アフリカの夢2021年10月10日 09時59分14秒

流れのままに掛図の話題を続けます。

一昨日の世界地図は、あまりこのブログになじまない感じがありましたが、同じ地図でも、ことのほか博物趣味を感じさせる品もあります。

たとえば、以前大きな古いアフリカの地図を見たとき、ただちに昔の博物学者の書斎を連想しました。それは値段も相当張りましたが、やっぱり同じような嗜好の人がいるのか、すぐに売れてしまいました。そのときは格別残念な気もしませんでしたが、かすかな憧れのような気分は、その後も長く続きました。自分の部屋に似合うかどうかはともかく、一度はぶら下げてみたい気がしたのです。


そうした前史を経て見つけたのが、このアフリカ地図。
サイズは軸先を除いて58×87 cmと、昔見たものよりずいぶん小さいのですが、狭い部屋にはこれぐらいがちょうどいいので、これはむしろ長所です。


作者はフランスの地理学者、オーギュスト・アンリ・デュフォア(Auguste-Henri Dufour、1798-1865)で、1841年にパリの出版社から出ました。当初から掛図の体裁だったかは不明ですが、掛図になってから随分時が経つようです。

1841年といえば、英国のリヴィングストンがアフリカ探検を始めたばかりの頃で、ヨーロッパ人にとって、アフリカ内陸部はほぼ未知の世界、文字通り「暗黒大陸」だった時代です。この地図も当然空白が目立ちますが、その空白こそ時代の証人として意味があるともいえます。

(アフリカ北部拡大)

東にはナイル川地域(Region du Nil)があり、西にはアラブ人の住むマグレブ地域(Region du Maghreb)があり、そして南には黒人地域(Nigriti)が広がる…というアフリカ理解の骨格は、今もたぶんそのままでしょうが、当時はその骨格だけがあって、肉や内臓が欠けていました。

(アフリカ中西部に栄えたコンゴ王国付近)

目を凝らすとあちこちに見える ROYや Rは「王国(Royaume)」の略記で、それぞれがまた自立した小国家だったのでしょう。

沙漠があり、深い森があり、部族的小国家が無数に並び立ち、多様な自然と文化がパッチワーク状に延々と連なっていた広大な大地―。アフリカは博物学の沃野であり、探検家と蒐集家の夢を大いに誘いました。

   ★

ただ正直に告白すると、こういう「博物学ごっこ」――当時の博物学者を揶揄しているわけではなくて、アフリカの地図を部屋に掛けて悦に入る私自身の態度を指します――がどこまで許されるのか、葛藤がないわけではありません。

そもそも私の中にある「博物学者の部屋に掛かるアフリカ地図」というイメージも、何となく植民地経営的な匂いがするもので、そこにはある種の陰惨さがあります。手元の地図は列強による植民地分捕り合戦前夜のものなので、まだ罪深さが薄い気もするんですが、それにしたって奴隷商人が横行した過去を思えば、まったく無罪放免というわけにはいきません。

それに当時のヨーロッパ人に言わせれば、極東の日本だって、アフリカと大差なかったはずで、遠いだけにいっそう謎めいていたかもしれません。その島国の住人が、ヨーロッパ人の目を借りて、アフリカに得体のしれないロマンを投影するというのも、ずいぶん倒錯した話です。アフリカの人にとっては迷惑千万なことでしょう。

おそらくここで必要なのは、アフリカに対する敬意と畏れです。
そして敬意と畏れを抱いた上で、この地図の向こうに博物趣味の香気を感じることを、我が身に許したいと思います。

アフリカは人類のふるさと。
ふるさとは遠きにありて思うもの、そして悲しくうたうもの、です。

コメント

_ S.U ― 2021年10月11日 12時51分31秒

植民地時代前のアフリカには憧れますよね。逆に植民地に分割されてしまったアフリカの地図など、私は1960年以前の地図帳も家にあったので子どもの頃見ていましたが、いたって味気ないものでした。

 それで、アフリカの地図を折り目正しい倫理で眺めるには、当時の歴史をまず理解することと思い、これを試みたことはあるのですが、難解でなんら統一可能な理解に至らず、面白くないのです。これと同様の感じが、アメリカ先住民族、中央アジア~シベリアの民族のみならず、我が日本の古代の地方史(縄文時代~大和政権の勢力が及んでいなかった時代の地方の歴史)や海賊の歴史にも感じられました。時間がかかるばかりで、ストーリーが見えてこず、結果面白くないということです。

 これは、畢竟、自分の頭が中央集権国家のそれに凝り固まっていて、それ以外の社会の視点がないからだと思います。現代人にはどうしようもないことなのでしょうか。私は、柳田国男の「山人もの」など長年読んでいるのですが情けないことだと思います。

_ 玉青 ― 2021年10月12日 05時47分13秒

偉そうなことを書いたわりに、私はアフリカの通史を知っているわけでも何でもないので、大いに恥じています。ただ「アフリカ史」は(そういう題目で本を書くことはできるでしょうが)実体的には成り立ちがたいのかもしれません。分かりにくさは、その反映じゃないでしょうか。

全体が部分の総和以上の意味を持つ場合に限って、全体の歴史というのは成り立つのだと思いますが、そういう意味で、「アフリカ史」が「個別の地域史の集合体」以上の意味を持つのは、「植民地化の歴史」、「戦後の独立史」、そして現代の「アフリカ連合史」が主で、それ以前は「アフリカ(という全体)」の視点からは、叙述困難な気がします。

文字以前の日本の歴史も同様で、そもそも「日本」がなかったのですから、「日本史」のありようはずがありません。日本古代史の本は山ほどありますが、そこで言うところの「日本」の意味合いについては、よくよく注意しないといけないと思います。

_ S.U ― 2021年10月12日 07時32分42秒

>全体が部分の総和以上の意味を持つ場合に限って
 そういう見方が重要なのですね。海賊の歴史は、非合法的商業形態としてかなり広いネットワークがあった可能性があるので、解明や解説法が進めばもうちょっと理解できるようになるのかもしれません。アフリカはそれでも無理で、仮に当時の外国人が聞き取った文献があったとしても「歴史」には載りにくそうです。「古代日本史」もたぶん同様ですね。
 
 結局、過去には行けないので、机上のアプローチで当時の社会を理解するためにはどうしたらよいのかということになりますが、何かドカッと頭から捨てる必要があることには変わらないような気がします。それが、政治学か経済学か宗教倫理なのか何かはさっぱりわかりません。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック