銀河をゆく賢治の甥っ子たち(後編) ― 2022年03月27日 08時02分06秒
盛中天文同好会の会誌「アストロノミー」。
(表紙に続くタイトルページ)
その活動の実態は、この会誌を読んでも明瞭ではありませんが、いくつかヒントはあります。まず目次に続く巻頭の「屡々〔しばしば〕用ひらる術語の解説」にはこうあります。
「天文学には種々の術語があります。解ってゐないと本を読んだり、研究会で話を聞いたりする際に困りますから、新会員諸子の為に屡々用ひられる術語を解説することにしました。一年生諸君にも解る様に出来るだけ平易に、簡単に書くやうに努めたので、或る所は幾分厳密を欠いて居るかも知れません。その点はどうぞ御寛恕下さい。尚、不明のことは、上級生の人にでも質問願ひます。」
この号は5月に出たので、新入部員向けなのでしょうが、筆者の堀内政吉君はだいぶ先輩風を吹かせていますね。あんまり上から目線で物を言うと嫌われるのは、昭和のはじめも変わらなかったでしょうが、とにもかくにも先輩が後輩を熱心に教え導く雰囲気の中で、この同好会は営まれていたのでしょう。
そして、当時の天文少年は「研究会で話を聞」く機会があったことも分かります。校内で行われる仲間内の研究会もあったでしょうし、更に上級の学校に在籍する天文ファンとの交流や、大正9年(1920)に創設された全国組織である天文同好会(現・東亜天文学会)の支部活動に触れる機会なんかもあったかもしれません。
★
同じく堀内君による「新遊星の発見」。
これはこの会誌が出る直前、1930年2月に発見された冥王星の紹介記事です。もっともこの5月の時点では、まだ英名のPlutoも、和名の冥王星も定まってなかったので、その命名の帰結に堀内君も興味津々です。
堀内君は、天王星を発見したハーシェルに触れ、海王星発見の立役者たち(ブヴァール、アダムズ、ルヴェリエ、ガレ)を紹介し、最後に「五月号の科学智識・科学画報に、東京天文台の神田茂氏・小川清彦氏が新遊星に関する文を寄せて居られますから、ぜひ御一読あらん事を希望致します。」と一文を結んでいます。堀内君の知識の源が分かる気がします。当時の天文少年にとって、ビジュアルな科学雑誌は貴重な情報源であり、必読書だったのでしょう。
★
盛岡中には天文趣味のイコン、天体望遠鏡があったのかどうか?
『改訂版 日本アマチュア天文史』(恒星社厚生閣)には、射場保昭氏が1936年現在でまとめた全国の望遠鏡所在リストから、学校所有の機材を抽出した表が載っています。
(『改訂版 日本アマチュア天文史』 p.343)
ご覧のとおり、天体望遠鏡を保有していた旧制中学校は何か所かありますが、盛岡中学の名前は見えません。雄弁な堀内君も、望遠鏡については一言も触れていませんし、おそらく同校に望遠鏡はなかったのでしょう(※)。
【2022.4.6付記】 少なくとも昭和7年(1932)の時点では、盛中にはちゃんと望遠鏡がありました。それと併せて、天文同好会に在籍した人々の経歴も、manami.sh さんから的確なご教示をいただきました。どうもありがとうございました。詳細はコメント欄をご覧ください。
しかし、盛中天文同好会は「畳の上の水練」ばかりやっていたわけではありません。
末尾の「星図の見方」という一文を見ると、「添付の星図『五月の星空』は五月一日午後九時の天空の模様を画いたものです。〔…〕詳しい事は観測会の時説明します。」とあって、定例的に眼視観測会を催していたようです(なお、手元の冊子に星図は付属しません。はがされた形跡があります)。
さらに、
