「ハリー・ポッターと魔法の歴史」展によせて(2)…天文学のこと2021年09月20日 09時14分40秒

昨日、部屋の中でゴキブリを見かけ、殺虫剤を噴きかけたものの、逃げられました。あれがまだ部屋の中にいるのかいないのか、死んだのか生きているのか、シュレディンガー的な状態で、ずっと落ち着きません。別にゴキブリが怖いわけではないんですが、ゴキブリは本でも標本でもかじるので、私の部屋では最大のペルソナ・ノン・グラータ、要注意人物です。ここしばらくは警戒が必要です。

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ゴキブリの話がしたいわけではなくて、ハリー・ポッター展の話です。
図録を見ての感想を書きつけたいのですが、図録そのものをここに載せるのは幾分遠慮して、話の都合上、その展示構成だけ述べておくと、「天文学」の章に登場するのは以下の品々です。こういった品々で、ホグワーツでの天文学の授業を偲ぼうというわけです。

●12世紀の写本から採った「おおいぬ座」の図(※シリウス・ブラックにちなみます)
●太陽・月・地球の配置を描いた、レオナルド・ダ・ビンチの手稿(1506~8頃)
●アラビア製のアストロラーベ(1605~06)
●ケプラーが著した『ルドルフ星表』(1627)(※彼の母親は魔女として捕えられました)
●ドイツのドッペルマイヤーが作った天球儀(1728)
●愛らしい星座絵カード「ウラニアの鏡」(1834)
●ジェームズ・シモンズ作の見事な大太陽系儀(1842)

(チラシより)

この展示構成で気になるのは、「占星術」の話題がまったく出てこないことです。
この展覧会には「天文学」とは別に「占い学」の展示もあるのですが、占星術はそちらにも登場しないので、結局、占星術の話題はゼロです。天文学と占星術の歴史的関係からしても、またハリー・ポッターの世界観からしても、占星術を抜きに語るのは、ちょっと不自然な感じはあります。

(ただ、今の目から見ると占星術はいかにも魔法っぽいですが、近代以前はオーソライズされた学問体系として、むしろ公的な性格のものでしたから、怪しげな魔術師風情といっしょにしないでくれよ…と、昔の占星術師なら思ったかもしれません。)

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考えてみると、ハリー・ポッターと天文学の話題は、相当微妙ですね。
魔法使いたち御用達の「ダイアゴン横丁」では、惑星の運行を表す太陽系儀(オーラリー)が、教材として昔から売られているといいます。でも、オーラリーと魔法はどう関係するのか?

(ジョセフ・ライトが描いたオーラリー実演の光景。「A Philosopher Lecturing on the Orrery」、1766頃)

上の有名な絵も、一見したところ妖しい印象を受けます。
でも実際には真逆で、ニュートンが発見した万有引力の法則によって、天体の運行が見事に説明されるようになったこと、言い換えれば世界から魔術めいたものが一掃されたことを誇っている絵です。要は18世紀の啓蒙精神を鼓吹する絵ですね。

そればかりではありません。作品中には、ハーマイオニーがハリーとロンをたしなめて、次のように言う場面があって、図録でも引用されています。

 「木星の一番大きな月はガニメデよ。カリストじゃないわ…それに、火山があるのはイオよ。シニストラ先生のおっしゃったことを聞き違えたのだと思うけれど、エウロパは氷で覆われているの。子ネズミじゃないわ…。」

…ということは、魔法学校で講じられる天文学は、ルネサンスの手前で止まっているわけでは全然なくて、むしろ惑星探査とか最新の知識に基づいて行われているらしいのです。当然、天体力学や、さらには一般の物理学も踏まえた上でのことでしょう。

さてそうなると、通常の物理法則に従わない、自分たちの魔法・魔術というものを、彼らはどのように説明・理解しているのか?

もちろん、ファンタジーにそうした理屈は不要と割り切ってもいいのですが、こういう展覧会をやるとなると、その辺の接合が少なからず難しいなあ…ということを感じました。

(これもチラシより。それと図録の一部をやっぱり載せてしまいます)

九月の星の句2021年09月20日 11時41分47秒

久しぶりに俳句の話題です。
昨日の朝日俳壇を見ていて、深く感じ入ることがありました。

(稲畑汀子 選)
●母は子に 何かをささやく 星月夜 (静岡市 松村史基)

選者評は、「一句目。満天の星の光が月のように明るく見える。庭に出て、それを見上げる母子の会話が想像される」。いかにも穏やかで、平明な句ですね。と同時に、人生の一瞬を切り取って、その一瞬から人生そのものを想像させるような広がりがあります。

そしてさらに星の句を拾っていくと、次の句が目に留まりました。

(長谷川櫂 選)
●アフガンの 女性の上を 天の川 (高松市 島田章平)

私が深く感じたというのは、この2つの句が私の中で瞬間的に結びついたからです。
もちろん両句は独立に詠まれたもので、1句目の母子はアフガンの人ではないし、2句目の女性が母親とも限りません。しかし両句が一つになると、そこにはお二人の作者の意図を超えた、別の像が結ばれます。

荒廃した町並み、絶望に支配されそうな心、その中で母はわが子に何かをささやき、その上を銀河が無言で流れていく――。

俳句には「付け合い」ということがあります。
ふつうは五・七・五に、別の読み手が七・七を付けるという、座の文芸特有の形式を指すのだと思いますが、それに限らず、二つの句が唱和し、新たな意味を放つことが、この短詩形文学にはあります。

さらに紙面に目を走らせると、もうひとつ天の川の句がありました。

(大串 章 選)
●滑走路 天の川へと 灯をつなぎ (玉野市 勝村 博)

ここでまた、先日のアフガン避難行と、それにまつわる混乱や悲劇を思い起こすと、やっぱり抜き差しならない意味が、そこに生じてきます。

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偶然に生じた三つの句の唱和。あまり独りよがりな読み方も良くないですが、俳句の妙味は、こういうところにもあるのだと思います。

(アフガニスタンの空を横切る天の川。Yunos Bakhshi 氏撮影。出典: UNIVERSE TODAY