星座掛図は時をこえて(後編)2021年10月04日 05時30分04秒

(昨日のつづき)

(表装を含む全体は約83×105cm、星図本紙は約72×101cm)

細部はおいおい見るとして、全体はこんな表情です。傷みが目立ちますが、こうして自分の部屋で眺めると感慨深いです。上の画像は、光量不足で妙に昔の写真めいていますが、それがこの掛図にちょうど良い趣を添えている…と言えなくもないような。

(よく見ると植物模様が織り出してあります)

星図そのものとは関係ありませんが、この古風な布表装に、昔の教場の空気を感じます。ひげを生やした先生が、おごそかに咳ばらいをしている感じです。

星図は、天の南北両極を中心とした円形星図と、天の赤道を中心とした方形星図を組み合わせたもので、1枚物の全天星図としては標準的な構成です。


凡例。1等星と2等星の脇の小さな注記は「ヨリ」。つまり、これらは明るさに応じてさらに2段階に区分され、「より」明るい星を大きな丸で表示しているわけです。


刊記を見ると、手元の図は昭和3年(1928)8月8日の発行となっています。


さらに説明文を読むと、これは「昭和3年改訂版」と称されるもので、明治43年(1910)の初版に続く、いわば「第2版」であることが分かります。となると、これは賢治が目にした星図とは、厳密に言えば違うものということになります。実際、どの程度違うのか?

オリジナルの明治43年版は、京大のデジタルアーカイブ【LINK】で見ることができます。

(明治43年版全体図。京都大学貴重書デジタルアーカイブより)

(同上 解説文拡大)

こうしてみると、全体のデザインはほとんど同じ。違うのは恒星の位置表示で、明治43年版は「ハーヴァード大学天文台年報第45冊」に準拠し、昭和3年版は「同第50冊」に拠っています。ただ、恒星の座標表示の基準点である「分点」は、いずれも1900年(1900.0分点)で共通です。各恒星の固有運動による、微妙な位置変化などを取り入れてアップデートしたのでしょうが、それもパッと見で分かるほどの変化ではないので、賢治が見たのは、やっぱりこの星図だと言っていいんじゃないでしょうか。


天の南極付近。
1930年に星座の境界が確定する前ですから【参考LINK 】、星座の境界がくねくねしています。星座名は外来語以外は基本漢字表記で、いかにも古風な感じ。中央の「蠅」(はえ座)の上部、「両脚規」というのが見慣れませんが、今の「コンパス座」のこと。その右の「十字」は当然「みなみじゅうじ座」です。

   ★

上で述べた明治43年版との違いが、やっぱりちょっと気になったので、うしかい座で比べてみます。上が明治43年版、下が昭和3年版です。

(京都大学貴重書デジタルアーカイブより)


比べて気づきましたが、星座名が一部差し替わっています。明治43年版では「牧夫」「北冠」だったのものが、昭和3年版では「牛飼」「冠」になっており、この辺は明治と昭和の違いを感じます。現行名はそれぞれ「うしかい座」「かんむり座」です。

肝心の星の位置ですが、うしかい座α星「アークトゥルス」――ひときわ大きな黒い丸――は、固有運動が大きいことで知られ、毎年角度で2秒ずつ南に移動しています。比べてみると、明治43年版では赤緯+20°の線に接して描かれていたのが、昭和3年版では+20°線から分離しており、確かに動いていることが分かります。明治43年版と昭和3年版はやっぱり違うんだなあ…と思いますが、違うといってもこの程度だともいえます。

   ★

この星図が出る少し前、明治40年(1907)には、同じく三省堂と日本天文学会が組んで、日本最初の星座早見盤が売り出されており、これまた「銀河鉄道の夜」に登場する星座早見盤のモデルとされています【参考LINK】。

(画像再掲)

その意味で、この星図と星座早見はお似合いのペアなので、どうしても手元に引き寄せたかったのです。それに「銀河鉄道の夜」を離れても、これは近代日本で作られた、最初の本格的な星図であり、その歴史的意味合いからも重要です。そんなこんなで今回の出会いはとても嬉しい出会いでした。やはり長生きはするものです。