「実際吾々が天文観測するにはこの星図だけでは不十分です。簡易星図は日本内地で見える四等以上の星全部記載してあります。尚之でも不足な人は「新撰恒星図」又は「古賀恒星図」をお奨めします。何れも全天の肉眼で見える星全部星雲星団も含んでゐます。値は簡易星図は十銭、新撰恒星図一円、古賀恒星図五十銭です。何れも希望者に取ってあげます。見本も本会にあります。」
…とあって、当時入手可能だった各種の星図を取り揃えて、彼らは星見の準備に余念がありませんでした。星図に親しみ、夜ごと空を見上げ、雑誌を熟読し、時には研究会に参加する…というのが、往時の模範的天文少年のあり方だったようです。
★
望遠鏡がない代わり、彼らには暗い空がありました。そして若者らしい想像力が。
賢治にしても、他人の望遠鏡を覗く機会はあったにしろ、自前の望遠鏡は持たぬまま星の世界に沈潜し、あのように美しい世界を創造できたのは、独自の豊かなイマジネーションがあったればこそでしょう。
現代の我々には、暗い空も、想像力も不足しているから、大掛かりな観望機材と撮影機材に頼らなければならないのだ…というのは的外れな意見でしょうが、でも全く的外れかといえば、そうでもない気がします。
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(※)ただし、同書のp.346には以下のような図が載っていました。
戦前の盛中天文同好会との関係は不明ですが、盛中の後身である盛岡第一高校には立派な天文部があって(同校のサイトによれば今もあります)、1950年代前半には、10cm反射望遠鏡を使って太陽黒点の観測を行っていたとのことです。
コメント
_ manami.sh ― 2022年03月27日 10時58分38秒
後編も興味深かったです。編集者が同一人物なのか、他の2人についても情報がないか調べてみたいと思います。休日にしか、じっくり調べる時間はとれないので、報告は先になりますが。
_ 玉青 ― 2022年03月28日 21時17分47秒
何分よろしくお願いいたします。
戦前から伸びている糸が戦後につながれば、盛中天文同好会のことも、賢治のこともいっそう身近に感じられる気がします。
戦前から伸びている糸が戦後につながれば、盛中天文同好会のことも、賢治のこともいっそう身近に感じられる気がします。
_ S.U ― 2022年03月29日 10時14分40秒
>現代の我々には、暗い空も、想像力も不足しているから・・・でも全く的外れかといえば、そうでもない気がします。
最近は「電視観望」(「電子観望」とも)というのが、市街地の近くでの観望会では主流になりつつあるようです。これには、おもに小口径の望遠鏡を使い(セット価格が、地方の公共天文台の予算に適合するのでしょう)、星雲など電子の蓄積を使わないと眼視ではどうにもならないのですが、これをモニタで見て初心の観望者がどういう「想像力」をかき立てられるのか、私には想像も及びません。ここ最近、時代が変わりつつあることを強く感じるだけです。
またも、繰り言の引用ですみませんが、私は上の言葉から、本田実氏が1930年頃に彗星捜索を始めた時に、「星図なるものもなにも持たず、いや星図というもののあることさえしらない田舎のひとりの少年の彗星探しへの船出であった」ことを思い出しました。
http://www8.plala.or.jp/seijin/ikoh/ikoh.html
