遠い呼び声2022年10月24日 21時02分45秒

昨日につづいて、天文とはあまり関係のない話をします。

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2~3年前に、ある凄愴な、あるいは荒涼とした光景を見たことがあります。

私が使っているプロバイダー(ASAHIネット)は、ブログサービスだけでなく、以前「電子フォーラム」というサービスを提供していました。電子フォーラムというのは、ASAHIネットの会員だけが書き込める専用の掲示板です。SFとか、俳句とか、お絵描きとか、そこにはいろいろなテーマの板があり、モデレーター(管理人)を中心に、同じ趣味の人がネット上で交流を楽しむという体のもので、今から思えば非常に素朴なメディアでしたが、当時は「ネットで交流する」こと自体が、多くの人にとって新鮮な経験でしたから、一時はなかなか盛況だったのです。時代でいえば、およそ90年代いっぱいから、せいぜいゼロ年代初頭までのことです。

ASAHIネットは非常にマイナーなプロバイダーですから、管理も十分行き届いてないところがあって、そのため、電子フォーラムの存在が人々の意識から消え去った後も、過去の書き込みが消されることなく、そっくりそのまま残されていました(最終的に閉鎖されたのは、ごく最近のことです)。

偉そうに書いたわりに、私自身は電子フォーラムを使った経験はないのですが、2~3年前、ふとした好奇心から、電子フォーラムをのぞき見したことがあります。そして、20年以上昔の人々の書き込みを眺めては、あれこれ感慨にふけったのでした。

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そのとき、ふと気がついたのです。
1人の高齢者が、亡霊のようにさまざまな板で書き込みを続けていたことに。
それはイタズラでもなんでもなく、ときに体調の不良を嘆きながら、ときに政治への不満をもらしつつ、誰かほかに書き込む仲間はいないか、必死に友を求め続ける声でした。

もちろん私は疑問に思いました。なぜ彼はツイッターでも始めて、新たな交流を求めないのか? 「でも…」とすぐに思い直しました。彼にとって、電子フォーラムはかけがえのない場であり、きっと最後の一人になっても、その活動の火を消したくないのだろうと。

その光景は、私にたむらしげるさんの作品「夢の岸辺」(初出1983)を思い起こさせました。



これは多義的な作品です。植物状態に陥った人の「脳内人格」の懊悩のようでもあり、「死せる宇宙」に残された最後の人間が、外宇宙との交流を必死に求めているようでもあります。いずれにしても、そこにあるのは絶対的な孤独です。

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昨日の記事を書いてから、心が少し感じやすくなっているのか、ゆくりなく上のことを思い出しました。そして電子フォーラムばかりでなく、この「天文古玩」も、今や同じ道をたどっていることを強く意識します。

ここは確かにネット上にオープンな形で存在しますけれど、2022年現在、ここは幹線道路や主要駅から隔絶した、「ぽつんと一軒家」状態で、訪れる人もまれです(今、この文字を読んでいる方はとてもご奇特な方です)。

このブログは、主に備忘とデータ集積のために続けているようなものですが、交流の目的が皆無というわけではありません。趣味の上で、同好の士と語らうというのは、心のなごむ経験ですから、ぜひそうしたいとは思います。でも、時代に適合しないものはどうしようもありません。


「こちらLesabendio、こちらLesabendio」


【おまけ】
ついさっき知った事実。たむらしげるさんが使った「Lesabendio」というのは、世紀末ドイツで活躍した奇想の文学者、パウル・シェーアバルト(Paul Karl Wilhelm Scheerbart、1863-1915)の作品、『LESABÉNDIO』に由来する言葉のようです。『LESABÉNDIO』は、小惑星パラスを舞台にしたSFチックな一種の寓話で、タイトルは作中に登場する人物名から採られています。

(シェーアバルト『星界小品集』、工作舎、1986)

【おまけのおまけ】
上に書いたことは、例によってネットで知りました。
「レザベンディオ」は、写真に写っている工作舎の『星界小品集』には、残念ながら未収録なのですが、もう1冊の邦訳書『小遊星物語』(桃源社、のちに平凡社ライブラリー)には入っているそうでなので、そちらも購入してみようと思います。