閑語 ― 2021年11月02日 22時01分01秒
選挙は蓋を開けてみないと分からないと書きました。
で、開けてみてどうだったか?
結果はすでにご承知のとおりで、個人的にはあたかも地獄の釜の蓋が開いたかのような気分です。
私の予想では、積極的な野党支持票は伸びないまでも、与党への批判票はもっと多いだろうと思っていました。でも結果はずいぶん違っていて、この点では事前の世論調査の方が正しかったわけです。
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うーむ…と腕組みをしつつ、どういうことかなあと思案しています。
なかなか理解しづらいことですが、世の中に私の理解できないことは無数にあるので、これもその一つに過ぎないといえばそれまでです。
ただ、分からないなりに、後知恵で考えると、今回野党がふるわなかった第一の原因は、野党共闘のロジックないし前提が、そもそも間違っていたことでしょう。
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これまで、旧民主党系の候補と、共産党系の候補(さらに社民党やれいわ)の得票数を足し合わせると、自公の候補を上回る選挙区はたくさんありました。「だから、野党が共闘して候補者を一本化すれば勝てるはず」と思ったのが、そもそも間違いだったのです。たぶん人々の投票行動は、それほど単純ではないのでしょう。
たとえば労働運動の文脈で見ても、連合系の組織が共産党に対して抱く不信感は想像以上のものがあって(逆もまた真なり)、結果として「候補者を一本化しても、得票数は両者の合計にはならない」という事実が、今回明らかになりました。(労組の組織票ばかりでなく、浮動票の投票行動にも、一本化は複雑な影を落としたことでしょう。)
今回の結果――すなわち共闘効果の不発は、それこそ蓋を開けてみるまで分からない、いわば実験的な性格を帯びたものですから、「やっぱり野党はだらしない」とか、執行部の責任問題とか、そういう論にすぐ結びつけなくてもいいのでは?と、私は思います。でも、今後の野党各党のストラテジーに大きな影響を及ぼすことは必定でしょう。
私自身は素朴な大同団結派で、共闘大いに結構と思っていたので、いかにも残念ですが、これが政治というものであり、人間社会の実相なのです。これはひとつ勉強になりました。
★
でもひょっとして、投票日がもう一日遅く、神様たちが出雲から帰ってきた後なら、結果も違ったのかなあ…と思ったりもします。
鮮やかな古暦 ― 2021年11月03日 09時36分51秒
今日は文化の日。
昔から言われる特異日の一つで、今日もよく晴れています。
文化の日は、何が文化の日かよく分かりませんが、昔でいう天長節、すなわち天皇誕生日を引きずったもので、この場合の天皇は明治天皇のこと。その後、大正天皇の即位に伴い、11月3日は祝日から外され、いったん平日に戻りましたが、昭和になって「明治節」の名で復活しました。それが戦後「文化の日」になったわけです。
1枚の短冊に、そんな遠い日を思い出します。
もちろん、自分がその時代をじかに経験したわけではありませんが、その時代をじかに経験した証人が現にこうしてあります。こういうモノを前にすると、私はなんだか祖父の昔話に耳を傾けている孫のような気分になります。
(1月~5月)
この美しい木版刷りの短冊は12枚ひと揃いで、月ごとの景物が描かれています。
(6月~10月)
(短冊の裏面)
各葉は腰のある厚紙ではなく、ペラペラの和紙に刷られており、いわゆる短冊というよりも「短冊絵」と呼ぶ方が適当かもしれません。江戸の錦絵そのままの技法で刷られた、非常に凝った作品です。
上は1月の短冊に刷られた文字。ご覧のとおり、その月の祝日や二十四節気、それから日曜日の日付が入っています。要はこれは12枚セットのカレンダーです。
冒頭の「一月大」は、1月が大の月であることを示し、江戸時代の暦の伝統を受け継いでいます。新暦になってからは、「西向くさむらい(二四六九士)が小の月」と覚えれば用が足りるようになりましたが、旧暦では大小の配当が毎年変わったので、月ごとの大小の区別だけ刷り込んだ、簡便な略暦が毎年売られていました。(参考LINK 「大小暦」)