もちろん、星図を持たずに彗星捜索を始めるのは、素人の無謀以外の何ものでもないのですが、なぜかこれを読むと本田青年の気迫に押され、何度でも胸がいっぱいになります。今や、その星図すら、電子情報中の存在となり、近い将来は、CPUのみがこれを参照するようになるのかもしれません。肉眼や双眼鏡で星空を楽しむ趣味は残るにしても、それに星図を用意する必要はないでしょう。天文の初心者が、星図を用意して中級者に進んでいくイメージは完全に壊れるのか、もう、私には、何がなにやらわからないというしかありません。
最近は「電視観望」(「電子観望」とも)というのが、市街地の近くでの観望会では主流になりつつあるようです。これには、おもに小口径の望遠鏡を使い(セット価格が、地方の公共天文台の予算に適合するのでしょう)、星雲など電子の蓄積を使わないと眼視ではどうにもならないのですが、これをモニタで見て初心の観望者がどういう「想像力」をかき立てられるのか、私には想像も及びません。ここ最近、時代が変わりつつあることを強く感じるだけです。
またも、繰り言の引用ですみませんが、私は上の言葉から、本田実氏が1930年頃に彗星捜索を始めた時に、「星図なるものもなにも持たず、いや星図というもののあることさえしらない田舎のひとりの少年の彗星探しへの船出であった」ことを思い出しました。
http://www8.plala.or.jp/seijin/ikoh/ikoh.html
もちろん、星図を持たずに彗星捜索を始めるのは、素人の無謀以外の何ものでもないのですが、なぜかこれを読むと本田青年の気迫に押され、何度でも胸がいっぱいになります。今や、その星図すら、電子情報中の存在となり、近い将来は、CPUのみがこれを参照するようになるのかもしれません。肉眼や双眼鏡で星空を楽しむ趣味は残るにしても、それに星図を用意する必要はないでしょう。天文の初心者が、星図を用意して中級者に進んでいくイメージは完全に壊れるのか、もう、私には、何がなにやらわからないというしかありません。
_ 玉青 ― 2022年03月31日 21時23分24秒
肉眼では捉えられないものを補助的手段によって可視化する…という点では、通常の望遠鏡も、電子撮像技術も変わらないので、電視観望会も「あり」なんだろうなあ…と、個人的には思います。(そのフォトンが直接星に由来するのか否かを問題にする人もいますけれど(私のことです)、この辺は多分にシンボリックな話で、万人にその考えを押し付けるのは難しいでしょう。)
その一方で、星図の将来は果たしてどうなるんでしょうね?
星図が目標天体を導入するツール以上の意味を持たない人にとっては、より便利な代替手段が現れれば、星図に固執する意味はゼロだと思うんですが、世に地図マニアがいるように、星図そのものを(それが紙であれ、ディスプレイであれ)じっと眺めて楽しむ人、つまり星図マニアもいなくならない気がします。
あと地図とのアナロジーでいえば、星図を美的観点から鑑賞する人も多分なくならないでしょう。古風な星座絵を楽しむ人はもちろんですし、20世紀のよく工夫された星図の機能美が再評価されて、デザイン史の教科書に載る…なんてことも、今後はあるかもしれません。
さらに、(今もそうかもしれませんが)今後、星見の立ち位置が、釣りとかバードウォッチングのように、よりスポーツ色を強めていくならば、ビギナーのトレーニングの一環として、星図を学ぶことが今よりもむしろ推奨され、強化されていく可能性がある気もしています。そこに「教育的配慮」が働くと、手間のかかることをわざわざやることに意味があるんだ…というストイシズムが働きやすいし、学習する側も、一般の人にできないことができるようになることに快感と優越感が伴いがちなので、勢いそうなるでしょう。
そんな何だかんだで、漠然とした想像ですが、星図は結構しぶとく存続する気がします。
その一方で、星図の将来は果たしてどうなるんでしょうね?