コメント

_ S.U ― 2021年10月04日 07時13分34秒

「北冠」はラテン名でBorealisがついており、しかも、「南冠」も古くからある星座で日本からも見えますから、この変化は故意の誤訳あるいは改悪というべきものだと思いますが、どういう経緯があったのか、疑問に思うとともに問題が大きいと思います。このために、みなみのかんむり座が不当に冷や飯を食わされていると思います。

 Wikipediaからの知識によると、デルポルトらによる新式の星座境界が承認されたのが1928年、最初にケンブリッジから出版されたのが1930年です。昭和3年版は、最後の旧式の時代ということになると思います。新式の日本での出版はいつになっているかわかりましたら、またご教示お願いいたしします。

_ 玉青 ― 2021年10月05日 05時46分00秒

たしかに「冠」は悪訳ですね。ラテン名に従えば「北冠」、今だったら「きたのかんむり
座」が通訳でしょうが、なぜわざわざ改悪したのか不思議です。(一方、Crux は「十字」のままで良かったのに、その後「みなみじゅうじ座」になったのも解せません。)

ウイキぺディアの「かんむり座」の項目を見ると、

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日本でも1922年までは「北冠座」とされていたが、1922年末から1923年にかけて「冠座」に変更された。
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とあります。この記述は、原恵氏の『星座の神話(新装改訂版)』から採られているので、原氏の元文献に当たると、

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神田茂先生のご教示によると、この系統の用語としてはいままでに4回、決定があったということである。基本的なものは明治末期に訳語が決定されて、その大部分が今日でも用いられているが、第2回目は『天文月報』1923年(大正12年)1月から用いられ始めた変更で、それまでの北冠が冠に、牧夫が牛飼に変更された。
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との記述があります。しかし、その間の具体的経緯については触れられていませんでした。「天文月報」のバックナンバーを見たら、その辺の事情も分かるかもと思って調べたら、原氏の記述とは若干相違して、その切り替えがあったのは1922年9月号と11月号の間のことです。

●9月号pp.145-147では、「星座名の省記法」として、星座名を新たに3文字略称で呼ぶことになったニュースが報じられており、そこに挙がっている星座名は、旧来の「北冠」「牧夫」等のままです。
https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1922/pdf/192209.pdf

●一方、11月号p.179には、「星座」と題する短文があって、暦に出てくる星座名33個が挙がっており、そこでは「冠」「牛飼」に変更されています。
https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1922/pdf/192211.pdf

ただ、いずれにしても「北冠」が「冠」になった理由や経緯は、「天文月報」誌上にも、いっさい説明がなくて不明です(そのカギを握ると思われた10月号にも、関連する記述は皆無です)。

思うに、学会の総意として名称変更が行われたのなら、その報告が当然誌上であってしかるべきなのに、それがないということは、そうした公式の手順を踏まなかったことを逆に意味しているのではないでしょうか。名称変更は、一部の東京天文台職員による窓意的なものである可能性が高いと考えます。「星座和名はあくまでも仮の名なので、そう厳密に考えんでもいいだろう…」という意識があったのかもしれません。

変更の理由も謎ながら、ひとつの想像としては、「みなみの○○座(うお、さんかく、かんむり)」と対になる名称は、すべて「○○座」で統一したい…という思いがあったとか?ラテン語の原語を考えるとおかしな話なんですが、そういうところで依怙地になる人が、ときどきいますよね(笑)。


なお、星座境界が確定した後で日本で新たに作成された星図についてですが、過去記事でいうと、この辺が関係してきます。
http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/04/19/6419265

記事中、昭和12年(1937)当時の星図事情が出てきますが、引用文中の「新撰恒星図」も「古賀恒星図」もクネクネ派ですから、結局カクカク派の最初のものは、草場星図ではないでしょうか。少なくとも記事に出てくる草場氏の「新版簡易星図」はカクカク派です。

