フリッチ兄弟の夢、オンドレジョフ天文台(前編)2022年11月27日 13時52分16秒

絵葉書アルバムを見ていて、ふと目に留まった1枚。


表側に何もキャプションがないので、何だかよく分からない絵葉書として放置されていましたが、改めて眺めると、なかなか雰囲気のある絵葉書です。

古びたセピアの色調もいいし、全体の構図や光の当たり方、それに小道具として取り合わせた椅子の表情も素敵です。全体に静謐な空気が漂い、これを撮影した人は明らかに「芸術写真」を狙っていますね。

そして中央で存在感を発揮している光学機器。


その正体は、葉書の裏面に書かれていました。



このチェコ語をGoogleに読んでもらうと、次のような意味だそうです。

「オンドレジョフ近くの天文台にある二連アストログラフ。ヨゼフとヤンのフリッチ兄弟社製。西側ドームに設置され、恒星、小惑星、銀河、彗星、流星の写真撮影に使用されている。」

アストログラフ(天体写真儀)は、天体写真の撮影に特化した望遠鏡です。
欄外に1934年8月15日の差出日があるので、この絵葉書自体もその頃のものでしょう。

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ときに、オンドレジョフとはどこで、フリッチ兄弟とは何者なのでしょうか?

Googleで検索すれば、オンドレジョフ(Ondrejov)天文台が、プラハの南東35kmの位置にあって、現在はチェコ科学アカデミー天文学研究所の主要観測施設になっていることを、ネットは教えてくれます。(wikipediaの「Ondřejov_Observatory」の項目にリンク)

(オンドレジョフ天文台。手前が東ドーム、奥が西ドーム。Google map 掲載の写真より。Roman Tangl氏撮影)

(上空から見たオンドレジョフ天文台。中央の緑青色のドームが東西の旧棟。それを取り囲むように図書館を含む新棟や天文博物館があります。左手の広場に見えるのは電波望遠鏡のアンテナ群)

フリッチ兄弟についても同様です。
兄のヨゼフ・ヤン・フリッチ(Josef Jan Frič、1861-1945)は若干22歳で、弟のヤン・ルドヴィーク・フリッチ(Jan Ludvík Frič、1863-1897)とともに、光学機器を中心とする精密機械を製造する会社を立ち上げた人。そこで作られたのが上のアストログラフというわけです。

(左は兄ヨゼフ。右は弟のヤン。それぞれチェコ語版wikipediaの該当項目にリンク)

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それにしても、兄弟の事績を読むと、彼等はなかなかの人物です。
そしてオンドレジョフ天文台も、単なるその製品の納入先ではなくて、そもそもこの天文台を創設したのは、ヨゼフ・フリッチその人なのでした。

ちょっと話が枝葉に入るようですが、当時の事情を覗き見てみます。

(長くなるので後編につづく)

フリッチ兄弟の夢、オンドレジョフ天文台(後編)2022年11月27日 14時30分03秒

(今日は2連投です。)

フリッチ兄弟の父親は、詩人・ジャーナリストであり、チェコの愛国者にして革命家としても著名な人物だった…という点からして、なかなかドラマチックなのですが、二人はパリで少年時代を過ごし、プラハに帰国後、兄は動物学と古生物学を、弟は物理学と化学を学び、1883年、ふたりとも二十歳そこそこで共同起業した…というのは前編で述べたとおりです。

何だか唐突な気もしますが、その前年(1882年)に、兄弟はチェコの科学者の大会に出席し、湿板で長時間露出をかけた顕微鏡写真の数々を披露したのが、大物化学者の目に留まり、その紹介で弟ヤンはドイツの工場に短期の修行に行き、さらに旋盤を購入し…というような出来事があって、それを受けての会社設立だったようです。

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ちょっと話が脱線しますが、ここで「チェコ、チェコ」と気軽に書きましたけれど、当時はまだチェコという国家はありません。あったのは「オーストリア=ハンガリー二重帝国」です。