星図が目標天体を導入するツール以上の意味を持たない人にとっては、より便利な代替手段が現れれば、星図に固執する意味はゼロだと思うんですが、世に地図マニアがいるように、星図そのものを(それが紙であれ、ディスプレイであれ)じっと眺めて楽しむ人、つまり星図マニアもいなくならない気がします。
あと地図とのアナロジーでいえば、星図を美的観点から鑑賞する人も多分なくならないでしょう。古風な星座絵を楽しむ人はもちろんですし、20世紀のよく工夫された星図の機能美が再評価されて、デザイン史の教科書に載る…なんてことも、今後はあるかもしれません。
さらに、(今もそうかもしれませんが)今後、星見の立ち位置が、釣りとかバードウォッチングのように、よりスポーツ色を強めていくならば、ビギナーのトレーニングの一環として、星図を学ぶことが今よりもむしろ推奨され、強化されていく可能性がある気もしています。そこに「教育的配慮」が働くと、手間のかかることをわざわざやることに意味があるんだ…というストイシズムが働きやすいし、学習する側も、一般の人にできないことができるようになることに快感と優越感が伴いがちなので、勢いそうなるでしょう。
そんな何だかんだで、漠然とした想像ですが、星図は結構しぶとく存続する気がします。
_ S.U ― 2022年04月01日 12時13分35秒
>フォトン
おっしゃるとおり、電磁波という波動であるフォトンがエネルギー量子という粒の状態に変化する機会は、元の発光源から輻射が起こって以後、ただ一度しか起こりえない、光量子理論から原理的に「一期一会」の貴重な機会ですので、私も玉青さんのご意見に全面的に賛同します。
レンズを使っても最後は網膜で受けるのと、電子デバイスを使うのとでは、喩えれば、モスクワからのラジオ電波を自分で受信してロシア語をじかに聴くのと、人に聴いて翻訳してもらって日本語で伝聞するくらいの違いがあると思いますが、このヘタな喩えと同様、万人にその考えを押し付けることはできないでしょう。
>星図の将来
問題点を整理していただきありがとうございます。「何がなにやらわからない」状態は脱せたように思います。
天文の初心者が、中級アマチュアとして進むため必然的に星図を用意するというステップは失われる可能性が高いと思いますが、PCで動く「天文シミュレーション」ソフトは、PCがある限り残るはずで、そこには星図の表示・印刷機能が必ずついているはずですね。結果を言ってしまえば、ここには必ず残ると思います。また、それを、天文学者になる勉強、教育のため、あるいは、星野写真を撮るため、自分の趣味のために参照する人は残るでしょう。また、玉青さんは、現在の人気のPCソフト「ステラナビゲータ」や「Cartes du Ciel」などの星図表示を、芸術文化的に、どのように評価されますでしょうか。
問題は、やはり、その「星図モード」をどれだけの人が参照するかということだと思います。天文は、現代技術による省力化、ストイシズム的愛好者の高齢化(私のことです)がすでに進んでいますので、それらの観点を志向する人がどれほどいるか、ここの予想は難しいように思います。
おっしゃるとおり、電磁波という波動であるフォトンがエネルギー量子という粒の状態に変化する機会は、元の発光源から輻射が起こって以後、ただ一度しか起こりえない、光量子理論から原理的に「一期一会」の貴重な機会ですので、私も玉青さんのご意見に全面的に賛同します。
レンズを使っても最後は網膜で受けるのと、電子デバイスを使うのとでは、喩えれば、モスクワからのラジオ電波を自分で受信してロシア語をじかに聴くのと、人に聴いて翻訳してもらって日本語で伝聞するくらいの違いがあると思いますが、このヘタな喩えと同様、万人にその考えを押し付けることはできないでしょう。
>星図の将来
問題点を整理していただきありがとうございます。「何がなにやらわからない」状態は脱せたように思います。
天文の初心者が、中級アマチュアとして進むため必然的に星図を用意するというステップは失われる可能性が高いと思いますが、PCで動く「天文シミュレーション」ソフトは、PCがある限り残るはずで、そこには星図の表示・印刷機能が必ずついているはずですね。結果を言ってしまえば、ここには必ず残ると思います。また、それを、天文学者になる勉強、教育のため、あるいは、星野写真を撮るため、自分の趣味のために参照する人は残るでしょう。また、玉青さんは、現在の人気のPCソフト「ステラナビゲータ」や「Cartes du Ciel」などの星図表示を、芸術文化的に、どのように評価されますでしょうか。
