ヴィクトリア時代のプレパラート標本(その2)2021年03月02日 18時22分26秒

(前回のつづき)


トレイが12段、各段6枚ずつ、全部で72枚のプレパラート標本がここには収納されています。


箱に貼られたラベルにはロンドンの「Millkin & Lawley」社のラベルがあり、さっそく前回の記事でリンクしたアンティーク・プレパラートのページを見ると、ここは1820年の創業で、1854年以降に「Millkin & Lawley」名義になった…とあります(個人商店だと、代替わりや合併に伴って、社名が変わることはよくありました)。店をたたんだ時期は書かれていませんが、別のネット情報によると、1930年代まで存続したそうです。

ただし、中身の標本もすべて同社の製作かというと、各標本に貼られたラベルに見られるメーカー名は様々で、おそらく外箱だけが同社の製品で、中身の方は購入者が自前で揃えたのでしょう。(セットにはメーカー名のない、元の所有者の自製と思われる標本も多く含まれます。)


ここに含まれる標本は実に多様です。
でも、そもそもこんな風にすっきりと標本を整理できるようになったのは、スライドグラスの規格が統一されたおかげで、それは1840年に、ロンドン顕微鏡学会(現・王立顕微鏡学会)が創設されたことが機縁となっています。そして、このとき決まった3×1インチ(75×25ミリ)という規格が、今でも世界中で使われているのだ…と、前々回に引用したターナーの本には書かれていました。

(アンティーク・プレパラート標本のいろいろ。下に並ぶのは規格化後、その上は規格化前のもの。L’E Turner 前掲書より。)

さて、上で“多様”と書きましたが、元の持ち主の興味・関心を反映して、この標本セットには、ある明瞭な特徴があります。それは蟲類(昆虫やクモ等)の標本が大半を占めることで、元々私も昆虫好きな子供だったので、これはちょっと嬉しかったです。


12枚ある各トレイは、それぞれ内容の類似したものでまとめられていますが、トレイ数で大雑把にいうと、蟲類が8、珪藻類が2、その他もろもろの動植物が2…という構成。

(左・イトトンボの一種、中央・ハサミムシの一種)

そして、その標本づくりの方法がこれまた多様で、上の写真のように虫体を丸ごと薄く熨(の)してプレパラートにしたものもあれば、

(右・ミツバチの口器)

こんな風に、虫体を解剖して部分的に標本化したものもあります。

(中央・ゾウムシの一種)

中には、厚みのある空間に、虫体をそのまま封じ込めた標本もあって、こうなるとプレパラート標本というよりも、普通の昆虫標本に近いですが、なかなか面白い工夫です。

   ★

こんな風に見ていくと際限がありませんが、最後に「その他もろもろ」のトレイで見つけた素敵な標本を載せておきます。


木材やユリの茎の切片に挟まれて、美しく輝く「何か」。


その正体は、ハチドリの羽の輝きを封じ込めたプレパラートです。

ミクロスコープ国の独立2021年03月03日 07時09分36秒

このブログの記事カテゴリー(左欄外にずらっと並んでいます)を、今以上ゴチャゴチャにするのは気が進まないのですが、今回、顕微鏡の記事を書いていて不便に思ったのは、これまで顕微鏡と望遠鏡が「望遠鏡・顕微鏡」という1つのカテゴリーに入っていたことです。

これだと過去の記事をたどりづらいし、この二つのスコープは、そもそも活躍の場がだいぶ違うので、この際思い切って「望遠鏡」「顕微鏡」に分離することにしました。カテゴリーを変更すると、過去記事へのリンクが一部切れてしまう恐れがありますが、そこは目をつぶります。この点は、気づいたらその都度修正することにします。