(1871年の「オーストリア地図」。オーストリア領の西北部、ボヘミア・モラヴィア地方が後のチェコ、ハンガリー帝国の北半分が後のスロバキア)

1848年に全ヨーロッパで革命の嵐が吹き荒れた後、中欧ではハプスブルク家専制に揺らぎが生じ、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国が成立します。しかし、チェコやスロバキアの人々はこれに飽き足らず、「自分たちはスラブ人だ。ドイツ人やマジャール人の支配は受けない」という民族意識の高揚――いわゆる「汎スラブ主義」が熱を帯びます。この動きの先にあるのが、1918年の「チェコスロバキア共和国」独立でした。

ここで思い出すのが、先月話題にしたチェコの学校教育用の化石標本セットです。

■鉱物標本を読み解く

(出典:Guey-Mei HSU、”Placement Reflection 3”

台湾出身のグエイメイ・スーさんが手がけたミニ展示会に登場したのは、ヴァーツラフ・フリッチ(Václav Fric、1839-1916)というチェコの博物学者(今回話題のフリッチ兄弟と縁があるのかないのかは不明)が監修した標本セットで、自分が書いた文章を引用すると、こんな次第でした。

 「その標本ラベルが、すべてチェコ語で書かれていることにスーさんは注目しました。これは当たり前のようでいて、そうではありません。なぜなら、チェコで科学を語ろうとすれば、昔はドイツ語かラテン語を使うしかなかったからです。ここには、明らかに同時代のチェコ民族復興運動の影響が見て取れます。そして、標本の産地もチェコ国内のものばかりという事実。この標本の向こうに見えるナショナリズムの高揚から、スーさんは故国・台湾の歴史に思いをはせます。」

これが当時のチェコの科学界の空気であり、フリッチ兄弟もその中で活動していたわけです。彼らは科学に対する自身の興味もさることながら、科学によって祖国に貢献しようという思いも強かったのではないでしょうか。純粋学問の世界から、精密機械製作という、いわば裏方に回ったのも、そうした思いの表れではなかったかと、これはまったくの想像ですが、そんな気がします。

(フリッチ兄弟社の製品群。Wikipediaの同社紹介項目より))

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話を元に戻します。

フリッチ兄弟はチェコで最初の月写真を撮り、その写真は1886年にポルトガルで開かれた国際写真展で賞をもらったりもしました。彼らの天文学への興味関心は、商売を越えて強いものがあったようです。弟のヤンは1896年、私設天文台の設立を目指して大型のアストログラフの設計図面を引きました。しかし好事魔多し。ヤンは翌1897年に虫垂炎の悪化で急死してしまいます。

兄ヨゼフは二人の夢を実現するために、オンドレジョフ村に土地を買い、建物を建て、後にチェコ天文学会会長を務めたフランチシェク・ヌシュル(František Nušl、1867-1951)の協力を得て、ようやく念願の天文台を完成させます。1906年のことでした。

(写真を再掲します)

そして、そのドームの中には弟の形見として、かつて彼が設計したアストログラフが据え付けれら…というわけで、今回の絵葉書の背後には、そうした「兄弟船」の物語があったのでした。さらにその背後には、チェコの近現代史のドラマも。

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調べてみるまで何も知りませんでしたが、何気ない1枚の絵葉書も、多くの物語に通じるドアであることを実感します。

ちなみにオンジョレドフ天文台は、1928年に国(チェコスロバキア)に寄贈され、曲折を経て、現在は前回述べたとおり、チェコ科学アカデミー天文学研究所の主要観測施設となっています。またフリッチ兄弟社は、戦後にチェコスロバキアが共産主義国になると同時に国有化され、各製造部門はあちこちに分有され、雲散してしまいました。

(ボーダーに音楽記号をあしらったスメタナ切手。彼のチェコ独立の夢が結実したのが、交響詩「わが祖国」です。)