問題は、やはり、その「星図モード」をどれだけの人が参照するかということだと思います。天文は、現代技術による省力化、ストイシズム的愛好者の高齢化(私のことです)がすでに進んでいますので、それらの観点を志向する人がどれほどいるか、ここの予想は難しいように思います。
_ manami.sh ― 2022年04月03日 12時44分04秒
大川将氏等について、少し時間ができたので調べました。
①大川将(おおかわ すすむ)氏について
研究者の大川将については、「岩手年鑑1980年版」から前岩手大学工学部教授、大正3年生まれ、旅順工科大学卒がわかりました。また、「アストロノミー」の編集人の大川将については(盛岡中学校)「校友会雑誌」45号(1931年)から昭和6年3月卒業し旅順工科大学豫科に進学したことがわかりました。そして、「旅順工科大学一覧」 昭和8年度~昭和12年度版から大川将氏が旅順工科大学豫科に入学し旅順工科大学を卒業したことも確認できました。出身が岩手であることも記されています。大川将氏は後の岩手大学工学部教授の大川将氏です。
②堀内政吉氏について
「校友会雑誌」45号から昭和6年4月に東京文理科大学第二部に進学したことがわかりました。堀内政吉氏は大川将氏よりも年上と思われます。「校友会雑誌」47号(1933年)に東京での生活を伝える一文を寄稿しており、東京師範学校に在学していることがわかります。
③星野先生について
星野満廣氏で「地理、作業」を担当していました。出身は愛媛県です。「校友会雑誌」51号(1937年)の天文同好会の部報に「創設以来10年間、天文のよき理解者として熱烈に指導を続けて下さった会長星野先生が、遙か四国西條中学へ御転任~」とあります。天文同好会の創設は1926or1927年頃になります。
④盛岡中学校天文同好会について
「校友会雑誌」には天文同好会の部報が載せられていました。活動報告です。昭和7年度の報告から同好会には40mm、盛岡中学校には2吋鏡があったことがわかります。(詳細不明)「アストロノミー」は同会の研究誌で昭和5年以来3冊くらいで廃刊になったが、この時期、再刊を計画していたようです。射場リストは屈折は4吋以上、反射は6吋以上が掲載対象なので、盛岡中学校の2吋は対象外です。部報からは、研究会、観測会、昼休みの黒点観測を行っていたこともわかります。
今回の報告は以上ですが、盛岡中学校天文同好会については、まだ掘り下げられると思います。「アストロノミー」は研究会のテキストも兼ねているようです。研究会開催時にはその都度、テキストを印刷して配布していたようですし。盛岡中央測候所や水沢緯度観測所に見学にも行っています。私自身が楽しみましたと言ってもいいくらいでした。
①大川将(おおかわ すすむ)氏について
研究者の大川将については、「岩手年鑑1980年版」から前岩手大学工学部教授、大正3年生まれ、旅順工科大学卒がわかりました。また、「アストロノミー」の編集人の大川将については(盛岡中学校)「校友会雑誌」45号(1931年)から昭和6年3月卒業し旅順工科大学豫科に進学したことがわかりました。そして、「旅順工科大学一覧」 昭和8年度~昭和12年度版から大川将氏が旅順工科大学豫科に入学し旅順工科大学を卒業したことも確認できました。出身が岩手であることも記されています。大川将氏は後の岩手大学工学部教授の大川将氏です。
②堀内政吉氏について
「校友会雑誌」45号から昭和6年4月に東京文理科大学第二部に進学したことがわかりました。堀内政吉氏は大川将氏よりも年上と思われます。「校友会雑誌」47号(1933年)に東京での生活を伝える一文を寄稿しており、東京師範学校に在学していることがわかります。
③星野先生について
星野満廣氏で「地理、作業」を担当していました。出身は愛媛県です。「校友会雑誌」51号(1937年)の天文同好会の部報に「創設以来10年間、天文のよき理解者として熱烈に指導を続けて下さった会長星野先生が、遙か四国西條中学へ御転任~」とあります。天文同好会の創設は1926or1927年頃になります。
