってその気になれば、数々の宝石を生み出す力がありますが、やっぱり時間はかかります。)

   ★

化石燃料の使用は、典型的な「過去の遺産を食いつぶす」行為に他なりません。
近代社会とは、勤勉と合理性を貴ぶ社会だ…と聞きますけれど、何となくそれと真逆の匂いを感じるのは、そういう「居食い」生活を、漫然と続けているからです。
もちろん私もその恩恵を受けているので、そのことに口をつぐむべきではありませんが、事態を突き放して見れば、やっぱり上のような次第だと思います。


【雑記】

余談ですが、昨日は「天文古玩」の15周年でした。ついに元服です。
途中でブログの営業終了を宣言し、その後営業再開を宣言した覚えはないので、厳密にいうと15周年とも言い難いですが、仮に今も生きていれば15歳になります。いわゆる死んだ子の齢を数えるというやつですね。でも、ご覧のとおり完全に死んだわけでもないので、半死半生のまま15周年ということにしておきます。

銀河の時計2021年01月26日 22時42分19秒

先日、天文時計の話題から、時計と天文学はつながっている…という話題につなげました(LINK)。だからこそ、このブログで時計の話題を採り上げる意味もあるし、昨年8月には「時計」という新たなカテゴリーが生まれたのでした(LINK)。

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時計に関して、もう少し話題にしようかな…と思ったとき、このブログで時計を取り上げる理由が、もう一つあったのを思い出しました。それは、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の世界に出てくる時計たちの存在です。

たとえば物語冒頭近くの時計屋の場面。
あのショーウィンドウに並ぶ時計たちの何と魅力的なことか。あのショーウィンドウを再現するためだけに、このブログは相当な時間と労力を費やしたことを思い出したので、さっき過去記事を拾い出して、改めて「時計」のカテゴリーに分類し直しました。

それだけではありません。鉄道とは何よりもダイヤの正確さを貴ぶものです。
空を走る銀河鉄道も、常に定時運行を心がけているので、ジョバンニが車内の時計をぼんやり見ていると、検札に来た車掌は、「南十字〔サウザンクロス〕に着く時刻は次の第三時ころになります」と厳かに告げるし、白鳥の停車場付近を散策する二人は、列車の出発に遅れぬよう、腕時計に目をやって一目散に駆け出すのです。

そして印象的なのが、ドラマの終幕で、カンパネルラのお父さんの手に握りしめられた懐中時計。その針は、お父さんに残酷な事実――息子の死――を告げます。

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天体の動きを説明する際、回転と周期性の概念は、頻々と顔を出します。
地球という小さな惑星もそうだし、巨大な銀河もまたそうです。時計と暦が生まれたのも、もちろん地球の自転と公転の反映に他なりません。

物体の物理的な運動だけでなく、生命現象や社会現象に関しても、サイクリックな変化は常に観察されるもので、その背後に円環的なダイナミズムが想定されることも多いでしょう。「そしてまた、生と死も永遠に回り続ける巨大な環のようなものなんだよ」…とか言うと、何となくもっともらしさと胡散臭さが同時に漂いますが、こんな静かな雨の晩は、「銀河鉄道の夜」と時計のメタファーの関係を、ぼんやり考えたりしたくなるのです。


阿呆船来航2021年01月27日 22時12分16秒

去年9月に、15世紀の皮肉文学、『阿呆船』に触れました(LINK)。

聖職者も、王侯貴族も、商人も、学者も、ことごとく腐敗堕落した世相をメッタ斬り…みたいな内容の本ですが、腐敗堕落した人はいつの世にもいますから、出た当時はもちろん、その後も世の中に不満を抱く人々に愛読され続けて今に至ります。

私も大いに溜飲を下げたいと思って、名ばかり聞くこの古典を、実際手に取るために注文しました。

(尾崎盛景訳 『阿呆船』(上・下)、現代思潮社刊、1968)

(1494年に出た『Das Narrenschiff』の複製本。1913年刊)

(同上)

邦訳はもちろん、さらに原典まで注文したところに、私の鬱屈ぶりがよく表れています(…というのは嘘で、本当の理由は、邦訳は挿絵が大幅に割愛されていることを知ったからです)。

とはいえ、結局これは注文しなくても良かったのかもしれません。
本を読まなくても、阿呆船の世界は、眼前にあざやかに広がっているのですから。

   ★

昔から愚昧な為政者は少なくありません。民がやせ細り、国力が衰えているのに、かまわず放蕩三昧をしたり…というタイプが代表でしょう。ただ、そういう人の中には、政治はまったくダメだけど、文芸の才があったり、あるいは自ら才能はなくても、芸術や学問の強力な庇護者になったり、というパターンもあります。

しかし、今の日本の為政者は文化にてんで関心がないし、単に愚昧なだけです。
彼らは我欲-金銭欲や権力欲、支配欲を満たすことしか念頭にないように見えます。思わず「禽獣のような」というフレーズを使いたくなりますが、もちろん従容と自然の中で暮らす鳥や動物たちの方が、彼らよりもよっぽど上等な生き方です。

どっちにしろ、菅政権も長くはないだろうと思って、このところ黙って見ていましたが、昨日の補正予算案の報道に接して、これはダメだと改めて思いました。動物たちには申し訳ないけれど、やっぱり「禽獣のような…」という表現が浮かびます。少なくとも、あれが「人間らしい振る舞い」だとは思えません。

