銀河をゆく賢治の甥っ子たち(後編)2022年03月27日 08時02分06秒

盛中天文同好会の会誌「アストロノミー」。

(表紙に続くタイトルページ)


その活動の実態は、この会誌を読んでも明瞭ではありませんが、いくつかヒントはあります。まず目次に続く巻頭の「屡々〔しばしば〕用ひらる術語の解説」にはこうあります。

 「天文学には種々の術語があります。解ってゐないと本を読んだり、研究会で話を聞いたりする際に困りますから、新会員諸子の為に屡々用ひられる術語を解説することにしました。一年生諸君にも解る様に出来るだけ平易に、簡単に書くやうに努めたので、或る所は幾分厳密を欠いて居るかも知れません。その点はどうぞ御寛恕下さい。尚、不明のことは、上級生の人にでも質問願ひます。」

この号は5月に出たので、新入部員向けなのでしょうが、筆者の堀内政吉君はだいぶ先輩風を吹かせていますね。あんまり上から目線で物を言うと嫌われるのは、昭和のはじめも変わらなかったでしょうが、とにもかくにも先輩が後輩を熱心に教え導く雰囲気の中で、この同好会は営まれていたのでしょう。

そして、当時の天文少年は「研究会で話を聞」く機会があったことも分かります。校内で行われる仲間内の研究会もあったでしょうし、更に上級の学校に在籍する天文ファンとの交流や、大正9年(1920)に創設された全国組織である天文同好会(現・東亜天文学会)の支部活動に触れる機会なんかもあったかもしれません。

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同じく堀内君による「新遊星の発見」
これはこの会誌が出る直前、1930年2月に発見された冥王星の紹介記事です。もっともこの5月の時点では、まだ英名のPlutoも、和名の冥王星も定まってなかったので、その命名の帰結に堀内君も興味津々です。

堀内君は、天王星を発見したハーシェルに触れ、海王星発見の立役者たち(ブヴァール、アダムズ、ルヴェリエ、ガレ)を紹介し、最後に「五月号の科学智識・科学画報に、東京天文台の神田茂氏・小川清彦氏が新遊星に関する文を寄せて居られますから、ぜひ御一読あらん事を希望致します。」と一文を結んでいます。堀内君の知識の源が分かる気がします。当時の天文少年にとって、ビジュアルな科学雑誌は貴重な情報源であり、必読書だったのでしょう。

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盛岡中には天文趣味のイコン、天体望遠鏡があったのかどうか?
『改訂版 日本アマチュア天文史』(恒星社厚生閣)には、射場保昭氏が1936年現在でまとめた全国の望遠鏡所在リストから、学校所有の機材を抽出した表が載っています。

(『改訂版 日本アマチュア天文史』 p.343)

ご覧のとおり、天体望遠鏡を保有していた旧制中学校は何か所かありますが、盛岡中学の名前は見えません。雄弁な堀内君も、望遠鏡については一言も触れていませんし、おそらく同校に望遠鏡はなかったのでしょう(※)

【2022.4.6付記】 少なくとも昭和7年(1932)の時点では、盛中にはちゃんと望遠鏡がありました。それと併せて、天文同好会に在籍した人々の経歴も、manami.sh さんから的確なご教示をいただきました。どうもありがとうございました。詳細はコメント欄をご覧ください。


しかし、盛中天文同好会は「畳の上の水練」ばかりやっていたわけではありません。
末尾の「星図の見方」という一文を見ると、「添付の星図『五月の星空』は五月一日午後九時の天空の模様を画いたものです。〔…〕詳しい事は観測会の時説明します。」とあって、定例的に眼視観測会を催していたようです(なお、手元の冊子に星図は付属しません。はがされた形跡があります)。

さらに、

 「実際吾々が天文観測するにはこの星図だけでは不十分です。簡易星図は日本内地で見える四等以上の星全部記載してあります。尚之でも不足な人は「新撰恒星図」又は「古賀恒星図」をお奨めします。何れも全天の肉眼で見える星全部星雲星団も含んでゐます。値は簡易星図は十銭、新撰恒星図一円、古賀恒星図五十銭です。何れも希望者に取ってあげます。見本も本会にあります。」

…とあって、当時入手可能だった各種の星図を取り揃えて、彼らは星見の準備に余念がありませんでした。星図に親しみ、夜ごと空を見上げ、雑誌を熟読し、時には研究会に参加する…というのが、往時の模範的天文少年のあり方だったようです。

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望遠鏡がない代わり、彼らには暗い空がありました。そして若者らしい想像力が。
賢治にしても、他人の望遠鏡を覗く機会はあったにしろ、自前の望遠鏡は持たぬまま星の世界に沈潜し、あのように美しい世界を創造できたのは、独自の豊かなイマジネーションがあったればこそでしょう。

現代の我々には、暗い空も、想像力も不足しているから、大掛かりな観望機材と撮影機材に頼らなければならないのだ…というのは的外れな意見でしょうが、でも全く的外れかといえば、そうでもない気がします。


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(※)ただし、同書のp.346には以下のような図が載っていました。


戦前の盛中天文同好会との関係は不明ですが、盛中の後身である盛岡第一高校には立派な天文部があって(同校のサイトによれば今もあります)、1950年代前半には、10cm反射望遠鏡を使って太陽黒点の観測を行っていたとのことです。