④盛岡中学校天文同好会について
「校友会雑誌」には天文同好会の部報が載せられていました。活動報告です。昭和7年度の報告から同好会には40mm、盛岡中学校には2吋鏡があったことがわかります。(詳細不明)「アストロノミー」は同会の研究誌で昭和5年以来3冊くらいで廃刊になったが、この時期、再刊を計画していたようです。射場リストは屈折は4吋以上、反射は6吋以上が掲載対象なので、盛岡中学校の2吋は対象外です。部報からは、研究会、観測会、昼休みの黒点観測を行っていたこともわかります。
今回の報告は以上ですが、盛岡中学校天文同好会については、まだ掘り下げられると思います。「アストロノミー」は研究会のテキストも兼ねているようです。研究会開催時にはその都度、テキストを印刷して配布していたようですし。盛岡中央測候所や水沢緯度観測所に見学にも行っています。私自身が楽しみましたと言ってもいいくらいでした。
_ 玉青 ― 2022年04月03日 18時28分29秒
○S.Uさま
>一期一会
星は常に変わらぬようでいて、今宵今夜の星との出会いはまさに一期一会ですね。
光の立場からしても、私という人間と交互作用をする機会は、その生涯においてただ一度きりだと聞けば、その出会いをおろそかにできない気がします。
>PCソフト…の星図表示
そのデザインには、もちろん芸術・文化的な物差しで評価しうる部分があるはずですが、同時代人にはなかなか難しい作業でもありますね。「時代様式」というのは、同時代人にとっては「図」に対する「地」のようなもので、意識しづらいことが多いですから(でも、美術史で問題になるのはむしろ後者だったりします)。
では将来の人の目から見たら?まあ将来の人と言っても、100年後の人と1000年後の人ではまた違うんでしょうけれど、そこに真率さがあれば、どのような形であれ、必ずやプラスに評価してくれるんじゃないでしょうか。
○manami.shさま
いやあ、興奮しました。一冊の同好会誌から、ここまで詳細に人々の動向が分かるとは!!ご教示本当にありがとうございました。
星野先生との出会いと別れのシーンとか、大川教授の心の裡に折に触れて去来したであろう若き日の思い出とか、いろいろ想像しては感慨を新たにしています。そして、そのすべてが盛岡の風土の中で営まれたドラマだという点が、また素敵です。
なお、記事では勇み足気味に、同校に望遠鏡はないと断じてしまいましたが、ちゃんとあったんですね。きっと皆熱心にのぞき込み、その柔軟な心で宇宙の姿を受け止めたことでしょうね。
ときに、2インチ反射望遠鏡とはまた随分かわいらしいサイズですが、パッと思い出したのは、「子供の科学」誌が通販で扱っていた下記の望遠鏡です。
http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/01/19/4824123
掲載したのは「子供の科学」昭和9年(1934)9月号の広告ですが、故中村要(1904-1932)の設計を謳っていますから、その生前に製品化されていたら、話の辻褄は合うかなと思いました。
>一期一会
星は常に変わらぬようでいて、今宵今夜の星との出会いはまさに一期一会ですね。
光の立場からしても、私という人間と交互作用をする機会は、その生涯においてただ一度きりだと聞けば、その出会いをおろそかにできない気がします。
>PCソフト…の星図表示
そのデザインには、もちろん芸術・文化的な物差しで評価しうる部分があるはずですが、同時代人にはなかなか難しい作業でもありますね。「時代様式」というのは、同時代人にとっては「図」に対する「地」のようなもので、意識しづらいことが多いですから(でも、美術史で問題になるのはむしろ後者だったりします)。
では将来の人の目から見たら?まあ将来の人と言っても、100年後の人と1000年後の人ではまた違うんでしょうけれど、そこに真率さがあれば、どのような形であれ、必ずやプラスに評価してくれるんじゃないでしょうか。
○manami.shさま
いやあ、興奮しました。一冊の同好会誌から、ここまで詳細に人々の動向が分かるとは!!ご教示本当にありがとうございました。