_ S.U ― 2021年10月05日 13時03分14秒

ありがとうございます。原恵氏の著書は持っていないのでありがたいです。でも、言及がないのですね。玉青さんのご推察が当たっているかもしれません。国際的な取り決めなので、できるだけ原語に忠実な訳であってほしいです。

> 「(南)十字」
吉田源治郎氏か野尻抱影氏あたりの発案で、はくちょう座の異名として「北十字」というのを定着させたいという願望があり、天文学界でそれに沿って南十字になったという推定はどうでしょうか。証拠はありません。戦前は普及のためにいろいろと(あってもなくてもよいような異名も含め)和名を開発したものです。

>カクカク派
 このタイミングで、草場氏が出てくるのですね。星座境界線が1875年分点で決められていたのは、新規の星図の作成において面倒なことだったと思います。

_ 玉青 ― 2021年10月06日 05時51分35秒

昨日は書き流してしまいましたが、改めてウィキの「みなみじゅうじ座」の項目を見てみたら、これまた原氏を引きつつ、「日本では戦時中まで、東京天文台系統では じゅうじ(十字)座、京都大学宇宙物理学教室系統ではじゅうじか(十字架)座と呼ばれていた。戦前戦中にかけて日本の統治地域が南方に拡大されるにつれて Southern Crossを和訳した「南十字」「南十字星」の名称が世間にも広まった。これを受け、1944年に刊行された学術用語の小冊子で「南十字座」の名前が採用され…」云々とありました。対するNorthern Crossは「はくちょう座」の北十字のことですから、日本における言い出しっぺが誰かは未勘ですが、結局このへんの言い回しは、すべて英語由来ということになりますね。

それにしても、「南十字星」という言葉をロマンチックに感じる日本人の感性は、第1次大戦後の南方委任統治領時代にさかのぼる記憶の残滓なんでしょうか。そう言われると、確かにそんな気もしてきます。

…と言いつつ探したら、5年前にコメント欄でこんなやり取りがあったのを発見しました。我々の「南方論」もなかなか歴史がありますね(笑)。
http://mononoke.asablo.jp/blog/2016/01/30/8005129

_ S.U ― 2021年10月06日 17時30分17秒

「南十字」の由来の資料、ありがとうございます。「南十字」は英語起源で民間主導らしいですね。それを学術用語に取り入れたことは十分考えられますが、英語は異例だと思うので、やはり野尻抱影氏らの「普及用、軍用」の和名作成の意図との関連も拭いきれません。また機会があれば掘り下げることにします。

 それにしても、我々の南方論、我ながらなかなかのものというか、むちゃくちゃというか。

_ Ha ― 2021年10月08日 23時20分05秒


大変ご無沙汰しております。

明治末期~昭和初期にかけての「星座名の訳語」の変遷については、私も以前、詳しく調べたことがあります。(日本ハーシェル協会のTea Roomで10年ほど前になされた議論も検索でヒットして、「北天星座の名称の異同(羅和中対照表)」など、大いに参考にさせていただきました<(_ _)>)

そのとき、原恵氏の著書にある「神田茂先生のご教示による~『天文月報』1923年(大正12年)1月から用いられ始めた変更」についても、天文月報1922年9月号、11月号のほか、この前後の天文月報の各記事をしらみつぶしに当たり、記事中に「うしかい座」「かんむり座」が出てきた場合にどのような表記がなされているかを調べてみましたので、コメントさせていただきます。
結果は下記の通りで、このときの訳語の変更(牧夫→牛飼、北冠→冠)では、実施時期の明確な線引きがなされていないように見受けられます。したがって、「1923年1月から用いられ始めた」という神田茂氏の言はやや不正確と言えそうです。

