月は出ていたか2021年03月11日 18時15分24秒

2011年3月11日は何曜日だったか覚えていますか?
恥ずかしながら私は忘れていました。暦をめくると金曜日です。

3月11日の発災時に何をしていたかは、多くの人が覚えていると思います。
では、その時の天気はどうだったでしょう?暖かかったか、寒かったか?あの日の晩、はたして月は出ていたのか?――覚えているようで、記憶の曖昧な点が多いです。

下は気象庁の「日々の天気図」というページからお借りしました(LINK)。


あの日は冬型の気圧配置で、太平洋側は晴れないし曇り、日本海側は雪。前日から寒気が流れ込んで寒い日でした。午前9時の天気と、最低・最高気温を書き抜けば、以下の通りです。

 盛岡・晴れ (-3.6℃~4.2℃)
 仙台・晴れ (-2.5℃~6.2℃)
 新潟・にわか雪 (-0.6℃~4.7℃)
 東京・快晴 (2.9℃~11.3℃)
 名古屋・曇り (0.6℃~9.0℃)
 大阪・曇り (2.5℃~10.1℃)

   ★

今日、2021年3月11日の月齢は27.3。伝統的な呼び名だと「有明月」、いわゆる「右向きの三日月」です。有明月は夜明け前に顔を出し、夕暮れ前に沈んでしまうので、空を振り仰いでも、今宵は月を眺めることはできません。

では、10年前の3月11日はどうだったでしょうか?
あの日の月齢は6.3、半月には満たないものの、三日月よりも光の強い上弦の月でした。盛岡を基準にすると、月の出は8:42、月の入りは23:50。南中高度72.7°と、月が高々と空を横切ったために、月照時間の非常に長い一日でした。

あの晩、空を見上げた人は、雲間に明るい月を眺めることができたはずです。
逆にいうと、地震発生の瞬間も、それに続く悲劇も、月はすべてを見ていました。

それを無情と見るかどうか。
無情といえばたしかに無情です。冷酷な感じすらします。
でも、本当は無情でも有情でもなく、月はただそこにあっただけです。いつも変わることなく、無言で光り続けるだけの存在だからこそ、月は人間にとって良き友たりうるのだと思います。人はそういう存在を必要としています。

(月明かりに浮かぶサラーニョン島、スイス・レマン湖)

   ★

ともあれ、今宵は静かに思いを凝らし、思いを新たにすることにします。

コメント

_ S.U ― 2021年03月12日 06時56分31秒

自分のことを申します(茨城県南部・震度6弱)と、地震の時の天気のことは忘れています。空は暗かったような印象ですが、実際は晴れていたのでしょうか。心理的なものか、陽射しは強くなかったのかもしれません。

 上弦の月についても、あまり記憶にありません。停電はしなかったけれども断水したので、その頃は水の確保に走ってました。余震が多かったので、家の中の片付けはあえてせず、夜半以降に車中泊をしました。だから、私の記憶は月のない満天の星空です。

_ 玉青 ― 2021年03月12日 12時26分46秒

あのときは茨城も相当な揺れでしたね。そして最近も含めて、その後もたびたび地震が来ているのは、大地のエネルギーの解放が続いているのでしょうか。人々の暮らしへの影響さえなければ、この惑星のダイナミズムを手放しで賛嘆できるのでしょうが、今はまだ賛嘆よりも悲嘆が強くならざるを得ません。

>車中泊…満点の星空

これも賛嘆とは言いかねますが、それでも心に残る星空だったと拝察します。
灯火管制の東京から見上げた星空に言及していたのは野尻抱影でしたか、そんなエピソードを思い出しました。

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