   ★

私の見るところ、彼らの振る舞いの中心にある「セントラルドグマ」は次の2つです。

1 何とかなる。
2 何とかならなくても、困るのは他人(下々の者、後続世代)なので構わない。

要は圧倒的なシンパシーの欠如です。
彼らに人間的な心がまったくないとは言いません。でも、いざ政治的な行動をとるとき、その人間的な心がすっぽり抜け落ちてしまう、つまり一種の解離が生じている点が大きな問題です。

じゃあ、それに対する処方箋はあるのか?
…という点ですが、そのことで本人が苦しんでいるならば、そして本人も自分を変えたいと思っているならば、方法はきっとあるでしょう。でも、そうでなければ、彼らを外部から変えることはできないし、採りうる方法は、その弊害があらわになった段階で、政治の場から去ってもらうしかないように思います。

(なんとなくスガ氏と麻生氏に似た二人)

白と黒2021年01月30日 08時25分10秒

昨日は午後から雪。それも一時は、かなりはげしく降りました。

強い横風が吹き付けると、雪はいっせいにサーッと流れ、ビルの上からは、まるで街全体が白濁した川の流れに揉まれているようです。そして、その白い流れの中に、真っ黒いものがこれまた無数に舞い飛び、なんだか只ならぬ状景でした。

その黒いものの正体はカラス。カラスたちも突然の雪に興奮し、狂喜しているように見えましたが、実際カラスは賢いので、彼らなりに「雪遊び」を楽しむ感覚だったのでしょう。

白と黒が入り乱れる、その不思議な光景を、「何だか花崗岩みたいだな…」と思いながら見ていました。

(花崗岩の岩石標本)

緻密な岩石と、風に揺らめく雪景色は、当然まったく違います。
でも、地殻の深部からフワフワと浮かび上がり、地上に顔を出すと、やがてサラサラと風化して、純白の石英砂を残す花崗岩と、湿った雲がまき散らす雪の結晶には、いくぶん似たところもあります。いや、もし黒く光るカラスも、雪雲から生まれるのだとしたら、むしろそっくりだと言えるかもしれません。

(上の標本ラベル)

時計の版画集(前編)2021年01月31日 07時31分53秒

そういえば時計の話をするつもりでした。

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堀田良平(1913-1989)という人名について聞かれたことはあるでしょうか。
名古屋で創業し、後に東京銀座に移った堀田時計店(現・ホッタ)の4代目で、時計に関する文献蒐集家として知られた人です。

以前も書きましたが、国会図書館のサイトには「日本の暦」という特設ページがあって、その中に同館が所蔵する暦関係資料の概略が説明されています。

国立国会図書館の暦コレクション

そこに名前が挙がっているのは、天文学者・新城新蔵(しんじょうしんぞう、1873-1938)の「新城文庫」、占術家・尾島碩宥(おじませきゆう、1876―1948)の「尾島碩宥旧蔵古暦」、近世天文学・暦学研究者の渡辺敏夫(1905-1998)氏の「渡辺敏夫コレクション」、そして堀田氏の「堀田両平コレクション」です(良平が本名で、両平は筆名)。

この顔触れからも、天文学、暦学、時計製作術の近しい関係がうかがえるのですが、その一角を占めるのが堀田氏のコレクションです。以下、上記ページから引用させていただきます。

 「堀田両平は、明治12年(1879)に名古屋下長者町で創業された堀田時計店(現株式会社ホッタ)の4代目。堀田の蔵書は『とけいとこよみの錦絵目録』(堀田両平 昭和46)に収録されているが、当館にはその後の収集と併せて約6,000種が寄贈された。そのうちの3分の1は洋書で、世界で50部出版されたと云うモルガンの『時計の目録』の豪華本など入手困難な稀覯書が少なくない。

 古暦類は伊勢暦をはじめとし、彩々な広告暦、時と時計を象どる錦絵の可能な限りが収集されて、その質と量は抜きんでている。また、時計史・宝石関係の業界出版物なども含まれており、時計への執心は、単なる趣味の域を脱し事業に対する旺盛な研究心の表われとして資料的にも見事な構成を保っている。

 再び収集することが恐らく不可能と思われる資料を寄贈へと踏み切ったことは、堀田の彗眼と度量によるものであろう。」 (「寄贈二話」国立国会図書館月報319号〈1987.10〉より)

…というわけで、時間とコストを惜しまず築き上げた、堂々たるコレクションです。

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例によって知ったかぶりして書いていますが、私が堀田氏のことを知ったのは、わりと最近のことで、きっかけは氏の美しい蔵書票集を手にしたことでした。


(上:帙(外カバー)、下:帙にくるまれた和本仕立ての本)

■今村秀太郎・河野英一(編)
 『自鳴鐘書票廿四時』
 平成2年(1990)、私家版

堀田氏は自らの蔵書を飾る「蔵書票」にも凝っていたようで、著名な版画家にたびたび制作を依頼しました。それらを集めて、氏は生前に2冊の書票集を編み、さらに第3の書票集を企図したものの、実現を見ずに亡くなられました。そこで知友が遺志を継ぎ、氏の一周忌を前に、残された蔵書票を集めて刊行したのが本書です。

私は本好きではあっても、いわゆる愛書趣味は薄いので、蔵書票とも縁がありませんが、これは時計をテーマにした愛らしい小版画集として眺めることができますから、その意味で嬉しい出会いでした。

(この項続く)