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1922年9月号(p.145,146)「星座の省記法」       →牧夫、北冠
1922年10月号(p.162)恒星温度の表中          →牧夫
1922年11月号(p.179)「暦に記せる諸現象及星座の説明」 →牛飼、冠
1922年12月号(p.182)「1月の流星群」         →牧夫
1923年1月号(p.15)変光星の表中           →牛飼、冠
1923年2月号(表紙)天図中              →牛飼、北冠
1923年3月号(表紙)天図中              →牛飼、冠
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また、天文月報1922年11月号の雑録に高橋潤三氏の解説記事があり、大正十二年版の「本暦」「略本暦」において大幅な改訂が行われ、毎月の南中星座名が記載されるようになったとあります。幸い「略本暦」の大正十二年版が国立国会図書館のアーカイブにあり、そこでは下記のように記述されています。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2535405

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(8コマ左端)6月  →うしかひ
(9コマ左端)7月  →うしかひ、かんむり
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ついでながら、天文月報の創刊当初から毎月の天図中で「こと座」の表記が「琴」ではなく、洛氏天文学にある「天琴」が使われていたのですが、これもこの時期に下記の通り改められています。

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1922年11月号(表紙)天図中  →天琴
1923年5月号(表紙)天図中  →琴
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以上、あまり役に立たない補足でした。

_ Ha ― 2021年10月08日 23時27分52秒

もうひとつ、かなり長文になりそうですが、「星座名の訳語」の変遷について、なるべくかいつまんでコメントさせていただきます。

10月05日の玉青さんのコメントに

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思うに、学会の総意として名称変更が行われたのなら、その報告が当然誌上
であってしかるべきなのに、それがないということは、そうした公式の手順
を踏まなかったことを逆に意味しているのではないでしょうか。名称変更は、
一部の東京天文台職員による窓意的なものである可能性が高いと考えます。
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とありますが、まさしくご慧眼の通りだろうと私も思います。
京都の山本一清氏も同じことを思ったようで、すぐに『天界』に批判記事を書いています。

●名前のいろいろ(三) 天文臺人(=山本一清氏)
『天界』Vol.3 No.27(1923・大正12年3月号)p.78~
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/159842/1/tnk000027_078.pdf
天文月報や略本暦(大正十二年版)が牧夫座を牛飼座と変更したことについて、p.80途中から文末にかけて下記のように批判しています。

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 譯語については前に一言したけれ共、近頃注意して呉れる人が
あって氣が附いたのは天丈月報並に本年の神宮頒布暦に以前牧夫
星座と稱へたものを牛飼と呼んでゐることである。
(中略)
 右様の有様で上記の星座略字と共に星座名を附け加へたいと思
つたけれ共、確定的な譯語がまだないと云ふ有様であるから其内
に協議の上定めたいと思つてゐる。
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とりわけ文末の「確定的な譯語がまだないと云ふ有様であるから其内に協議の上定めたいと思つてゐる。」という文章は、前年の天文月報9月号に掲載された星座名の訳語が、公式の場で協議したものではないということを辛辣に皮肉っています。


こうした天文月報の身勝手?な動きは、じつはこの時だけではなく、明治末期に天文学用語の訳語を決めた際も同様でした。日本天文学会の創立に際して、(東京学派の)天文学者の間で訳語を統一しようという機運が高まり、東京天文台内で「訳語会」という会合が数年にわたって定期的に開催されたのですが、この会合のメンバーや議論の内容などは公式に報告されたことはなく、ここで決められたとおぼしき訳語だけが天文月報の誌上でシレっと使われるようになります。
星座名の訳語についても、『天文月報』1910年02月号(p.131)に訳語の一覧表がいきなり掲載され、「天文學術語を和譯せしもの區々にして一定せず。これ天文學普及上著しき故障なるを以て、本學を専修する人々相謀り、數年前より最も適當なるものを得んと考研中なり。云々」といったわずかな備考が付けられただけでした。
https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1909/pdf/191002.pdf