そんなことから、最初は明治もごく初期の品かと思いましたが、文字情報を考え合わせると、明治6年(1873)の新暦導入以降で、
①1月7日、14日…が日曜日である
②うるう年である
③11月3日が天長節である
②うるう年である
③11月3日が天長節である
の3条件を満たすのは明治45年=大正元年(1912)だけですから、時代はすぐにそれと知れます(実際には大正天皇の即位にともない、この年の天長節は8月31日に変更となっていますが、暦は前年中に刷るものですから、暦上は11月3日のままです)。
したがって、これは江戸がいったん遠くなった後、懐古的な「江戸趣味」が流行り出した頃の作品なのでしょう。花柳界で凝った「ぽち袋」が流行り出したのも、明治の末年から大正にかけてのことと思いますが、ちょっとそれに似た手触りを感じます。
11月は七五三からの連想で犬張り子、12月は伝統的に冬の画題である白鷺。
作者の「竹園」については残念ながら未詳です。
★
明治と大正の端境に出た古暦。
今や明治や大正はもちろん、昭和もはるか遠くなり、平成も遠ざかりつつありますが、この古暦は、たぶん私よりもずっと長生きし、その鮮やかな色彩を今後も保ち続けることでしょう。人のはかなさと同時に、モノの確かさということを感じます。
季節外れの七夕のはなし ― 2021年11月07日 11時37分11秒
さすがに季節外れなので、このブログでは話題にしませんでしたが、最近ずっと集中していることがあります。それは「七夕」をめぐるあれこれです。来年の7月に、また話題にできればと思いますが、それまで自分の問題意識を忘れないようメモしておきます。
★
日本は星をめぐる神話や習俗が希薄と言われます。
しかし、そうした中でも突出した存在感と安定感を誇るのが七夕祭りです。
(戦後始まった代表的な「観光七夕」、平塚市の七夕祭り。昭和の絵葉書)
ただ、私の中では何となく理解しづらいものを感じていました。
それは「結局のところ、七夕祭りとは何なのか?」が、スッと呑み込めずにいたからです。例えば、正月なら「歳神さまを迎える祭りだよ」という説明を聞けば、ああそうかと思いますし、盆踊りなら「祖先の霊を迎え、慰める祭りさ」と言われれば、なるほどねと思います。では七夕の場合はどうか?
民俗行事というのは、たいていは祖先祭祀の儀礼であったり、招福除災の儀礼であったり、豊作を願う農耕儀礼であったり、大体いくつかの基本性格に分類できると思います。そして日本の七夕は、上で挙げた3つの性格をすべて備えています。すなわち、多くの地方で七夕は盆の行事と一体化し、また穢れを払うために七夕竹を川に流し、豊作を祈るために農作物を供えます。
しかしややこしいのは、「だから、七夕の基本性格は先祖供養(あるいは祓穢や豊作祈願)にあるのだ」とは言えないことです。それらは後から付加、ないし混交したもので、七夕本来のものとは言えません。
日本における七夕は明らかに大陸起源のものなので、大陸における七夕の姿も考えないといけないのでしょうが、大陸は大陸で、時代により地方により、その姿は様々で、一筋縄ではいきません。(現代中国における標準的な七夕説話ひとつとっても、現代日本のそれとはだいぶ違っています。今日のおまけ記事を参照。)
日本における七夕習俗の歴史的変遷についても、いわば「奈良時代の鹿鳴館」的な、ハイカラな新習俗として行われた宮中儀式(乞巧奠)が、徐々に民間や地方に下りてきた流れもあるでしょうし、それ以前に織物技術とセットになって半島から伝来した、より土俗的な習慣も各地に古層として存在したはずで、そうしたハイカルチャーとローカルチャーの複雑な相互作用も(今となっては検証のしようもないかもしれませんが)、一応は念頭に置かないといけないと思います。
(大雑把なイメージとしては、「七夕(しちせき)」や「乞巧奠」という漢語がハイカルチャーを、「たなばた」という和語がローカルチャーを象徴しており、「七夕」を「たなばた」と訓じたことから、いろいろ概念的混乱が生じているように思います。)
★
結局のところ、外皮をすべてはぎ取れば、七夕の基本性格は「織物に関する生産儀礼」ということになると思いますが、それが「七月七日の節句行事」となった理由や、そもそも論として、それが「星祭り」という形をとった理由が分からない…というのが、私のずっともやもやしている点で、これまで納得のできる説明を目にしたことがありません。これらについて、少し時間をかけて考えてみます。