カテゴリーの並び順も、「望遠鏡」の方は天文用具の並びに、「顕微鏡」の方は「動・植物」や「昆虫」の次に置いてみました。

望遠鏡と顕微鏡2021年03月04日 22時32分14秒

昨日の記事には、下の写真を添えると良かったかなと、後から思いました。


R.A. Proctorの『Half Hours with the Telescope』(1902)と、Edwin Lankesterの『Half Hours with the Microscope』(1898)。日本の新書版とほぼ同じサイズの、ごく小ぶりの本です。もちろん専門書ではないし、特にマニア向けの本でもありません。タイトルから分かるとおり、ひと時とは言わず、せめて半時を趣味に充てて楽しもうじゃないかと、一般の読者に呼びかけている本です。

このブックデザインは、当時、望遠鏡趣味と顕微鏡趣味を「好一対」のものと感じる人が、少なからずいたことを物語るようです。博物学が依然として隆盛だった頃ですから、せめてどちらか一方に通じていることが、紳士・淑女のたしなみだ…ぐらいの雰囲気だったかもしれません。

しかし、同じレンズを覗き込むのでも、両者の違いは歴然としていました。


望遠鏡の向こうに広がるのは、どこまでも深い闇と、かそけき光の粒と雲です。
いっぽう顕微鏡の視野を満たすのは、複雑な形象と鮮やかな色彩。

それぞれが世界の秘密を分有するビジョンとして、そこに優劣はないのでしょうが、やっぱり天文趣味は、地味は地味ですね(少なくとも眼視の場合はそうでしょう)。視力よりも想像力が求められる趣味だ…と呼ばれるゆえんです。

3月といえば2021年03月07日 18時22分38秒

3月といえば年度替わり。今年もバタバタつづきです。

とはいえ忙中自ずから閑あり、何か記事を書こうと思ったのですが、どうもダメですね。考えがうまくまとまらないし、自分で書いていて、あまり面白いと思えないです。

こういうときは悪あがきせず、タイミングをはかるのが吉と見ました。遠からず季節の移ろいとともに、また心が整い、興も乗ってくるでしょう。

食卓の星2021年03月10日 22時02分11秒

天文モチーフの品はどこにでも登場します。


テーブルの隅に、いつの間にかこんな彗星と土星が乗ってたらどうでしょう?


クロームメッキの輝きを放つ32ミリ角のキューブ。
これが何かといえば、パッパッと塩と胡椒を振るためのソルト&ペッパー・シェイカーのセットです。言ってみればどうということのない雑器ですが、意外に時代は古くて、1930年代にさかのぼる品。


銀色の外身を外すと、中身はベークライト製らしい容れ物になっています。

(底面のロゴマーク)

メーカーのチェイス社(Chase Brass & Copper Co.)は、1876年にコネチカットで創業。1930年代に、当時の一流デザイナーを起用したクローム製家庭用品をいろいろ売り出して、当時の製品は現在コレクターズアイテムになっているのだそうです。もちろん、この小さな容器もその一部。


このスマートな造形感覚は、1930年代における「モダン」がどんなものであったかを、問わず語りに教えてくれます。真っ白いお皿に載せたハムエッグに、こういう容器から塩胡椒を振りまいて、ぱくぱく食べるという生活スタイルが「モダン」に感じられた時代―。その輝きは、ポップアップトースターのそれと同質のものであり、クロームメッキの輝きが真鍮の輝きに置き換わったとき、我々の生活は「モダン」の波に呑み込まれたのかな…という気がします。

   ★

さて、明日はいよいよ3.11。

月は出ていたか2021年03月11日 18時15分24秒

2011年3月11日は何曜日だったか覚えていますか?
恥ずかしながら私は忘れていました。暦をめくると金曜日です。

3月11日の発災時に何をしていたかは、多くの人が覚えていると思います。
では、その時の天気はどうだったでしょう?暖かかったか、寒かったか?あの日の晩、はたして月は出ていたのか?――覚えているようで、記憶の曖昧な点が多いです。

下は気象庁の「日々の天気図」というページからお借りしました(LINK)。


あの日は冬型の気圧配置で、太平洋側は晴れないし曇り、日本海側は雪。前日から寒気が流れ込んで寒い日でした。午前9時の天気と、最低・最高気温を書き抜けば、以下の通りです。