こうした訳語を巡る東京学派の身勝手な動きに対し、蚊帳の外にいた京都学派(=山本一清氏)が以前から『天界』誌上で何度も噛みついていました。
典型的な例として、京都学派はずっと後まで(たぶん昭和19年まで)「planet」の訳語として「遊星」を使い続けたわけですが、山本一清氏の言い分によれば、一部の学者の私的な会合における取り決め(「planet」の訳語として「惑星」を採用)が公式な手順を踏んで発表されていないこと、また、文部省お墨付きの教科書である『洛氏天文学』では「遊星」を使用していることの二点が根拠になっています。planetの訳語が長らく統一されなかった元凶?はここにあったわけです。

で、IAUで88星座が定められたこの時期に、またしてもウヤムヤのうちに一部が修正されたということで、業を煮やした山本一清氏は、昭和初期に野尻抱影氏らも巻き込んで『天界』誌上で論陣を張り、訳語を巡る記事を山のように連発します。(ほんの一例として、以下の3本を挙げておきます)

●天文語委員會を常設せよ
『天界』Vol.11 No.120(1931・昭和6年4月号)巻頭言
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/161646/1/tnk000120_209.pdf

●天文用語に關する私見(1)(山本生)
『天界』Vol.14 No.156(1934・昭和9年4月号)p.212~
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/165507/1/tnk000156_212.pdf

●星座の譯名(野尻抱影)
『天界』Vol.15 No.171(1935・昭和10年7月号)p.322
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/167055/1/tnk000171_322.pdf
#明治末期の「譯語會」(訳語会)について、注目すべき記述があります

その後も、No.171,172,173など、山本一清氏による怒涛の連載が続きます。

そして、おそらくこれに呼応したものと思われますが、『科學知識』(1935・昭和10年9月号)誌上で、訳語会メンバーだった平山清次氏によって当時のいきさつが語られます。(この雑誌は国立国会図書館のアーカイブではネット非公開で、マイクロフィルムの館内閲覧と複写サービスのみ可となっています。私は複写サービスを利用して記事のコピーを入手しました。以下、記事の後半部分を抜粋してご紹介します)

●「惑」か「遊」か(平山清次)
『科學知識』第15巻 第9號(1935・昭和10年9月号)p.288

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(前半略)
 天文に關する用語を統一しようといふ目的で東京天文臺に譯語
會が開かれた事がある。それは明治四十年の頃で約ニケ年間、毎
月ニ三回づゝその爲に會議を行つた。此會に列席したのは當時の
天文臺長寺尾教授と平山信教授、それに蘆野、國枝、早乙女、一
戸等の諸氏と自分とであつた。星學と言つて居たのを天文學と改
め、日食とも日蝕とも書いて居たのを日食と定め、星座名を牡羊、
牡牛、琴、龍、ケフェウス、ケンタウルス等と定めたのは此時の
決議によるものである。惑星を採るか遊星を採るかは多くの議題
の中で最も長く論議せられたものであつた。自分は其前から、文
部省發行の洛氏天文學に習って、遊星といふ語を用ひて居たので、
遊星を主張したが、寺尾教授と一戸氏とが強く惑星を主張するの
で遂に惑星を採ることになつた。それ以來自分は決して遊星とい
ふ語を使はない。自分だけでは無い。此會合に列した人々は勿論、
東京天文臺では必ず惑星といふ語を使ふことになつて居る。
 當時の天文學者で此會議に加はらなかつたのは唯、水澤の木村
榮博士位のものであつた。京大の新城教授が此會に加はらなかつ
たのは東京に居なかつたばかりでなく、少くも其當時は專ら地球
物理學の方に關係して居られて天文學とは縁が遠かつた爲めであ
る。若し同教授が此會合に一員として加はつて居たら恐らく遊星
といふ語はとうに癈つて居たであらう。術語統一の上から見て甚
だ遺憾の事であつた。

 遊星を主張した寺尾教授も一戸博士も共に故人となつた。自分
は此等の故人の意思を尊重する意味で惑星以外の語を使ふ考は無
い。それのみでは無い。一旦決議したことを翻すには、少くもそ
れと同等の權威を持つ新らしい決議を必要とする譯である。
---------------------------------------

