本日、天体議会を招集。2022年04月11日 07時19分11秒

先日話題にした旧制盛岡中学校の天文同好会。
コメント欄でmanami.shさんから続報をいただき、衝撃を受けたので、他人の褌を借りる形になりますが、これはどうしても記事にしなければなりません。

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manami.shさんは、同中学校の校友会雑誌を通読され、天文同好会に関する記述を抜粋されているのですが、まず驚いたのはその旗揚げの弁です。同好会のスタートは1928年9月のことで、その際の意気込みがこう記されています。

 「花が植物学者の専有でない如く、星も亦、天文学者のみの独占物ではない。この信念を以て、我等は、遂に天文同好會をつくりあげたのだ。」

なんと頼もしいセリフでしょう。
そして、この言葉に敏感に反応する方も少なくないはずです。なぜなら、稲垣足穂の言葉として有名な、「花を愛するのに植物学は不要である。昆虫に対してもその通り。天体にあってはいっそうその通りでなかろうか?」をただちに連想させるからです。

足穂の言葉は、彼の「横寺日記」に出てきます。初出は「作家」1955年10月号。もっとも作品の内容は、昭和19年(1944)の東京における自身の体験ですが、それにしたって、盛中の天文少年たちの方が、時代的にはるかに先行しており、足穂のお株を完全に奪う形です。

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こうして意気揚々とスタートした天文同好会ですが、それでも私はごく一部の熱心な生徒が、細々と校舎のすみで活動しているイメージを持っていました。いかに意気軒高でも、今だってそれほどメジャーとはいえない学校天文部が、戦前にあってそれほど人気を博したとは思えなかったからです。

しかし、同好会が発足して1年後の1929年12月の校友会雑誌には、驚くべき事実が記されていました。manami.shさんの記述をそのままお借りします。

 「会員が百名に達しており、観測会は15回、太陽黒点観測は1929年10月から開始したこと。会員の中には望遠鏡所有者がいたこと、熱心な会員は変光星観測を始めたことがわかりました。更に、研究会の毎月のテキストは、星野先生、2~3人の上級生が執筆していたとありました。」

何と会員数100名!しかも、当時はなはだ高価だった望遠鏡を所有する生徒や、変光星観測に入れ込むマニアックな生徒もいたというのです。そして開催回数からして、彼らは月例の観測会をコンスタントに開いていたと思われます。

まさにリアル天体議会―。

「天体議会」とは、長野まゆみさんの同名小説(1991)に出てくる、天文好きの少年たちの非公式クラブの名称です。観測の際は、議長役の少年が秘密裏に議会を招集し…という建前ですが、有名な天体ショーを観測する折には、部外者の少年たちもたくさん押しかけて、なかなかにぎやかな活動を展開しているのでした。
長野さんが純然たるフィクションとして描いた世界が、戦前の盛岡には確かにあったわけです。


それにしても、旧制中学校でこれほど天文趣味が盛り上がっていたとは。しかし、全国津々浦々で同様の状況だったとは思えないので、これはやっぱり盛岡中学校固有のファクターがあったのでしょう。賢治の甥っ子たちの面目躍如といったところです。

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さらに翌年の1930年には、次の記述が登場します。

 「1930年10月には、水沢緯度観測所の山崎正光技師が「天文に関して」と題して講演し、特に同好會員には反射望遠鏡の作り方について話されていることもわかりました。」

山崎正光(1886-1959)は、カリフォルニア大学で天文学を学び、1923年から42年まで水沢緯度観測所に勤務したプロの学者ですが、本業の傍ら変光星観測や彗星観測を、いわば趣味で行った人。反射望遠鏡の自作法を日本に伝えた最初の人でもあります。そして、直接面識があったかどうかは分かりませんが、山崎氏の在職中に、賢治は何度か水沢緯度観測所を訪ねています。

その人を招いて天文講演会を開き、かつ望遠鏡作りを学んだというところに、盛中天文同好会の本気具合というか、その活動の幅を見て取ることができます。

(山崎正光氏(1954)。『改訂版 日本アマチュア天文史』p.167より)

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とにかく盛中天文同好会、予想以上にすごい会でした。
今回の知見は、戦前の天文趣味のあり方について、私の認識を大きく変えるもので、改めてmanami.shさんにお礼を申し上げます。

(賢治が在籍した頃の盛岡中学校。国会図書館「写真の中の明治・大正/啄木・賢治の青春 盛岡中学校」より【LINK】。オリジナルをAIで自動着色。なお、同校は大正6年(1917)に校地移転しているので、天文同好会時代の建物はまた別です)