ジョージ星辰王2022年11月12日 16時33分27秒

天王星といえば、その発見者であるウィリアム・ハーシェル(1738-1822)の名が、ただちに連想されます。そればかりでなく、19世紀後半に「ウラヌス」の名称が定着する以前は、天王星そのものを「ハーシェル」と呼ぶ人がおおぜいいました。

この名は主にフランスとアメリカで用いられ、ニューヨークで出版された、あの『スミスの図解天文学』(1849)でも、天王星は「ハーシェル」として記載されています。



もちろん、これはハーシェルの本意ではなく、ハーシェル自身は、時のイギリス国王・ジョージ3世に敬意を表して、ラテン語で「ゲオルギウム・シドゥス」(ジョージの星)という名前を考案しました。そしてこれを元に、イギリスでは天王星のことを「ジョージアン」と呼んだ時期があります。

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ジョージ3世(1738-1820/在位1760-1820)は、自分と同い年で、“同郷人”(※)でもあるハーシェルを目にかけ、物心両面の支援を惜しみませんでした。(※ハーシェルはドイツのハノーファー出身で、ジョージ3世はイギリス生まれながら、父祖からハノーファー選帝侯の地位を受け継いでいました。)

ハーシェル推しの私からすると、ジョージ3世は、もっぱらその庇護者という位置づけになるのですが、でもジョージ3世の天文好きは、ハーシェルと知り合う前からのことで、彼はもともと好学な王様でした。金星の太陽面通過を観測するために、1769年、ロンドン西郊のキュー・ガーデンに天文台を新設し、併せてそこを科学機器と博物コレクション収蔵の場としたのも彼です。

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そんなジョージ3世ならば当然かもしれませんが、彼には一種の「時計趣味」があり、精巧な天文時計を、ときに自らデザインして一流の職人に作らせ、それらを身近に置いていたことを、以下の動画で知りました。


George III and Astronomical Clocks(by Royal Collection Trust)


上は、1765年、ジョージ3世が27歳の誕生に贈られ、寝室に置いていたという天文時計。Eardley Norton(活動期 1760-92)作。(詳細はこちら


こちらは、ジョージ3世自身が筐体デザインした天文時計。1768年、Christopher Pinchbeck 2世(1710-83)作。(詳細はこちら

こうした興味関心の延長上に、キューの天文台があり、ハーシェルとの出会いがあったわけで、思えばハーシェルは実に良いタイミングで世に出たものです。そして、彼が捧げた「ジョージの星」の名も、単なるお追従ではなかったわけです。(まあ、そういう気持ちも多少はあったでしょうが。)

コメント

_ S.U ― 2022年11月13日 09時24分45秒

この時代、アメリカは独立するし、フランスでは、パリ・コミューンを経て国王の力が落ちて革命前夜の様相を呈していたわけで、国王の名前を新惑星の名前にというのはもう国際的には無理があったのではないかと思います。でも、ハーシェルでも、英国にいるかぎりは、そういうことに気付かない状況だったのでしょうか。

_ 玉青 ― 2022年11月13日 13時57分44秒

天文学者が王様に星を捧げるというのは、人情として、やっぱりそれなりの実利と見返りを期待してのことと思います。したがって、それが盛んだったのは王権の伸長期と重なり、最初のブームは17世紀後半でした。この時期、「チャールズの樫の木座」(1678)とか、(フランス王家の紋章)「百合の花座」(1679)とか、「ブランデンブルクの王笏座」(1688)とか、今は廃れた新星座がいろいろ考案されています。

その後、天の王様ブームはしばらく鳴りを潜めますが、18世紀後半に、再びそのブームが起こったように見受けられます。この時期は市民社会の成立により、実質的王権はむしろ弱体化していたはずですが、海外における国家間競争による国家意識の高揚や、反革命的ヨーロッパ版「国体護持」思想の興起によって、王様の権威がかえって高まったということかもしれません。この時期には、ポーランド王ボニアトフスキーを称えた「ボニアトフスキーの牡牛座」(1777)とか、ドイツのマクシミリアン・ヘルがジョージ2世(ないし3世)に捧げた「ジョージの琴座」(1781)とか、ボーデがフリードリヒ大王のために設定した「フリードリヒの栄誉座」(1790)なんかが生まれています。

でも、時代は急速に変化して、こうした振る舞いは19世紀になるとピタッと止まります。S.Uさんが言われるとおり、完全に時代とそぐわないものになったのでしょう。
したがって、ハーシェルは時代を読み違えたというよりも、一応当時の時流に乗って「ジョージの星」を提案したのだけれども、その後の変化までは、さすがの彼も読み切れなかった…というのが実態ではないでしょうか。

(分かってないのに、適当なことを書きました。大阪人なら最後に「知らんけど」を付けるところです・笑)

_ S.U ― 2022年11月16日 08時26分57秒

あぁ、そうだったんですか。こういうのは、私も日本天文学史研究を始めた頃に知った難しさです。
 歴史上の特定の人の認識というのは、変わらないかに見えて、10年単位で社会情勢に従って変わっていって、決して単調ではないということです。ハノーバー朝の英国や天明~化政期の江戸時代後期のような一般に安定していたような時期においてもやはり社会情勢には流行廃りというものがあり、そういうのが当時の人の行動を左右していたのでしょう。歴史上の○○氏はこういう性格でこういう認識の人だったのでそれが一生変わらないと思ってはいけないということを学びました。

_ 玉青 ― 2022年11月17日 19時31分25秒

世の中ばかりでなく、個人のうちにも不易と流行がありますね。
そして一時の流行だと思ったものが、時をおいて再び三たび回帰して、これはやっぱり不易だったのか…と思い直したり。あるいは変奏曲のように、絶えず変化しながらも、そこに一定の主題があるというパターンも多そうです。足穂はその典型かもしれませんね。

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