(この項、間をおいて続く)
季節外れの七夕のはなし(おまけ) ― 2021年11月07日 11時49分34秒
現代日本の七夕のありようは、江戸時代のそれとは違うし、江戸時代のそれは室町時代のそれとも違います。
同様に七夕の本場・中国でも、やっぱり内的変化はあって、現代の中国で標準的に受容されている七夕説話の背後にも、各時代を通じて施された彫琢がいろいろあることでしょう。いずれにしても、日本の我々が親しんでいる七夕説話とは、いろいろ違う点が生じており、その違いが面白いと思ったので、内容を一瞥しておきます。
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中国で2010年に発行された「民間伝説―牛郎織女」という4枚セットの記念切手があります。
まず1枚目。タイトルは「盗衣結縁」。
設定として、牽牛(牛郎)は元から天界の住人だったのではありません。元は貧しい普通の男性で、相棒の老牛とつましく暮らしていました。一方、織女は天帝の娘、天女です。その二人が結ばれた理由は、日本の羽衣伝説と同じです。中国版が日本と少しく異なるのは、老牛の扱いの大きさで、「天女と結婚したいなら、天衣を奪え」と教えたのも老牛だし、話の後半でもヒーロー的な活躍をしますが、七夕説話が牽牛と老牛の一種の「バディもの」になっているのが面白い点です。
2枚目は「男耕女織」。
日本の説話だと、結婚した二人が互いの職分を忘れてデレデレしていたため、天の神様が怒って、二人を銀河の東と西に別居させたことになっていますが、中国版だとふたりは結婚後もまじめに仕事に励み、子宝にも恵まれて幸せに暮らしていました。まずはメデタシメデタシ。
3枚目は「担子追妻」。
しかし、その幸せも長くは続きません。自分の娘が地上の男と結ばれたのを知って怒った天帝が、西王母を地上につかわし、娘を糾問するため天界に召喚したからです。妻との仲を裂かれて嘆き悲しむ牽牛に、老牛が告げます。「自分の角を折って船とし、あとを追いかけよ」と。言われるまま、牽牛は牛の角の船に乗り、愛児を天秤棒で担いで、天界へと妻を追いかけます。しかし、あと一息というところで、西王母が金のかんざしをサッと一振りすると、そこに荒れ狂う銀河が現れて、二人の間を再び隔ててしまいます。
4枚目、「鵲橋相会」。
銀河のほとりで二人は嘆き悲しみますが、その愛情が変わることはありません。それに感動した鳳凰は、無数のカササギを呼び集めて銀河に橋をかけ、二人の再会を手助けします。それを見た西王母も、7月7日の一晩だけは、ふたりが会うことを認めざるを得ませんでしたとさ。とっぴんぱらりのぷう。
★
この話にしても、地上に残された老牛はどうなったのか、牛がいなければもはや「牽牛」とは言えないんじゃないか?とか、天帝のお裁きは結局どうなったのか、夫婦はそれで良いとしても、母子関係はどうなるのか?とか、いろいろ疑問が浮かびます。
説話というのは、そういう疑問や矛盾に答えるために細部が付加され、それがまた新たな疑問や矛盾を生み…ということを繰り返して発展していくのでしょう。
繰り返しになりますが、これが中国古来の一貫して変わらぬ七夕伝承というわけではありません。絶えず変化を続ける説話を、たまたま「今」という時点で切り取ったら、こういう姿になったということで、その点は日本も同じです。
小さな星座カードのはなし ― 2021年11月08日 20時37分22秒
数年前――より正確にいうと6年前、ある星座カードのセットを買いました。
「Connais-tu les etoiles?」(君は星を知っているか?)と題したこのカードは、パリのすぐ南、ブリュノワの町にあるマルク・ヴィダル(Marc Vidal)【LINK】という、レトロ玩具(日本でいう駄菓子屋で売っているような品)の専門のメーカーが作ったものです。
買ったときは、ここがレトロ玩具専門とは知らなかったので、「今のご時世、こんな紙カードの需要があるんかいな?」と他人事ながら心配になりました。でも、だからこそ意気に感じて買わねばならない気がしたのです。それに当時は天文ゲームに熱中していた時期なので、そのヴァリエーションに加えてもいいかな…とも思いました。