 盛岡・晴れ (-3.6℃~4.2℃)
 仙台・晴れ (-2.5℃~6.2℃)
 新潟・にわか雪 (-0.6℃~4.7℃)
 東京・快晴 (2.9℃~11.3℃)
 名古屋・曇り (0.6℃~9.0℃)
 大阪・曇り (2.5℃~10.1℃)

   ★

今日、2021年3月11日の月齢は27.3。伝統的な呼び名だと「有明月」、いわゆる「右向きの三日月」です。有明月は夜明け前に顔を出し、夕暮れ前に沈んでしまうので、空を振り仰いでも、今宵は月を眺めることはできません。

では、10年前の3月11日はどうだったでしょうか?
あの日の月齢は6.3、半月には満たないものの、三日月よりも光の強い上弦の月でした。盛岡を基準にすると、月の出は8:42、月の入りは23:50。南中高度72.7°と、月が高々と空を横切ったために、月照時間の非常に長い一日でした。

あの晩、空を見上げた人は、雲間に明るい月を眺めることができたはずです。
逆にいうと、地震発生の瞬間も、それに続く悲劇も、月はすべてを見ていました。

それを無情と見るかどうか。
無情といえばたしかに無情です。冷酷な感じすらします。
でも、本当は無情でも有情でもなく、月はただそこにあっただけです。いつも変わることなく、無言で光り続けるだけの存在だからこそ、月は人間にとって良き友たりうるのだと思います。人はそういう存在を必要としています。

(月明かりに浮かぶサラーニョン島、スイス・レマン湖)

   ★

ともあれ、今宵は静かに思いを凝らし、思いを新たにすることにします。

月にただよう煙2021年03月12日 12時20分22秒

10年目の3.11から1日が経過しました。
今日は一転して肌寒い雨の日。昼には遠雷の音。

   ★

いつの間にか生活の場から消えたものってありますよね。
ブラウン管TVとか、ハエ叩きとか。
灰皿というのも、いつの間に消えたもののひとつです。わが家の場合、来客用の灰皿が今でもたぶん物置の隅にあると思うんですが、もはや誰も使わなくなりました。

   ★

にもかかわらず、新しく灰皿を買いました。多分永遠に使わないであろう灰皿を。


真鍮でできたムーン・マンの表情に惹かれたのと、まさに二度と使われない運命という点に哀惜の情を感じたからです。時代不詳ですが、20世紀半ばぐらいのものでしょうか。売ってくれたのはイギリスの人です。


昔はどこでも紫煙がただよっていました。当時を思い出すと、ここにシガレットの吸いさしを置いた、その指先の表情までもありありと想像されます。おそらくその中指には大きなペンだこが出来ていて、そこに煙草のヤニがうっすらと染みていたことでしょう。(これは私の祖父の思い出と重なっています。)


こういう品は、裏面の表情にも不思議な味わいがあります。
いわば月男が隠し持つ「裏の顔」ですね。


左は以前登場した(LINK)、フランスのビールメーカーが作った彗星灰皿です。
こうして並ぶと好一対。

まあ、灰皿としては使わないにしても、ペン皿やクリップ入れ、あるいはコイントレーとして使うと、ちょっと気が利いているかもしれません。

ガリレオ・メダルに見る星霜200年2021年03月13日 12時39分15秒

200年という歳月を、どう感じるでしょうか?
もちろん地球や宇宙のスケールでいえば一瞬ですが、普通の生活の中で考えると、200年という時間の長さは、どれぐらい重みを持つものなのか?

