季節外れの七夕のはなし2021年11月07日 11時37分11秒

さすがに季節外れなので、このブログでは話題にしませんでしたが、最近ずっと集中していることがあります。それは「七夕」をめぐるあれこれです。来年の7月に、また話題にできればと思いますが、それまで自分の問題意識を忘れないようメモしておきます。

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日本は星をめぐる神話や習俗が希薄と言われます。
しかし、そうした中でも突出した存在感と安定感を誇るのが七夕祭りです。

(戦後始まった代表的な「観光七夕」、平塚市の七夕祭り。昭和の絵葉書)

ただ、私の中では何となく理解しづらいものを感じていました。
それは「結局のところ、七夕祭りとは何なのか?」が、スッと呑み込めずにいたからです。例えば、正月なら「歳神さまを迎える祭りだよ」という説明を聞けば、ああそうかと思いますし、盆踊りなら「祖先の霊を迎え、慰める祭りさ」と言われれば、なるほどねと思います。では七夕の場合はどうか?

民俗行事というのは、たいていは祖先祭祀の儀礼であったり、招福除災の儀礼であったり、豊作を願う農耕儀礼であったり、大体いくつかの基本性格に分類できると思います。そして日本の七夕は、上で挙げた3つの性格をすべて備えています。すなわち、多くの地方で七夕は盆の行事と一体化し、また穢れを払うために七夕竹を川に流し、豊作を祈るために農作物を供えます。

しかしややこしいのは、「だから、七夕の基本性格は先祖供養(あるいは祓穢や豊作祈願)にあるのだ」とは言えないことです。それらは後から付加、ないし混交したもので、七夕本来のものとは言えません。

日本における七夕は明らかに大陸起源のものなので、大陸における七夕の姿も考えないといけないのでしょうが、大陸は大陸で、時代により地方により、その姿は様々で、一筋縄ではいきません。(現代中国における標準的な七夕説話ひとつとっても、現代日本のそれとはだいぶ違っています。今日のおまけ記事を参照。)

日本における七夕習俗の歴史的変遷についても、いわば「奈良時代の鹿鳴館」的な、ハイカラな新習俗として行われた宮中儀式(乞巧奠)が、徐々に民間や地方に下りてきた流れもあるでしょうし、それ以前に織物技術とセットになって半島から伝来した、より土俗的な習慣も各地に古層として存在したはずで、そうしたハイカルチャーとローカルチャーの複雑な相互作用も(今となっては検証のしようもないかもしれませんが)、一応は念頭に置かないといけないと思います。
(大雑把なイメージとしては、「七夕(しちせき)」や「乞巧奠」という漢語がハイカルチャーを、「たなばた」という和語がローカルチャーを象徴しており、「七夕」を「たなばた」と訓じたことから、いろいろ概念的混乱が生じているように思います。)

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結局のところ、外皮をすべてはぎ取れば、七夕の基本性格は「織物に関する生産儀礼」ということになると思いますが、それが「七月七日の節句行事」となった理由や、そもそも論として、それが「星祭り」という形をとった理由が分からない…というのが、私のずっともやもやしている点で、これまで納得のできる説明を目にしたことがありません。これらについて、少し時間をかけて考えてみます。

(この項、間をおいて続く)

季節外れの七夕のはなし(おまけ)2021年11月07日 11時49分34秒

現代日本の七夕のありようは、江戸時代のそれとは違うし、江戸時代のそれは室町時代のそれとも違います。

同様に七夕の本場・中国でも、やっぱり内的変化はあって、現代の中国で標準的に受容されている七夕説話の背後にも、各時代を通じて施された彫琢がいろいろあることでしょう。いずれにしても、日本の我々が親しんでいる七夕説話とは、いろいろ違う点が生じており、その違いが面白いと思ったので、内容を一瞥しておきます。

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中国で2010年に発行された「民間伝説―牛郎織女」という4枚セットの記念切手があります。


4枚というのは、七夕伝説を起承転結にまとめたのでしょう。ストーリーの全体は、チャイナネットの「牽牛織女の物語」【LINK】に詳しいので、そちらを参照してください。


まず1枚目。タイトルは「盗衣結縁」
設定として、牽牛(牛郎)は元から天界の住人だったのではありません。元は貧しい普通の男性で、相棒の老牛とつましく暮らしていました。一方、織女は天帝の娘、天女です。その二人が結ばれた理由は、日本の羽衣伝説と同じです。中国版が日本と少しく異なるのは、老牛の扱いの大きさで、「天女と結婚したいなら、天衣を奪え」と教えたのも老牛だし、話の後半でもヒーロー的な活躍をしますが、七夕説話が牽牛と老牛の一種の「バディもの」になっているのが面白い点です。

2枚目は「男耕女織」
日本の説話だと、結婚した二人が互いの職分を忘れてデレデレしていたため、天の神様が怒って、二人を銀河の東と西に別居させたことになっていますが、中国版だとふたりは結婚後もまじめに仕事に励み、子宝にも恵まれて幸せに暮らしていました。まずはメデタシメデタシ。


3枚目は「担子追妻」
しかし、その幸せも長くは続きません。自分の娘が地上の男と結ばれたのを知って怒った天帝が、西王母を地上につかわし、娘を糾問するため天界に召喚したからです。妻との仲を裂かれて嘆き悲しむ牽牛に、老牛が告げます。「自分の角を折って船とし、あとを追いかけよ」と。言われるまま、牽牛は牛の角の船に乗り、愛児を天秤棒で担いで、天界へと妻を追いかけます。しかし、あと一息というところで、西王母が金のかんざしをサッと一振りすると、そこに荒れ狂う銀河が現れて、二人の間を再び隔ててしまいます。

4枚目、「鵲橋相会」
銀河のほとりで二人は嘆き悲しみますが、その愛情が変わることはありません。それに感動した鳳凰は、無数のカササギを呼び集めて銀河に橋をかけ、二人の再会を手助けします。それを見た西王母も、7月7日の一晩だけは、ふたりが会うことを認めざるを得ませんでしたとさ。とっぴんぱらりのぷう。

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この話にしても、地上に残された老牛はどうなったのか、牛がいなければもはや「牽牛」とは言えないんじゃないか?とか、天帝のお裁きは結局どうなったのか、夫婦はそれで良いとしても、母子関係はどうなるのか?とか、いろいろ疑問が浮かびます。

説話というのは、そういう疑問や矛盾に答えるために細部が付加され、それがまた新たな疑問や矛盾を生み…ということを繰り返して発展していくのでしょう。

繰り返しになりますが、これが中国古来の一貫して変わらぬ七夕伝承というわけではありません。絶えず変化を続ける説話を、たまたま「今」という時点で切り取ったら、こういう姿になったということで、その点は日本も同じです。