外箱は8×10cm、中に入っているカードは7×9.5cmの定期券サイズです。
内容は月ごとの星空カードが12枚と、主要星座の説明カードが同じく12枚、さらに全体の解説カードが1枚の計25枚。
カードはすべて両面刷りで、星空カードは表と裏で北天と南天を描き分け、また星座カードは表裏で別星座を扱っているので、登場するのは全部で24星座です。
…と、ここまでは尋常の紹介記事です。
確かにかわいらしい品ではありますが、このカードについては、一応これで話が終わりの「はず」でした。
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しかし狭い世界を生きていると、いろいろ見聞きするもので、この「Connais-tu les etoiles?」には‘本家’があることを最近知りました。
それがこちらです。
(中央の白い輪っかは輪染み)
版元はパリのスイユ出版(Éditions du Seuil)。
同社は1935年の創業で、この品も1935~50年頃に出たものでしょう。
カードは全部で20枚の両面刷り、そこに2つ折りの索引カードが付属し、全体は薄紙のカバーに包まれています。カードの大きさは7×10cmと、新版よりもわずかに横長。
趣のあるカラー印刷は石版刷り。
内容は「星座の見つけ方」がメインで、小さなガイド星図集といったところです。(結局、本家と新版の共通点はパッケージデザインだけで、内容はそれぞれオリジナルです。)
また各星図の中に主要メシエ天体が赤刷りされているのも特徴で、メシエ天体は一部を除き肉眼では見えませんから、このカードは望遠鏡を使えるアマチュア天文家を想定読者としていたはずです。
版元のスイユ社は、人文・社会系の良心的な出版社とのことですが、こうした児童向け天文カードを手掛けた経緯は不明です。あるいは暗い時代に灯をともしたかったのでしょうか。
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地味な星座カードに、地味な「本家」があった…
まあ、えらく細かい話ですし、他人からしたら「それがどうした」という類のことでしょうけれど、自分にとってはこれも立派な発見で、かなり嬉しかったです。
ツイン星座早見盤 ― 2021年11月10日 21時23分19秒
小さな星図からの連想で、小さな星座早見盤を取り上げます。
これも数年前に届いた品です。
14×15cmのかわいいサイズですが、紺のクロス装に金文字が渋さを感じさせます。
全体は二つ折りになっていて、表紙を開くと、左に南の星空、右に北の星空が見開きで並んでいます。
(裏表紙。この星図は貼り付けてあるだけで、回転はしません)
ここでいう「南の星空」「北の星空」は、いわゆる「南天星座」「北天星座」の意味とはちょっと違って、ヨーロッパ(北緯50度付近)から見て、南を向いた時に見える星空と、北を向いた時に見える星空を、2枚の星図に描き分けたものです。(南を向けば左が東、北を向けば右が東になるので、2つの円形星図は互いに鏡像関係になっています。)
(南の空)
(北の空)
上の2枚はそれぞれ11月10日の夜8時に合わせたところ。いずれも「窓」の下辺が地平線で、上辺は天頂をちょっと超えたあたりです(気になるのは、この「窓」の形がどのように決まったのか、そこに合理性はあるのかで、私にはうまい説明が思い浮かびません)。参考までに、普通の星座早見盤だとどうなるか、同日同時刻のフィリップス社の早見盤を挙げておきます。
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ここで改めて、表紙の文字情報を確認しておきます。
Taschen-Sternkarte (Doppelkarte)
von G. Gebert, Oberlehrer.
Altzedlisch (Westböhmen)
Selbstverlag
ポケット星図(二重星図)
上級教師 G. ゲバート(作)
アルトツェドリッシュ(西ボヘミア)
私家版
von G. Gebert, Oberlehrer.
