フィルムスライドの歴史について2022年02月15日 22時24分24秒

(前回のつづき)

暗闇の中で子どもたちの目と心を引きつけた幻灯会。
その「主役」であるスライドの材質とサイズが、1940年代後半から50年代半ばにかけて大きく変わったこと、すなわちその頃に大判のガラススライドから小型のフィルムスライドへの移行があったことを、先日の記事で書きました。

ただし、これは初等教育の現場という、わりと限られたフィールドでの話です。
ガラススライドの下限は天文スライドでは60~70年代まで伸びていたことを、少し前に書きました。一方、フィルムスライドの上限は40年代以前にさかのぼるのではないか…ということを、今日は書きます。

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フィルムスライドには大型の6×6判もありましたが、主役は35mmリバーサルフィルムを使ったものです。その登場がいつ頃だったか、それによってフィルムスライドの上限も決まります。手っ取り早く日本語版ウィキペディアの関連ページから抜き出してみます。

まずは、(映画撮影用ではなく)スチール写真用に開発された35mmフィルムである「135フィルム」の項目から。

 「135(ISO1007)は、写真フィルムの一種。135という用語は1934年にコダックが35mm幅のスチル写真用カートリッジ式フィルム用として初めて使用した。」

次いで「リバーサルフィルム」の項より。

 「イーストマン・コダック社は、世界で最初にカラーリバーサルフィルムを製造した会社である。」「〔コダクロームは〕1936年より発売されていた世界初のカラー写真フィルムであり、日本で最後まで販売されていた外式リバーサルフィルム。」

フィルムの開発史も細部に立ち入ると、なかなか難しそうですが、大雑把にいって1930年代半ばに写真撮影用の35mmカラーリバーサルが登場し、その頃から初期のフィルムスライドもあったように思えます。つまり、ガラススライドの終期とフィルムスライドの始期はかなりかぶっていて、両者の共存する時代が20年前後は続いたと想像します。

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ここで前回の記事と関連して、英語版Wikipediaから「Agfacolor」の項も見ておきます(以下は適当訳)。

 「アグファカラーは、ドイツのAgfa社が製造していた一連のカラーフィルムの名称である。1932年に発表された最初のアグファカラーは、アグファカラープレート(独:Agfa-Farbenplatt)、すなわちフランスのオートクローム〔※〕に類するスクリーンプレート〔※※〕のフィルムベース版だった。1936年後半に、Agfaは「アグファカラー・ノイ」を発表し、これは今日でも使われている一般的なカラーフィルムの先駆けとなった。

 アグファカラー・ノイは、元々は「スライド」やホームムービー、あるいはショートドキュメンタリー用のリバーサルフィルムだったが、1939年の頃には、ドイツの映画産業によってネガフィルムや映写フィルムとしても採用されていた。」

ここでも1930年代という数字は動かなくて、やっぱりその頃にはフィルムスライドはあちこちで使われるようになっていたのでしょう。

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ここまで書くと、前回の重厚なフィルムスライドも、1930年代にさかのぼる品では…と思いたくなりますが、それはちょっと早計です。どうやら私が知らなかっただけで、金属とガラスを使ったアグファのスライドフレームは、eBayでもデッドストック品をちょくちょく見かけるので、1960年代ぐらいまで結構使われていた形跡があります。(そもそも、私に昨日のスライドセットを売ってくれた人も、「これは1950~60年代のものだ」と言っていました。)

(eBayの商品写真を寸借)

そんなわけで時代的には戦後に下るもののようですが、そこから発する透明で硬質な空気は捨てがたく、なかなかの逸品だと自分では思っています。

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〔※〕リュミエール兄弟が発明した、三原色に染色したデンプン細粒をガラス板に散布したものを原板として用いる、最初期のカラー写真技術。コダックのコダクロームが登場する1930年代まで用いられた。(参照 https://ja.wikipedia.org/wiki/オートクローム

〔※※〕オートクロームで使われたデンプン細粒の代わりに、アグファは三原色に染色したゴム溶液を混和してガラス板に塗布することで、ガラス表面に三原色の微細なモザイク模様を作り出した。それが光のふるい(スクリーン)として働くことから、スクリーンプレートの名がある。(参照 https://filmcolors.org/timeline-entry/1337/

コメント

_ S.U ― 2022年02月16日 09時14分18秒

写真乾板や写真フィルムをスライド映写する場合のマウント:
ガラススライド→フィルムスライド+ガラスフレーム→フィルムスライドマウント(プラスティックまたは厚紙)

の変化の件ですが、フィルムの材質とその安全性に関わっているのではないでしょうか。(私の個人的な仮説です)

https://ja.wikipedia.org/wiki/写真フィルム

にあるところでは、それまではよく燃えるセルロイドフィルムであったのが、1950年代以降セーフティ・フィルムにおき変わったそうです。

https://i-maker.jp/blog/celluloid-8946.html 
から引用しますと、

セルロイドは熱可塑性樹脂として90℃の高温で溶け加工が可能だが、極めて燃えやすく、170℃以上に達すると自然発火する。また耐候性が低く光でも劣化し、耐久性も低い。20世紀初頭から1950年代にかけて多くの工業製品に使用されたが、この可燃性の高さから火災事故の主要原因ともなり、姿を消すこととなった。

 ということですから、セルロイドフィルムは、幻灯機の白熱電球直射は危険だったと思います。映画なら、セルロイドでもフィルムが高速で流れるので大丈夫なのですが、フィルムがひっかかって止まったら電球を消さないと火事に直結したそうです。

_ 玉青 ― 2022年02月20日 06時59分31秒

あ、それは!(とポンと膝を叩く)。それはいかにもありそうですね。
がっちりタイプのマウントは、フィルムの傷を防ぐためばかり思っていましたが、熱損予防の可能性はまったく念頭にありませんでした。プロジェクターのあの熱を思うと、確かに「抜き身」のセルロイドの薄片はひとたまりもないでしょう。戦前のフィルムスライドがありそうで見つからないのは、その影響もあるんでしょうね。

_ S.U ― 2022年02月21日 13時14分32秒

ご参考までに、日本の戦中、戦後の文部省の示した幻灯の規格についての研究がありました。

https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0609r_report02_01.pdf

これの2節(1)によると、昭和16年に、「電力量は一〇〇ワット以下」、「緩燃性「ベース」を使用せる、三五粍映画用「ロールフィルム」を用ふる事」などと指定されています。「三五粍映画用」「緩燃性「ベース」」というのはアセテートフィルムのことになると思いますが、昭和16年にそういうものが入手できたのか、と疑問を持ちます。

https://en.wikipedia.org/wiki/Cellulose_acetate_film

によると、アセテートベースの35mmフィルムは、20世紀前半から世の中には存在していたようです。映画用や一般写真用には画質や化学的耐久性などの理由でセルロイドのフィルムが使われ続けたのかもしれません。あるいか、幻灯用にわざわざ映画用の中から安全性の高いものを調達したこともあったのかもしれません。

_ 玉青 ― 2022年02月22日 23時00分55秒

貴重な情報をありがとうございます。
今回もだいぶ深掘りをしましたが、そろそろ supeculation の濃度が上がってきた感じがしますので、この辺でいったん話柄を転じ、当時のモノが見つかったら、また話を継ぐことにいたしましょう。

_ S.U ― 2022年02月23日 09時20分55秒

了解しました。日本の幻灯普及過程には、まだ謎が残っているようですね。また、ぼちぼちやることにしましょう。

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