七夕短冊考(その5) ― 2022年07月19日 20時47分54秒
私が何となく思い描いた「七夕の短冊問題」の見取図は、以下のようなものでした。
「今のように、願い事で百花繚乱の「紙絵馬的短冊」が登場したのは戦後になってからで、それはおそらく幼児保育や小学校教育の中で生まれ、かつ普及したのだろう。それに対して、戦前の短冊は「天の川」や「七夕」などごく少数の定型表現と、昔の詩歌を写した「書・歌道的短冊」に限られていた。」
これまで見てきたように、この推測は“大外れ”はしてないと思うんですが、では何をそんなに手こずっているかといえば、戦後における「紙絵馬的短冊」の誕生の時期をいまだに特定できないことがひとつ、それともうひとつは、本当に昔(戦前)は紙絵馬的短冊がなかったのか?と問われると、ちょっと自信がないことがあります。
何しろ七夕習俗というのは、時代により所によりさまざまな形をとったので、冒頭のように単純化してものを言うと、必ず例外(反例)が生じて、話が複雑になります。
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まず、2番目の手こずりの原因を先に考えてみます。
すなわち、昔は紙絵馬的短冊はなかったのか?という点について。
先日の愛知県安城市の古老たちは、「確かになかった」と証言していました。
それでも探してみると、すぐ次のような例が見つかります。
話者の今泉みね(1855-1937)は、蘭方医・桂川甫周の二女として江戸に生まれた女性です。彼女が晩年の昭和10年(1935)に、幕末から明治初年にかけての思い出を息子に語って聞かせた口述筆記が『名ごりの夢』で、その後、平凡社東洋文庫の1冊に収められ、今は平凡社ライブラリーにも入っています。
その彼女が語る七夕の思い出にこうあります(太字は引用者)。
「七月ときいて忘れられないのはやっぱり七夕でございます。今は子ども達の雑誌の口絵で見るくらいのものですけれど、あのころの七夕様と申しましたらずいぶん戸ごとに盛大だったようでございます。誰も誰もが人に知れぬ願い事が叶うという信仰を持っていたしましたのですから、考えると無邪気で可愛らしいくらい。欲張りはいずれ着物が欲しいとか帯が欲しいとか、あるいはまたどこそこへ縁づきたいなどという一筋の思いを書いたものもあったでしょう。書いてぶら下げて行き方も分からないようになったら願いは叶うと真正直に思い込んでいました。
〔…〕なんでも一と月ぐらい前からその心掛けで支度していました。一年がかりの願い事ででもあったのかもしれませんが、一生懸命書いて笹にぶらさげます。
〔…〕さげるものは、色紙とか短冊とかそれに絵の入ったものなどもあって、〔…〕そして文言はただの言葉もありましたし、風流に三十一文字(みそひともじ)にするのもありますので、この七夕がゆくりなくも歌のけいこにもなり、この機会にたちのよい歌が詠めるようになるものさえございました。」(東洋文庫版pp.154-155)
こうはっきり述べている以上、少なくとも江戸の人は、短冊に願い事を書いたと考えざるを得ません。
そもそも、七夕様と願い事は昔からセットになっていました。
願いをこめて七夕竹に五色の糸をかける「願いの糸」というのは、俳句の季語にもなっていて、江戸中期の服部嵐雪や、与謝蕪村も句に詠んでいますから、少なくとも都市部(江戸)ではおなじみの風俗だったことでしょう。やがてその「五色の糸」の役割が、「五色の短冊」に移ったとしても、ごく自然な流れのように思います。
(江戸の七夕の賑わい。歌川広重「名所江戸百景」より。出典:https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=5431)
ただし、江戸で盛んだった七夕祭りは、明治の末にはひどく衰えて、ほぼ伝統が絶えたらしいので(※)、江戸の習慣がそのまま引き継がれて、後の「紙絵馬的短冊」につながったとも考えにくいです。
裏返すと、明治の末から大正にかけて東京で育った人の中には、子供時代に七夕を経験していない人がいるはずで、現にそんな世代の一人、歌人の鮎貝久仁子(1906-1996)氏は、こう記しています(「甦る七夕祭(東京)」、雑誌「短歌研究」1972年7月号pp.120-123)。
「〔…〕こう大々的に七夕祭を年中行事のひとつとして、いまだに賑々しく発展している東北地方に比べて、関東地方はあまりにも心細い状態である。〔…〕まして東京では、前から東京府として、また東京都として七夕祭を行事とした記憶がないから面白い。
日本の古来からの五節句のひとつにも関わらず、力こぶの入らないのが不思議にさえ思いながらの現在である。
〔…〕東京では集合の七夕祭を盛大に行わないのは、今日だけでなく、明治の末期に女学生であった姉の話でもわかる。」
でも、その鮎貝氏にもこんな思い出がありました。
「しかし、私はもの心ついた幼稚園のころから小学校時代にかけて、この七夕祭は星を祭る美しい夢のある物語として教えられ、七夕祭を行ってきた記憶が、愉しくも懐かしくも甦ってくる。〔…〕それは母よりも、出戻りの美しい伯母の感化かもしれない。
彼女は物凄いお洒落の上に、几帳面な折目正しいことを好む女(ひと)で、五節句の行事は一手に引きうけて重んじていた。〔…〕
彼女は物凄いお洒落の上に、几帳面な折目正しいことを好む女(ひと)で、五節句の行事は一手に引きうけて重んじていた。〔…〕
七夕祭もこの調子で、伯母は竹を伐らせたのを取りよせて、それ「七夕や」そら「天の川」と書くものと促したものである。それに若し願いごとがあったなら、一年に一度のことであるから、遠慮なくそれを書くようにともいった。」
こうしたエピソードを前に、「昔は短冊に願い事を書いた」と言うべきか、「書かなかった」と言うべきか。江戸・東京というピンポイントで見てもこんな調子ですから、じゃあ京や大阪ではどうだったのか?東北では?中国・四国では?…と見ていくと、何か一般化してものを言うことが、いかに難しいかが分かります。
(成行き上、この項さらに続く)
(※)明治44年(1911)に出た『東京年中行事』(若月紫蘭著、平凡社東洋文庫所収)には、「東京では陽暦の七月七日を七夕と言っている。けれどもこの星祭は今はほとんど廃れてしまって、昔に見たような立派な光景は先ずないと言ってもいい。〔…〕七、八年前までは、方々の河岸あたりではこの七夕祭の飾りを少しは見かけたようであるが、今はほとんどこれを見ることが出来なくなったのは惜しいことである。」とあります。
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