七夕短冊考(その3)2022年07月13日 07時09分06秒

平成15年(2003)に安城市歴史博物館が発行した、以下の図録を手にしました。


■特別展 安城七夕まつり第50回記念
 「日本の三大七夕 ― 七夕「額」飾りの世界」
 編集・発行 安城市歴史博物館

日本三大七夕というのは、仙台七夕が筆頭で、二番目が神奈川県平塚市の七夕。ここまでは異論のないところですが、三番目の席をめぐって、愛知県の一宮市と安城市が争う状況がずっと続いています。これはその安城側からのプロパガンダの一環として企画された――と私は睨んでいますが――特別展の展示図録です。

副題にある「額」飾りというのは、安城周辺でかつて見られた七夕風俗で、七夕に合わせて芝居の舞台のミニチュアというか、ジオラマをこしらえて飾る風習を指します。よその地方だと「立版古」とか「組上げ灯籠」とか呼ばれる細工物に相当します。基本的には子供行事ですが、家ごとの、あるいは地域間の対抗意識もあり、大人たちも熱心に手伝って、戦前はなかなか賑やかなものだったそうです。

(七夕の「額」飾りの例。昭和6年(1931)撮影。上掲図録掲載の写真を一部トリミング)

その思い出を古老にインタビューした内容が、この図録に収められていて、昔の七夕を知る貴重な資料になっています。「額」については、また別の機会に譲るとして、ここでは短冊について述べた部分を一部引用させていただきます。いずれも話者の生年から、昭和ヒトケタ、おそらく1930~35年頃の思い出と思います。

■鈴木和雄氏(大正10年(1921)生まれ)の話

 「また、竹を竹藪から切ってきて短冊をつけ、竹飾り(笹飾り)を作ります。竹はできるだけ大きな、3階まで届きそうな高さが5mはあるくらいのものを選びます。短冊は100枚が1シメになっているものを2~3シメ買ってきて、これに何かを書きます。一番多かったのは「七夕まつり」で、他に「お飾り」(お供えもの)の「すいか」「なす」「うり」とか、その絵を加えたりしていました。でも、当時は今と違って、「勉強がよくできますように」とはあまり書きませんでした。「裁縫が上手になりますように」くらいは女の子が書いたかもしれませんが、願い事を書くということがほとんどなかったような気がします。」(図録p.38)

■石原光郎氏(大正11年(1922)生まれ)の話

 「また、短冊をつるした笹飾りは、各組ごとに2本ずつ用意します。短冊には、皆で分担して「七夕まつり」とか、「算数がよくできますように」「妹の病気がよくなりますように」といった願い事を書き、これをシュロの葉を裂いたもので竹にしばりつけました。」(図録p.42)

■鈴木清市氏(大正11年(1922)生まれ)、沢田坂男氏(同)、磯村守氏(大正12年(1923)生まれ)、鈴木正明氏(大正14年(1925)生まれ)の共同座談

 「下級生は短冊に字を書いて笹飾りを作ります。購入してきた短冊に、上級生から「お前は20枚書いて来い」とか、低学年の子は「5枚書いて来い」とかいわれて、家で字を書いてくるのです。当時は願い事を書くとそれがかなうといことはなく、「天の川」が最も多く、他には「七夕」とかがありました。これを、近くの竹藪から切ってきた大きな2本の孟宗竹に、シュロの葉を裂いたもので結わえていきました。こうした作業は女の子も一緒に行い、総勢で40人程度だったと思います。」(図録p.45)

■古橋知次氏(大正12年(1923)生まれ)の話

 「笹飾りの短冊は、今では願い事を書くということになっていますが、当時は「お星さま」や「天の川」など、その程度のことしか書かなかったような気がします。」(図録p.50)

この中では2番目の石原氏の証言が異質で、当時すでに「「算数がよくできますように」「妹の病気がよくなりますように」といった願い事を書」いたと証言されています。ただ、他の方はみな口をそろえて「当時は今と違って、願い事を書くことはなかった」と述べているので、この辺は後の経験による記憶の変容の可能性も考慮すべきでしょう。

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これは愛知県安城市というピンポイントな事例に過ぎませんが、戦前は短冊に願い事を書く習慣がほとんどなかったか、たとえあったとしても、ごく一部で行われたに過ぎない…という推測を裏付ける材料と思います。

と同時に、前回、前々回採り上げた「書・歌道的短冊」ともまたちょっと違う、素朴な短冊が子どもの世界にはあったことも分かります。少なくとも安城の少年少女は、和歌や俳句を短冊に書くことはありませんでした。そして、こうした子供文化の存在が、その後の「紙絵馬的短冊」が流布する土壌ともなったのではないかと思います。

子どもにとって、願い事をするのは古歌を書くよりもはるかにハードルが低く、しかも楽しいことに違いありません。そして何枚も、ときに何十枚も「七夕」や「天の川」と書かされるよりも、子どもなりに「意味」を感じ取れる作業だったでしょう。そういう状況で、大人がちょっとした示唆を与えれば、子どもたちがいっせいに「紙絵馬的短冊」に移行することも、自然な流れと思えるからです。

(この項まだ続く)