Altzedlisch (Westböhmen)
Selbstverlag
ポケット星図(二重星図)
上級教師 G. ゲバート(作)
アルトツェドリッシュ(西ボヘミア)
私家版
表記はドイツ語ですが、作られたのは西ボヘミア、現在のチェコです。アルトツェドリッシュは、現在はスタレー・セドリシュチェ(Staré Sedliště)と呼ばれる町のドイツ名。
ゲバートの肩書である「Oberlehrer」は、手元の辞書に「上級教師(功労のある小学校教諭の称号)」とあって、これはだいぶ古風な言い回しのようです。たぶん日本で言うところの「訓導」とか、そんな語感でしょう。いずれにしてもこの早見盤は、専門の天文学者ではない、一小学校の先生の手になるものです。
発行年は書かれていませんが、全体の感じとしては1900年前後、あるいは少し後ろにずらして20世紀の第1四半期といったところでしょう。おそらくは1918年にチェコスロバキア共和国が成立する前の、ハプスブルク治下の産物と想像します。
★
この珍品といってよい早見盤も、例のグリムウッド氏の星座早見盤ガイド【LINK】にはちゃんと載っていて、さすがと思いました。
ただ、同書には「サイズ不明」とあって、氏も現物はお持ちでなかったようです。
…と思いながら、写真を見ているうちにハッとしました。
ここに写っているのは、今私の手元にある品と同じものではありませんか(余白の鉛筆書きまでそっくり同じです)。
一瞬「あれ?」と思いましたが、おそらくグリムウッド氏は、オークションの商品画像を資料として保存し(これは私も時々やります)、本を編むにあたって、それを利活用されたのでしょう。さらに想像をふくらませると、このとき私は、自覚せぬままグリムウッド氏に競り勝っていた可能性だってあります。
こうなると、「さすが」という思いがグルっと一周まわって自分にかえってくるわけで、何だか妙な気分ですが、それにしても世界は狭いなと思いました。
(この早見盤は、かつてウィーンのサロ・ルービンシュタイン古書店の棚に並んでいました。まったくの余談ですが、同店主のルービンシュタイン氏は1923年に没し、娘であるマルガレーテさんが跡を継いで商売を続けていたのですが、彼女は1942年に、ナチの手でテレジン強制収容所に送られ、1943年に絶命した…とネットは告げています【LINK】)
ちひさなほしそら…懐中星座早見の世界(1) ― 2021年11月11日 21時26分57秒
枕草子に曰く、「ちひさきものはみなうつくし」。
小さいものは、それだけで人の心に訴えかけるものがあります。
星座早見盤もまたしかり。小さければ小さいほど、その小さな身体に無限の星空を宿していることが不思議であり、いとしくも感じられます。
古いものに限っても、これまで小さい早見盤はいろいろ取り上げました。
○左上: イギリスのフィリップス社製の小型早見盤
○中央: 冷戦下のチェコスロバキア製早見盤
○下: 昨日登場したばかりの西ボヘミア製ツイン早見盤
落穂ひろい的な感じはありますが、これまで登場する機会のなかったものを載せます。
(この項つづく)
空のオーラリー ― 2021年11月13日 10時47分48秒
ここしばらく、澄んだ空に金星、木星、土星、それに月が居並び、互いの位置が刻々と変わるのを見て、まるで巨大なオーラリーを眺めているようだと思いました。
来週19日の月食の折には、夜空を見上げる際つい忘れがちな、太陽と地球の存在までもがしっかり可視化されて、いよいよ壮大なオーラリーを楽しめそうです。
(『スミスの図解天文学』(1849)より。今ではおなじみの図ですが、最初見たときのインパクトは大きかったです)
まあ冷静に考えれば、これは倒錯した言い方で、惑星の動きは別にオーラリーを模倣しているわけではなくて、事実はまったく逆です。でも、惑星の動きをじーっと何千年も観察し続けて、太陽系の真実を明らかにし、その姿を創意工夫によって一個の器械装置で表現した先人のことを思うと、やっぱり空に誇らしげに浮かぶ巨大なオーラリーを想像してしまいます。
★
日々いろいろなことが起って心が波立ちますが、善悪も美醜もまるごと載せた小さな地球が、今もくるくる太陽の周りを回っている姿を思うと、物事が相対化されて、多少心が落ち着きます。そうは言っても、小人の常として、一瞬「達観」しても、またすぐに心が乱れるわけですが、私の心が落ち着こうが落ち着くまいが、それでも地球は回り続けていることを思えば、心が乱れること自体、そう大したことじゃないとも思います。
