七夕短冊考(その6)2022年07月24日 07時31分28秒

昨日は空の青が濃い日でした。
夏の日差しはあくまで強く、でも空気がカラッとして、風も吹いていたので、木陰に入ればぐっと過ごしやすく、盛んな蝉の声も耳に心地よく響きました。昨日の最高気温は32度でしたから、まあ人間的な暑さの部類といえるでしょう。そういえば、昔の夏はこんな感じではなかったか。このところ毎年異常な暑さで、夏の良さを忘れがちでしたが、こういう夏ならば、私は大いに歓迎したいです。

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さて、七夕の話題。

その後もあれこれ考えていましたが、昔の人も短冊に願い事を書いていたのは事実としても、それはどちらかといえば「孤立例」で、それが現代の七夕風景とシームレスに接続しているわけでもないので、やっぱり<昔の七夕>は多くの場合、紙絵馬的短冊とは無縁であった…と言ってしまっていいのではないでしょうか。例外が存在するからといって、通則はひっくり返らないものです。(自分でもかなりいい加減なことを書いている自覚がありますが、あまりここで足踏みしていると話が前に進まないので、強引にまとめておきます。)

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次に、戦後の七夕に及ぼした公教育(幼児教育・幼児保育も含む)の影響を考えてみます。まあ、なかなかそう都合のいい資料はないのですが、ちょっと面白いと思ったデータがあります。


今から30年近く前、1994年に出た『都市の年中行事―変容する日本人の心性』(石井研士著、春秋社)に掲載の以下の表です。

(上掲書p.20)

石井氏が当時の大学生(都内のキリスト教系の女子大学と共学の大学、および国学院大学の3年生)を対象に行ったアンケート調査の結果です。90年代当時の大学生ですから、対象となったのは今では50歳ぐらいの人たちでしょう。

いろいろな伝統行事、それと戦後の新行事をとりまぜて、「それを現在もやっている」か、「かつてはやったことがある」か、「やったことはない」か、「そもそも聞いたこともない」かを答えてもらった結果です。

これはなかなか面白い表で、いろいろなことを考えさせられます。
中でも注目すべきは七夕で、「かつてはやったことがある」と答えた学生が63.6%と突出して多くなっています。これより数字が高いのは、最初から幼児限定の「七五三」だけですから、年中行事における七夕の特異性が、この数字によく現れています。しかも「やったことはない」と答えた学生はわずかに1.3%で、これまた極端に少ないです。

要するに、七夕はほぼすべての学生が経験しており、その多くは子ども時代に限って経験していることを示すもので、その背景に、幼稚園や保育園、あるいは小学校低学年での七夕体験があるんではないかなあ…というのが、私の想像です。
(でもその一方で、35%もの学生が「今も七夕をやっている」と答えたのは不思議です。あるいは、商店街や観光地の七夕イベントに参加することを、「やっている」うちにカウントしたせいかもしれません。

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戦後の七夕隆盛の陰に公教育の存在を想定するならば、幼児教育の本を参照すれば、その辺のことはただちに分かるだろうと思いました。たとえば、「昔の七夕は封建主義の遺制であったが、今や民主と男女平等の世である。これからは男女を問わず、短冊に自由な願い事を書いて、子どもたちの個性と創造力を大いに伸ばしていこうではないか」云々…というようなことが、戦後出た本を開くと書いてあるような気がしたのです。

でも、これまたそんな都合の良い本はなくて、「うーん、これはちょっと勝手が違ったなあ…」と思いましたが、とりあえずファクトとして、昔の幼児教育書における七夕の扱いを見てみます。


(暑さに負けずこの項つづく)

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(※)石井氏の本には「現代の七夕」に直接触れている箇所もあるので、参考までに引用しておきます(上掲書pp.189-191)

 「伝統的な年中行事の変容を知りたいと思って、七月七日の七夕に銀座、新宿、池袋のデパートを合わせて九店はしごしてみた。それぞれの地域のデパートがひとまとまりになって、七夕商戦を繰り広げていたからである。ただし、「たなばた」とはいわない。銀座・有楽町が「ラブ・スターズ・デー」、新宿が「サマー・ラバーズ・デー」、そして池袋が「スター・マジック・デー」である。消費者に購買意欲を起こさせるためには、名称変更はいともたやすい。会場にはハート型の短冊などを吊るす竹や星型の籠が置かれていたが、どこも賑わうというほどではなかった。浴衣を着た受付の女性の所在なさが妙に印象に残った。今でも保育園や幼稚園に行けば、笹の葉にたくさんの短冊の下がる光景を見ることはできるし、七夕の歌も聞こえてくるかもしれない。しかしながら「大人たちの、七夕」(銀座)は、露骨に商業主義的な色彩が強い。「七夕」が「ラブ・スターズ・デー」となることで、本来の季節感は失われ、たんなるお中元商戦のひとこま、若者への販売拡大のための機会と化したように思える。」

行事も世につれ…ですね。デパートの退潮もあり、この30年間に限っても、七夕風景は常に変容しているのを感じます。

(上掲書p.190)

コメント

_ S.U ― 2022年07月24日 08時07分48秒

難しい問題ですが、大事な視点だと思います。文献に書いてなくてもそのような重層構造はあったと思います。

 年中行事のクリスマスだって、日本では、キリスト教徒の大切な行事としての他に、キリスト教と関係ない大多数の幼稚園や家庭でやっているし、それが、昭和の高度成長期には、サラリーマンの飲み会になったり、バブル期には若者がぜいたくする機会として流行りました。

 また、家庭でやる七夕にしても、女学生がやる七夕にしても、若い女性は、のちに、賢母や幼年者の教育機関の教師になる人も多いというのが潜在的前提になっていて、自分たちが楽しむ というのに、将来の子どもたちにも良い風習を残したい・・・という気持ちが隠れていたのではないかと思います。

 短冊の文面そのものについて、またご完結後に、コメントさせていただきたいと思います。

_ 玉青 ― 2022年07月25日 06時28分51秒

人間とは、時間に切れ目を入れたがるものらしいですね。年中行事もその工夫の一つで、由来とかは二の次で、とにかく時間に節目を作るために(それを至上の目的として)年中行事は営まれ続けている側面があるのかもしれません。行事の中身が変容しつつもなくならないのは、そうした理由によるところが大きいのでしょう。
今は短冊問題だけでアップアップしていますが、七夕を切り口にこれからいろいろ考えられればと思います。ゆるゆるとお付き合いください。

_ S.U ― 2022年07月25日 07時40分15秒

>時間に切れ目を入れたがる
今は、SNS情報を見ると、あちこちで毎日のように「○○フェスタ」をやっていて、コロナ禍であっても、ネットで参加できたり、グッズの買い物が出来るので、コミュニティの祭りの必要性も、そして季節性も減ってきたと思います。その中で、天体に結びついたものや、神様の誕生日等に結びついたものは日付が動かしがたい分だけは少なくともすたれにくいのだと思います。

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