人鳥哀歌 ― 2022年12月11日 17時59分58秒
いささかくたびれました。漢字で書けば「草臥れた」。
実際、作業の合間に草むらに腰を下ろして、しばし無言でいました。
作業というのは、例の鳥インフルの対応です。
先年も豚コレラ(豚熱)で駆り出されましたが、今度は鳥インフルです。白い防疫服の一団がせっせと作業しているニュースをご覧になった方もいらっしゃるでしょうが、私もそこにまじってごそごそやっていたわけです。まあ豚のときとは違って、今回は凄惨な殺生がすでに終わったあとで現場入りしたので、気分的にはだいぶ違いましたが、それでも慣れない力仕事は、老いを迎えつつある身にひどくこたえました。
…と改めて文字にすると、「大して働きもしなかったくせに、大げさな奴だ」と自分でも思いますけれど、私の小さな労苦の向こうには、もっと大変な労苦を味わった人がおり、期せずして災厄に遭った農場関係者がおり、さらには何の咎もなく突如屠られた数十万の鶏がいるのです。そこには生まれてまもない雛たちの姿もあったはずで、傷ましいことこの上ないです。
望むべくんば、人々の労苦に思いをいたすとともに、無辜の鶏たちの菩提を共に弔っていただければと念願します。
(京都檀王法林寺「鳥之供養塔」。Googleマップより。撮影:Hiroto Okada氏)
コメント
_ S.U ― 2022年12月12日 13時24分22秒
_ 玉青 ― 2022年12月12日 14時05分22秒
ありがとうございます。間接的にではあれ殺生を働いたことで、私はきっと来世は鶏に生まれかわるでしょうし、殺された鶏たちは人となり、今度はこちらが屠られる番で、役割をチェンジしながら、それを未来永劫エンドレスに繰り返す…。そんな苦しみに満ちた輪廻を断ち切るために、ここは合掌供養あるのみです。鶏の苦患を救うことは、畢竟自身の苦患を救うことでもあるのでしょう。
_ S.U ― 2022年12月13日 08時23分01秒
仏教では、万物の生命に同等の意味を認めているので、人が畜生界に輪廻転生するというのは実に論理的合理的な考えであると思います。してみると、必ずしも鶏が人間より高級ということもないのでしょう。カラスなどは今の人間より賢いかもしれず、まあそれはそれでけっこうなことではないでしょうか。
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生ある者の「処置」、このような場合はどちらを向いても無常で不条理なので、それでなおさら草臥れるものなのでしょうね。せめて、当事者(あるいは遺族)の要望が少しでも聞ければと思いますが、鶏とあってはそれもかないません。
供養いたすのみです。 合掌。