要するに「水沢の木村栄氏、京大の新城新蔵氏の2名を除き、当時の日本の天文学者が全員集まって決めたことだから、これは権威ある決議である」というわけです。
これに対し、山本一清氏は『天界』No.174,175の「天文用語に關する私見」(9)(10)で徹底的に噛み付きます。

●天文用語に關する私見(9)“遊か,惑か?”(山本生)
『天界』Vol.15 No.174(1935・昭和10年10月号)p.458
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/167112/1/tnk000174_457.pdf

●天文用語に關する私見(10)“遊か,惑か?”(續き)(山本生)
『天界』Vol.16 No.175(1935・昭和10年11月号)p.15~
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/167131/1/tnk000175_015.pdf

何と言ったらいいのか…。(汗)
山本一清氏の言い分は確かに正論だと思いますが、「こんな氣味の悪い會合の存在だけを暗示されたに止まつて,しかも此の會合の決議に同意せよと言はれても,偶然其の會合に出席しなかつた吾々は只迷はざるを得ないのである」とか、「天文學の權威ある日本語彙が必要であることは自分等は十數年來叫んでゐるのである.此の叫びを正しく聽かないで,只“明治四十年の會合”を徒らに振りまはされるのは,要するに老人が後輩を迷はせ惑はせるに過ぎない」なんて書いてあったりして、天文学界の大御所に対してボロクソに悪口を言っています。それまでの長年の鬱憤が相当溜まっていたのでしょうか。

そして、『天界』No.175の記事の最後に(つづく)とあるにもかかわらず、この続きの記事が私には見つけられませんでした。京都大学のアーカイブでは残念なことに2号後のNo.177が欠番となっているので、この号が怪しいと思って国立国会図書館のデータで掲載記事のタイトルを調べたところ、関連のありそうな記事として「星座名對照」というのがありました。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3219898?tocOpened=1
複写サービスでコピーを取り寄せたところ、この記事は星座名一覧(当時の京都学派が使っていたもの)でした。
どうやら、『科學知識』に掲載された平山清次氏の随想に対する山本一清氏の批判論文は、No.175のあとも続けるつもりだったのが、No.177で唐突に「星座名一覧」を掲載して終結するという、何とも不可解な結末となったようです。

そして、約3年後の1938年(昭和13年)5月31日に山本一清氏は京都帝国大学を依願退職して野に下ります。
ウィキペディアの山本一清氏の項によると、1935年(昭和10年)ころから氏を中傷する怪文書が大学や文部省・関係者に郵送され、大学内で起きた汚職問題に氏が絡んでいるとのデマまで出回るなどして、1937年(昭和12年)には大学より辞職勧告を受けるに至ったとあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E4%B8%80%E6%B8%85

怪文書が出回り始めた1935年(昭和10年)というのは、平山清次氏を徹底的にこき下ろした山本一清氏の論文が天界に掲載された年です。内容からして、東京学派の逆鱗に触れたのは間違いないだろうと思います。
何の証拠もありませんので憶測に過ぎませんが、どう考えても私には、山本一清氏vs(平山清次氏+東京学派)という構図が浮かんできてしまいます。山本一清氏の論文が「つづく」とあったにもかかわらず唐突に終わったのも、どこからか強い圧力があったとしか思えません。

そしてちょうどそのころ、学術研究会議に天文用語の委員会ができて、昭和19年の学術用語公式決定に向けての協議がスタートしました。これは山本一清氏にとっては長年の念願だったはずなのですが、以下の記事を見ると、もはや諦めてしまったかのようなイメージで、悲壮感すら漂っています。

●宇宙を觀る,人生を觀る:巻頭随筆
『天界』Vol.21 No.238(1941・昭和16年4月号)(山本一清)p.106~
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/168158/1/tnk000238_105.pdf

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くり返して言ふ.“今からでは,もはや遅いのだ”.
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この記事によって、東京学派と京都学派の訳語に関する一連の騒動が終焉したといえるのかもしれません。

