新暦150年の陰で ― 2023年01月07日 10時56分34秒
昨年の暮れに、旧暦から新暦への切り替えについて記事を書きました。
すなわち、明治5年(1872)12月2日の翌日を、明治6年(1873)1月1日とし(※)、以後は太陽暦を使用せよ…というお達しに関する話題で、今年は新暦施行150周年の節目の年に当たります。
暦の上では、12月がほぼ1か月まるまる消失し、師走が来たと思ったら、すぐ正月だということで、庶民は大混乱に陥った…と、面白おかしく語る向きもあります。でも、同時代の資料を見るかぎり、実際にはそれほど混乱があったようにも見えません。以前の記事で書いたように、旧暦の併用は公に認められていたし、それ以上に徴兵制の導入をはじめ、新時代の高波は、暦の切り替えなどちっぽけな問題と思えるぐらい大きかったからです。
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ただし、そんな中で大混乱に陥った一群の人がいました。暦屋です。
何せ改暦の布告が出たのは11月9日のことですから、業者はすでに翌年の準備に余念がなく、それを全部チャラにして、しかも1か月前倒しで新しい暦を刷り上げろという無理難題ですから、混乱して当然です。
そんなわけで、巷には「幻と消えた明治6年の旧暦」が一部流出し、心掛けの良い人はそれをちゃんと取っておいたので、今もそれを手にすることができます。
とはいえ、やっぱり珍しいものには違いなくて、私も時折思いついたように探してはいたのですが、なかなか見つかりませんでした。それがふと見つかったのは、先日の記事を書いた後のことで、こういうのを「機が熟した」というのでしょう。
こうして私は「明治5年 最後の旧暦」、「明治6年 最初の新暦」、そして「明治6年 幻の旧暦」のロイヤルストレートフラッシュを完成させ、大いに鼻高々です。まあ、虫の喰った煤けた紙束を自慢しても、あまり大方の共感は得られないかもですが、6世紀に暦法が本朝に伝来して以来1500年、中でも最大の出来事が太陰暦(正確には太陰太陽暦)から太陽暦への変更ですから、これはやっぱり貴重な史資料ではあるのです。
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肝心の幻の旧暦の中身ですが、まあ普通に旧暦です。
明治6年は「みつのととり(癸酉)」の年で、途中「閏六月」が挿入されたため、1年は13ヶ月、384日ありました。
暦の下段に書かれた暦注が、いかにも旧弊。
試みに右端(1月4日)下段を読んでみると、「十方くれニ入(十方暮に入る)神よし(神吉)大みやう日(大明日)かくもんはしめよし(学問始め吉)」、その隣の黒丸は大凶の「黒日」の印で、さらに「五む日(五墓日)めつもん(滅門)さいけしき(歳下食)」、「大みやう(大明)母倉 大くわ(大禍)ちう日(重日)」と続きます。
今では完全に暗号化していますが、昔の人にはちゃんと意味があったのでしょう。江戸時代にあっても、一部の学者はこうした暦注を迷信として激しく排撃しましたが、長年の慣習はなかなか改まらないものです。
それにしても、こういうものが「文部省天文局」の名前で出版されていたのが、わずか150年前のことです。世の中変ったなあ…と思いますが、現代人も友引に葬式を出さなかったりするので、一見した印象ほどには変わってないのかもしれません。
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(※)この書き方は不正確です。これだと1872年12月2日の翌日が、いきなり1873年1月1日になったように読めますが、もちろんそんなことはありません。正確には「旧暦の明治5年12月2日(西暦1872年12月31日)の翌日を、新暦の明治6年1月1日(西暦1873年1月1日)とした」と書かねばなりません。
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