200年前の1821年は、日本でいうと文政4年。幕末の動乱はまだだいぶ先です。
小林一茶や相撲取りの雷電が存命中で、勝海舟や西郷隆盛は生まれてもいませんでした。

私と父方の曽祖父はほぼ100歳違いになります。これは私ばかりでなく、平均的な年代差でしょう。つまり200年前といえば、ひいお爺さんのひいお爺さんが、今の私と同じ年格好だった時分です。やっぱりずいぶん昔ですが、かといって遥かな遠い過去とも思えません。その頃の文物は、村のお堂とか、路傍のお地蔵さんとか、まだ身近にたくさん残っています。

   ★

唐突にそんなことを思ったのは、以下のメダルを目にしたからです。

(直径は4cm)

ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)の肖像を鋳込んだ記念メダルで、鋳造されたのは1818年、今から約200年前です。

(メダルの裏面)

200年前の人が、そのまた200年前の人であるガリレオを偲んで作ったメダル。
微妙に遠く、微妙に近い200年前を中間点とすることで、ガリレオの体温が何となく伝わってくるような気がします。まあ、これは私だけの特殊な感じ方かもしれませんが、ガリレオは私の「ひいお爺さんの、ひいお爺さんの、ひいお爺さんの、ひいお爺さん」の世代の人であり、たしかにほぼ400歳年上だなあ…というのは、新たな気づきでした。

   ★

このメダルは、検索するとオックスフォードの科学史博物館にも収蔵されていて、これは一寸した自慢です。そのモノとしての素性について、参考として以下のページから書き抜いておきます。

Medals of the Series Numismatica Universalis Virorum Illustrium

このメダルは、「世界の著名人シリーズ」の1つとして、フランスで発行されたもので、発行を手掛けたのはアメデ・デュラン(Amedee Durand、1789-1873)。彼は彫刻家として、自らメダル彫刻を手掛けた人ですが、それだけでなく他の彫刻家も起用して、メダルの発行を手広く行いました。ガリレオ・メダルの場合、原型を制作したのはレイモンド・ゲイヤード(Raymond Gayrard、1777-1858)(※)です。

「世界の著名人シリーズ」は1817年からスタートして、ほぼ1820年代いっぱい発行が続きましたが、一部は1840年代にかかっています。その間、メダルの発行権をフランスの国家造幣局が独占したため、デュランが鋳型を造幣局に預けて委託発行していた時期もあり(ガリレオ・メダルがそうです)、鋳型を取り返してミュンヘンで発行した時期もあり、再度フランスでの委託発行となった時期もあり…と、結構メダルの製造史も込み入っているようです。


(※)…とネットには出てきますが、「レイモン・ゲイヤール」の方がより正確かも。ちなみにこのゲイヤードは父親の方で、彫刻家としては、同名の息子の方が有名らしいです。

友情は太陽のごとく不動なり2021年03月14日 07時16分07秒

キリストや聖人たちの遺骸、あるいはゆかりの品である「聖遺物」(relics)

聖地巡礼が盛んになると、巡礼の証として、ありがたい聖遺物の授与を求める善男善女が増えて、それが少なからず教会経済を潤したので、各地の教会では、ゆかりの聖人の遺物を積極的に授与するようになりました。もちろんそこで下付されるのは、聖杯や聖槍のような伝説の世界に属する品ではなしに、もっと庶民的な品です。いわば西洋版の「御朱印」や「御守り札」のような存在。

主に18世紀以降の品と思いますが、そうした聖遺物を収めた聖遺物箱(reliquary)が、現在はアンティークショップの店頭で売り買いされています。(フランス語読みして「ルリケール」とも呼ばれます。)


私にとっては縁遠い品ですが、わけあって1つ入手しました。
直径38mmのペンダントサイズの金属容器に納められた、麦粒ほどの聖遺物。表面はガラス蓋で覆われています。

これはエスコラピオス修道会を創設した、聖ヨセフ・カラサンス(Joseph Calasanz、1557 –1648)の聖遺物です。といっても遺骨などではなくて、陶質の何か、たぶん彼が普段使いした食器か、墓石のかけらではないかと思います。

(聖ヨセフ・カラサンス、英語版Wikipediaより)


裏面は正真正銘であることを意味するのか、蝋で封じられています。
オランダの業者曰く、ベルギーの修道院に由来するもの…という説明でした。この紋章を手がかりに調べれば、その出所が分かるのかもしれませんが、現時点では詳細不明です。