星野先生との出会いと別れのシーンとか、大川教授の心の裡に折に触れて去来したであろう若き日の思い出とか、いろいろ想像しては感慨を新たにしています。そして、そのすべてが盛岡の風土の中で営まれたドラマだという点が、また素敵です。
なお、記事では勇み足気味に、同校に望遠鏡はないと断じてしまいましたが、ちゃんとあったんですね。きっと皆熱心にのぞき込み、その柔軟な心で宇宙の姿を受け止めたことでしょうね。
ときに、2インチ反射望遠鏡とはまた随分かわいらしいサイズですが、パッと思い出したのは、「子供の科学」誌が通販で扱っていた下記の望遠鏡です。
http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/01/19/4824123
掲載したのは「子供の科学」昭和9年(1934)9月号の広告ですが、故中村要(1904-1932)の設計を謳っていますから、その生前に製品化されていたら、話の辻褄は合うかなと思いました。
_ manami.sh ― 2022年04月10日 13時32分29秒
盛岡中学校天文同好会について追記です。
「校友会雑誌」第42号~53号(1928~1939)を通覧し終えましたので、まずはこれにて一段落をつけたいと思います。
①「校友会雑誌」42号1928年12月から
「花が植物学者の専有でない如く、星も亦、天文学者のみの独占物ではない。この信念を以て、我等は、遂に天文同好會をつくりあげたのだ。田向、小山両先生を指導者とし、上原、藤田、鈴木、吉田の四先生を賛助員に仰ぎ発會式をあげたのは九月七日だった。」
②「校友会雑誌」43号1929年12月から
会員が百名に達しており、観測会は15回、太陽黒点観測は1929年10月から開始したこと。会員の中には望遠鏡所有者がいたこと、熱心な会員は変光星観測を始めたことがわかりました。更に、研究会の毎月のテキストは、星野先生、2~3人の上級生が執筆していたとありました。
③望遠鏡は會が所有する四十一粍屈折望遠鏡は1929年10月の購入、学校所有の二吋は屈折望遠鏡で、ハーシェル・ニュートンではありませんでした。
④1930年10月には、水沢緯度観測所の山崎正光技師が「天文に関して」と題して講演し、特に同好會員には反射望遠鏡の作り方について話されていることもわかりました。
「校友会雑誌」第42号~53号(1928~1939)を通覧し終えましたので、まずはこれにて一段落をつけたいと思います。
①「校友会雑誌」42号1928年12月から
「花が植物学者の専有でない如く、星も亦、天文学者のみの独占物ではない。この信念を以て、我等は、遂に天文同好會をつくりあげたのだ。田向、小山両先生を指導者とし、上原、藤田、鈴木、吉田の四先生を賛助員に仰ぎ発會式をあげたのは九月七日だった。」
②「校友会雑誌」43号1929年12月から
会員が百名に達しており、観測会は15回、太陽黒点観測は1929年10月から開始したこと。会員の中には望遠鏡所有者がいたこと、熱心な会員は変光星観測を始めたことがわかりました。更に、研究会の毎月のテキストは、星野先生、2~3人の上級生が執筆していたとありました。
③望遠鏡は會が所有する四十一粍屈折望遠鏡は1929年10月の購入、学校所有の二吋は屈折望遠鏡で、ハーシェル・ニュートンではありませんでした。
④1930年10月には、水沢緯度観測所の山崎正光技師が「天文に関して」と題して講演し、特に同好會員には反射望遠鏡の作り方について話されていることもわかりました。
_ 玉青 ― 2022年04月11日 07時28分07秒
これまた驚きの続報をありがとうございます。驚きついでに、尻馬に乗って記事を書かせていただきました。
ときに「2インチ鏡」の表記から、咄嗟に反射望遠鏡を思い浮かべましたが、確かにレンズでも「鏡」の字は使いますから(そもそもが屈折望遠「鏡」ですものね)、これは早とちりでした。
ときに「2インチ鏡」の表記から、咄嗟に反射望遠鏡を思い浮かべましたが、確かにレンズでも「鏡」の字は使いますから(そもそもが屈折望遠「鏡」ですものね)、これは早とちりでした。
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