峰雲照らす天の川2021年08月08日 09時25分03秒

残暑お見舞い申し上げます。
暦の上では秋とはいえ、なかなかどうして…みたいなことを毎年口にしますが、今年もその例に漏れず、酷暑が続いています。

さて、しばらくブログの更新が止まっていました。
それは直前の4月17日付の記事で書いたように、いろいろよんどころない事情があったせいですが、身辺に濃くただよっていた霧もようやく晴れました。止まない雨はないものです。そんなわけで、記事を少しずつ再開します。

   ★

今日は気分を替えて、壁に掛かっている短冊を取り替えました。


 草山に 峰雲照らす 天の川   亜浪

作者の臼田亜浪(うすだ あろう、1879-1951)は最初虚子門、後に袂を分かって独自の道を歩んだ人。

平明な読みぶりですが、とても鮮明な印象をもたらす句です。

まず眼前の草山、その上に浮かぶ入道雲、さらにその上を悠々と流れる天の川…。視線が地上から空へ、さらに宇宙へと伸びあがるにつれて、こちらの身体までもフワリと宙に浮くような感じがします。季語は「天の川」で秋。ただし「峰雲」は別に夏の季語ともなっており、昼間は夏の盛り、日が暮れると秋を感じる、ちょうど今時分の季節を詠んだものでしょう。

個人的には、この句を読んで「銀河鉄道の夜」の以下のシーンも思い浮かべました。

 そのまっ黒な、松や楢の林を越こえると、俄にがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へ亘(わた)っているのが見え、また頂の、天気輪の柱も見わけられたのでした。つりがねそうか野ぎくかの花が、そこらいちめんに、夢の中からでも薫だしたというように咲き、鳥が一疋、丘の上を鳴き続けながら通って行きました。
 ジョバンニは、頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました。 (第五章 天気輪の柱)

ジョバンニが、親友カムパネルラと心の隙間を感じて、ひとり町はずれの丘に上り、空を見上げる場面です。そのときの彼の心象と、この亜浪の句を、私はつい重ねたくなります。そしてジョバンニの身と心は、このあと文字通りフワリと浮かんで、幻影の銀河鉄道に乗り込むことになります。

コメント

_ S.U ― 2021年08月11日 08時20分53秒

協会のほうで、ご挨拶をいただきましたが、こちらはお久しぶりでございます。

 雲の峰は、最近、昼間ソファに寝っ転がって窓から外を見るとしょっちゅう見えます。でも、今朝は秋の鰯雲になっています。立秋というのはよくしたものです。

 雲の峰・・・宮澤賢治で、「雲のみね」がよく出てくる印象深い作品があったことを思い出しましたが、題名が思い出せません。ネット検索に逃げると、「蛙のゴム靴」という作品でした。読み返してみますと、「ペネタ形」「さよならね」という断片ばかりが印象深い傑作です。

_ 玉青 ― 2021年08月11日 16時37分05秒

すっかりご無沙汰してしまい、申し訳ありません。
戦場からようやく引き揚げて、やっと人心地がついたような状態です。
ブログの書き方も半ば忘れかけていますが、まあボチボチ行くことにします。

ご紹介いただいた「蛙のゴム靴」を初めて読みました。
蛙というのは、玉髄のような入道雲をはるかに雲見して永遠の生命を思ったり、なかなか偉いものだと思いましたが、そのあとは急にせせこましい話になって、「作者の言いたいことを50字で書け」と言われても戸惑うような作品ですね。でも、これが人間の戯画ならば、他人に嫉妬したりしながらも、ときに深いことを考えたりするというのが、むしろリアルな表現なのかもしれません。

_ S.U ― 2021年08月12日 07時01分32秒

難題を解決されてほんとうによかったと存じます。

蛙の社会も人間と似たようなものだというのは、妙に説得力がありますね。大雨のあと、田圃や野原でおおぜいでゲコゲコ喜んでいるのを聞くと、さもありなんと思います。

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