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カラサンスは実に偉い人です。
スペイン生まれの聖職者として、ローマで救貧活動に取り組み、さらに孤児や貧しい子供たちのために無料の学校を建て、教育者として無私の奉仕を続けました。

そしてカラサンスは、ガリレオ・ガリレイの無二の親友でもありました。
カラサンスは科学教育を重視し、ガリレオの不遇な時代にも彼を擁護し、援助を惜しみませんでした。もちろん、それはカトリックの指導層の意に反することでしたから、カラサンス自身も1642年、異端審問にかけられたのです。

彼の名誉が回復されたのは、その死後のことで、没後100年の1748年にカトリックの福者となり、さらに1767年に聖人として列聖されました。したがって、上の聖遺物もそれ以降のものということになります。おそらく1800年前後に、信者に授与されたものではないでしょうか。


太陽の輝きに包まれたカラサンスの「何か」。
その「何か」ははっきりしませんけれど、もしガリレオが自分の肖像とカラサンスにちなむ品が並んでいるのを目にしたら、きっと嬉しい気分になるでしょうし、その冷たいむくろに、いっとき温かいものが通うように思うことでしょう。



(…と、知ったかぶりして書きましたが、もちろん私はカラサンスに詳しいわけではありません。でも、その偉さはwikipediaの斜め読みからも分かる気がします。)

黄色い粉の舞い飛ぶ空に希望はあるか2021年03月15日 19時14分17秒



私の机の上に、かつて1本の杉の木が生えていました(LINK)。
枯死してすでに久しいですが、それを嘆くまでもなく、杉の木はこの国土全体を覆っています。

世の中に たえて花粉のなかりせば 春の心はのどけからまし
心底そう思っている人も多いことでしょう。

何故、たかがあんな小さな粒々に苦しまなければならないのか?
といっても、ここで真の問題は、花粉ではなくて、花粉に対する我が身の反応の方です。そんなにいちいち反応しなければいいのに…と思いますが、我が身のことながら、これがなかなか自由になりません。

なぜ自分で自分を苦しめるようなことをするのか? 
ここにおいて、苦しめる「自分」と苦しむ「自分」は、はたして同じ「自分」なのか?
そもそも「自分」とは何なのか?…と、大いに哲学的な問いが発せられます。

ちょっと考えると分かるように、「自我意識」「自分」(=自己という存在)は大きくずれる部分があって、強いていえば、後者の方が圧倒的に大きな存在です。自我意識は、そう念じても髪の毛一本の脱落すら阻止できないし、そのプロセスを意識することもできません。(だから自殺は良くないのだ…という人もいます。ちっぽけな自我意識が、より大きな自分そのものを抹殺するのは僭越に思えるからです。)

   ★

まあ暇に飽かせて、そんなことを考えても、花粉症が軽くなるわけではありませんが、ただ、希望がまったくないわけではありません。たとえば鼻がグズグズする、目がかゆい、頭がボーっとする、そうした感覚の存在は否定できないとしても、それを「苦痛」と感じるかどうかは、結構裁量が利くからです。

鼻がグズグズすると、人はなぜ苦痛と感じるのか? それは必然というよりは、単なる予断と刷り込みに過ぎないのではないか? ひょっとしたら、人間は鼻がグズグズする状態を「快」と受け止める可能性だってあるのではないか?
…ということは、考えてみる価値が大いにあります。

何だか「坊主の寝言」のようですが、実際、「鼻がグズグスしだしたら、報酬(たとえば金銭や精神賦活物質)がもらえる」という条件付けをくりかえし行った場合、「鼻グズグズ」の主観的体験の色合いが、180度変わることだって、理論的にはあり得ます。

我々の経験を形作るものとして、いわゆる「認知的成分」(対象の受け止め方)は、相当大きなウェイトを占めるので、この辺がちっぽけな自我意識を以て花粉症という難敵に立ち向かう肝であり、大いなる希望ではなかろうか…と、うららかな空を見上げながら考えました。