(小さな星座早見盤の話はまだ書きかけです)
懐中星座早見の世界(2)…飛行機乗りの友 ― 2021年11月14日 09時59分38秒
(前々回のつづき)
■Francis Chichester
The Pocket Planisphere
George Allen & Unwill Ltd. (London)
The Pocket Planisphere
George Allen & Unwill Ltd. (London)
その名もずばり「ポケット星座早見盤」という名の、これまた二つ折り式のツイン早見盤です。サイズは約13×14cm、刊年が記されていませんが、ネット情報によれば1943年刊。
(おもて表紙と裏表紙を開いたところ)
先日の西ボヘミア製の早見と比べると、左右の円形星図と、それを覆う「窓」のページが独立しており、全体が4層構造になっている点がちょっと違います。
(「窓」を南北の星図にかぶせたところ)
違いは他にもあります。この前のは「ヨーロッパ目線で見た南の空と北の空」を2枚の星図に描き分けたものでしたが、今日のは文字通り「南天・北天」用で、北緯50度用と南緯35度用の2枚の早見盤がセットになっています。いわば世界中どこでも使えるユニバーサル早見盤です(「実用目的としては、北緯70度から南緯60度まで、どこでも使える」と作者は述べています)。
さらに円形星図の表現も大きく違います。
(北天用)
(南天用)
ご覧のとおり、そこには通常の星座がほとんど描かれていません。はくちょう座やオリオン座、さそり座なんかはありますけれど、それ以外はいくつかの明るい星と、それらを結ぶ曲線があるのみです。
この早見盤の最大の特徴は、それが通常の「星見の友」ではなくて、飛行機乗りが星を目当てに飛ぶ際のナビゲート目的で使うものであることです。そのため、目当てとなる明るい星を捉えやすいように、こうした表現をとっているわけです。
そして「窓」のページの裏側には、通常の星座名ではなく、輝星のみを大づかみにグルーピングした「北斗グループ」や「大鎌グループ」、「オリオン近傍グループ」といった名称が記されています。
★
ここまで読んで、思い出された方もいるかもしれませんが、この早見盤はまったくの新顔ではありません。以前も、同じ作者、同じ用途、同じ構造の早見盤を取り上げたことがあり、今日の品はその小型版です(ですから、上の説明はちょっと冗長でした)。
(画像再掲)
■飛行機から見た星(前編)(後編)
以前の記事を引用すると、「著者のフランシス・チチェスター(1901-1972)は、手練れのパイロットにして天文航法の専門家。星図出版当時は、英国空軍志願予備軍(Royal Air Force Volunteer Reserve)に所属する空軍大尉でしたが、年齢と視力の関係で、大戦中、実戦に就くことはありませんでした。そして、戦後は空から海に転身し、ヨットマンとして後半生を送った人」です。
見かけはかわいい「飛行機乗りのための早見盤」ですが、時代を考えると「軍用機乗りのための早見盤」と呼ぶ方が正確で、かわいいとばかり言ってられない重みがあります。
★
小さい早見盤(※)は他にもっとあるような気がしたんですが、手持ちの品を探してみたら、これで打ち止めでした。したがって、えらい竜頭蛇尾ですが、「懐中星座早見の世界」と称して書き始めたこの連載も突如終了です。
(※)差し渡し(四角いものなら一辺、円形のフォルムなら直径)が15cm以下のものを、「小さい早見盤」と仮に呼ぶことにしましょう。
彗星と飛行機と幻の祖国と ― 2021年11月15日 21時28分05秒
…という題名の本を目にして、「あ、タルホ」と思いました。
でもそれは勘違いで、この本は稲垣足穂とは関係のない或る人物の伝記でした。
その人物とは、ミラン・ラスチスラウ・シチェファーニク(1880-1919)。
■ヤーン・ユリーチェク(著)、長與 進(訳)
彗星と飛行機と幻の祖国と―ミラン・ラスチスラウ・シチェファーニクの生涯
成文社、2015. 334頁
彗星と飛行機と幻の祖国と―ミラン・ラスチスラウ・シチェファーニクの生涯
成文社、2015. 334頁
334頁とかなり束(つか)のある本ですが、本文は265頁で、あとの70頁は訳者あとがきと詳細な註と索引が占めています。
本の帯に書かれた文句は、
「天文学者として世界中を訪れ 第一次大戦時には勇敢なパイロット