_ 玉青 ― 2021年10月09日 14時31分27秒

こちらこそご無沙汰をしております。
…と言いつつ、最近は時間の進み方が速いので、あまりご無沙汰感もないのですが、そんなにご無沙汰でしたっけ?(笑)

さて、きわめつきに貴重で、詳細なご教示をありがとうございました!
本当に「へええ」と驚くようなことばかりで、大いに蒙を啓かれました。
星座名や、ことにプラネットの訳語をめぐって、東京と京都が対立していた話は折々耳にしますが、立ち入ってみるとその辺の事情も相当複雑ですね。そして学術的というよりも、もっぱら人の心の機微に立ち入った要素が多くて、天文学者たちの角逐に、思わず「人間とは…」という嘆声が漏れました。まだリンクしていただいた先までは読みにいけてないので、そちらも読ませていただきます。

_ S.U ― 2021年10月10日 06時17分29秒

Ha様のコメントと、玉青さんのご対応を拝見して、たいへん感銘を受けました。私は、本流のフォローはできませんが、この機会に私が以前から考えている点を雑感として披露させていただきます。

・山本一清と野尻抱影の付き合い関係について多少の興味を持っています。単純に考えると、彼らは天文普及界のライバルですが、出身畑がまるで違うので、四つに組み合うライバルであるはずはありません。私は、彼らは特に親しくも疎遠でもなく、実務的に互いに足らざる範囲を補い合う関係ではなかったかとみています。ただ、これについては、私は抱影が「天界」に投稿した事実でしか判別できませんが、ほかに客観的なサポート文献がありますでしょうか。

・科学用語(ここでは特に天文学)の和訳については、極端にいうと2つの考え方があります。A) 興味のきっかけになるようとっつきやすい用語にすべき B) 発展的な勉強につながるような用語にすべき。私も、文書を書く科学普及に携わっていますので、とても気になるところです。
 このA)とB)は今に至るまで常に葛藤ですが、時代による優劣の揺れがあり、多少の偏見を持ってひとくくりに言えば、B)→A)→B)という大きな流れがあるのではないかと思います。西洋天文学愛好者がおもに専門家に仕切られていた時代はB)、子どもへの普及に目覚めた時代はA)、そして、子どもというものは本質的に、一時的な興味の人はすぐに離れていって、興味と素養の合う人はどうであっても自ら発展していくことがわかればB)が本質であることがわかります。一つの仮説ですが、あらっぽくいうと、東京学派がA) を重視した時代があり、山本一清は古いB)だったのか新しいB)だったかわかりませんが、一貫してB)支持であったのではないかと思います。

_ 玉青 ― 2021年10月10日 09時57分41秒

「濃いコメント欄」の主役は言うまでもなくS.Uさんですが、S.Uさんは既に「天文古玩」と半ば一体化されているので、その都度記事本編に上げるまでもない…ということで、どうぞご了承ください。(^J^)

ときに、山本一清と野尻抱影は、お互いをどう思ってたんでしょうね。それぞれの文章の中で、相手にどう言及していたのか、私もパッとは思いつきませんが、整理してくださる方がいれば有難いです。仰る通り両者は出自も違えば、フィールドも違ったので、その辺はたぶんうまく住み分けができていたんでしょうが、でも内心では山本一清も抱影のような仕事――星座と歴史のロマン探訪――がやりたかったのに、そのお株を奪われて一寸残念な気持ちがあったかもしれませんね。

>B)→A)→B)´

おお、科学用語のアウフヘーベンですね(ダッシュは私が勝手につけました)。
S.Uさんの所説とちょっとズレますが、思うにAとBの方向性は、和訳以前に欧米の原語にもあって、Aについては子どもを意識しての場合もあるでしょうし、あるいはジャーナリスティック志向の学者が特にそういう表現を好んで使うような印象もあります。和訳に際しても、その辺の意を汲んで訳すと行き違いが減るかもしれませんね。(本来やわらかいニュアンスの用語を硬く訳すのも拙いですし、逆もまた落ち着かない気がします。)

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