七夕雑感2022年07月03日 15時33分25秒

ここしばらくは狂気を発するぐらい暑い日が続き、ものを考えることも難しかったですが、今日は久しぶりの雨で、少し過ごしやすくなりました。

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7月になったので、七夕の話題です。
七夕というと、「笹の葉 さーらさら」の歌が口をついて出ますが、ネットで検索すればすぐ分かるように、あれは「たなばたさま」というタイトルの曲で、昭和16年(1941)に文部省が発行した「うたのほん 下」が初出だそうです。いわゆる文部省唱歌ですね。

(「うたのほん 下」に掲載の「たなばたさま」。国会図書館デジタルコレクションより。

今ではあの歌のない七夕は考えられませんが、考えてみると、江戸時代はもちろん、明治や大正時代の子供も、昭和戦前の子供だって、「笹の葉さーらさら」と歌わずに、七夕の夜を過ごしていたわけで、なんだか不思議な気がします。まあそれを言えば、昔のひな祭りに「あかりをつけましょ ぼんぼりに」の歌は流れていなかったし(初出は昭和11年/1936)、正月を前に「もういーくつ寝ると」と歌うこともありませんでした(同 明治34年/1901)。

でも、「あの歌が流れないなんて、昔の年中行事はさぞさみしかったろうなあ…」と思うのは、後世の人間の錯覚で、事態はたぶん逆でしょう。「たなばたさま」の歌は、地方的差異の大きかった民俗行事に公教育が介入・介在することで、その均質化が進んだ――言い換えれば貧弱になった――例のひとつだと思います。(あの歌自体は嫌いじゃありませんが、「笹の葉と短冊」だけに光を当てて、他の七夕習俗の要素、たとえば梶の葉とか、縫織の技とか、管弦とか、農作物のお供えとかを捨象したことは、やっぱり貧弱化につながったと思います。)

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上で公教育の介入による行事の変質ということを言いましたが、私が以前から疑問に思っていることのひとつに、「七夕で短冊に願い事を書く風習はいつ始まったのか?」というのがあります。

もちろん、昔の人も七夕の宵は星に願いを託しました。
しかし、戦前まで短冊に書きつける文句といえば「天の川」と「七夕」の2つがポピュラーで、それに加えて古歌や古詩、あるいは自作の和歌を書いて、それによって歌道や書道の上達を願うという形が本来だったはずです。そのことは江戸期の風俗画でも確認できます。

今や全国津々浦々で、笹竹に子どもたちの、それこそありとあらゆる願い事が翻っていますが、あれは多分そんなに古いことではなくて、戦後になって保育園や幼稚園、小学校で始まったことだと睨んでいます。(さらにさかのぼると、大正自由教育の流れの中で、一部の進歩的な学校や園では、すでにそういう試みがあったのではないか…とも想像しています。)


そもそも「お祖母さんの病気が治りますように」とか、「世界平和」とかをお願いされても、織姫や彦星にそれを叶える力があるとは思えません。

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ただし、この辺はよくよく注意を要することで、七夕に短冊をぶら下げて、「字が上手になりますように…」と願うのは、元をたどれば奈良・平安まで遡るのかもしれませんが、それが浮世絵の題材になるぐらいポピュラーになったのは、江戸時代の寺子屋で年中行事として行われるようになって以降のことらしく、何でも「昔」とひとくくりにして言うのも危険です。

(「風俗画報」明治31年(1898)7月10日号より、富田秋香画「寺子屋七夕祭之図」。明治になってからの江戸回顧図と思います。)

七夕が教育的な配慮のもと、子供の行事化したという点で、江戸の昔と令和の今には共通する部分があり、民俗を考える際は、このように変化する要素と連続する要素を常に考えておかなければいけない…とか、素人の私が言っても何の説得力もありませんが、そういう気がします。(では、近世以降と近世以前を対比させるとどうか?といっても、江戸時代以前の民間の七夕習俗は、資料もありませんし、まったく不明というほかないんですが、農村の七夕習俗には、古風な要素が一部痕跡として残っていたと思います。)

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なんだか話を大きくし過ぎて、まとまりませんが、七夕という行事も振り返ればいろいろ陰影に富んでていて、今の七夕のありようをもって、過去を推し測ることは到底できない…ということが言いたかったのでした。(なお、上では触れませんでしたが、今の七夕に影響したものとしては、公教育以外にも、<日本三大七夕>のような「観光七夕」「商業七夕」の成立と発展も大きいです。)