そして、献身的にチェコスロヴァキア建国運動に携わった、
スロヴァキアの「ナショナル・ヒーロー」の生涯」。
そして、献身的にチェコスロヴァキア建国運動に携わった、
スロヴァキアの「ナショナル・ヒーロー」の生涯」。
シチェファーニクのことは、5年前にも一度取り上げたことがあります。
過去の記事では「シュテファーニク」と書きましたが、上掲書に従い以下「シチェファーニク」と呼びます。
■飛行機乗りと天文台
(シチェファーニクの肖像。上記記事で引用した画像の再掲)
天文学者で、飛行機乗りで、チェコスロヴァキア独立運動を率いた国民的ヒーローで…と聞くと、何だかスーパーマン的な人を想像します。たしかに彼は、才能と情熱に満ち、人間的魅力に富んだ人でしたが、詳細な伝記を読むと、彼が単なる冒険活劇の主人公ではなく、もっと陰影に富む人物だったことがよくわかります。
たとえば、彼はその肖像から想像されるような、鋼の肉体を持った人ではなくて、むしろ病弱な人でした。彼は重い胃潰瘍を患っており、それを押して研究活動と祖国独立運動にのめり込んでいたので、晩年はほとんどフラフラの状態でした。
(シチェファーニクの足跡・ヨーロッパ編)
(同・世界編)
本書の巻頭には折り込み地図が付いていて、シチェファーニクの生涯にわたる足跡が朱線で書かれています。その多くは独立運動のために東奔西走した跡であり、また少なからぬ部分が観測遠征の旅の跡です。病弱だったにもかかわらず、彼は実によく動きました。肉体はともかく、その精神はたしかに鋼でした。
彼は死の前年、1918年には日本にも来て、4週間滞在しています。そればかりでなく、原敬首相を始めとする時の要人に会い、大正天皇にも謁見しています。日本のシベリア出兵を促すためです。
シチェファーニクの独立へのシナリオは、第1次大戦で英・仏・露の「三国協商」に肩入れして、チェコ人とスロヴァキア人を支配してきたドイツとオーストリアを打ち破り、列国によるチェコスロヴァキアの独立承認を勝ち取ることでした。
ただし、ロシアでは革命で帝政が倒れた後、左派のボリシェビキと右派諸勢力の抗争が勃発し、在露同胞により組織されたチェコスロヴァキア国民軍とボリシェビキが対立する事態となったため、ボリシェビキを牽制するために、日本の力を借りる必要がある…と、シチェファーニクは判断したわけです。(そのため第二次大戦後、チェコスロヴァキアがソ連の衛星国だった時代には、シチェファーニクについて語ることがタブー視された時期があります。)
当時の複雑怪奇な欧州情勢の中で、シチェファーニクの情熱と言葉がいかに人々の心を動かしたか、その人間ドラマと政治ドラマが本書の肝です。そして、もちろん天文学への貢献についても十分紙幅を割いています。
★
1919年5月4日、彼が乗ったカプローニ450型機はイタリアを飛び立ち、故国スロヴァキアに着地する寸前で墜落し、彼は劇的な最期を遂げました。「カプローニ機は整備不良で事故が心配だから、鉄道で帰国してはどうか」と周囲はいさめたのですが、「自分はオーストリアの土地を踏みたくない」という理由で、強引に搭乗した末の悲劇でした。
(墜落事故の現場。本書より)
そして彼の遺骸から発見された、愛する女性への手紙を引用して本書は終わっています。
★
最後に蛇足ですが、チェコスロヴァキア建国運動の歴史的背景を、簡単に述べておきます(私もよく分かっていませんでした)。
チェコ人もスロヴァキア人も同じスラブ系の民族であり、チェコ語とスロヴァキア語は互いに方言程度の違いしかないそうですが、両民族のたどった歴史はだいぶ違います。すなわち、ドイツ人を支配層に戴きながらも、ボヘミア王国として独立の地位を長く保ち、近世になってからハプスブルク家の統治下に入ったチェコに対して、スロヴァキアは11世紀以降マジャール人(ハンガリー王国)にずっと支配されたまま、自らの国家を持ちませんでした。
それが19世紀になると、民族意識の高揚により、チェコ人とスロヴァキア人の同胞意識が芽生え、ドイツへの対抗意識が生まれ、オーストリア=ハンガリー二重帝国からの独立運動が熱を帯び、ついには「チェコスロヴァキア」という新たなスラブ国家創設へと結びついたのです。
その中心にいたのがシチェファーニクであり、彼はほとんど徒手空拳で中欧の歴史を書き換えた傑物です。
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