青空のかけら、再び2023年02月11日 18時28分12秒

昨日、幼い子どもが泣いている夢を見ました。
その子のお兄さんが不意に亡くなってしまい、身寄りのないあの子は、これからどうやって生きていくのだろう…と、夢の中で私はしきりに案じていました。目覚めてから考えると、ここにはトルコ大地震のニュース映像が大きく影響しているようです。

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トルコ南部の大地震は言うまでもなく大変な惨状を呈していますが、この災害に複雑な影を落としているのが、被災地域にトルコとシリアの国境線が通っていることです。

地図を見ながら、ふと「なぜここに国境線があるのだろう?」と思い、本棚から歴史地図を引っ張り出してきて、夢の中の幼児を思い出しながら、ページを眺めていました。そして、自分がトルコの歴史を何も知らないことを、改めて思い知らされました。

トルコの歴史といっても、遠い過去の話ではありません。
オスマン帝国の近代化につづく第1次世界大戦への参戦と敗北、その後の帝国弱体化とトルコ共和国の成立――そんな19世紀末~20世紀前半のトルコ激動の歴史を、私はほとんど知らずにいたのです。

そうしたトルコの近・現代史は、イスラム世界を「切り取り次第」の草刈り場とみなした西欧列強の露骨な振る舞いと表裏一体のものです。彼らのパワーゲームの中でトルコとシリアの国境線は引かれ、今に続くシリア国内の政情不安も、そこから糸を引いているわけです。

(出典:マリーズ・ルースヴェン、アズィーム・ナンジー(著)『イスラーム歴史文化地図』、悠書館、2008)

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以前も登場したセルジューク・トルコの青いタイル。


元の記事を読み返したら、あのときの自分も2020年7月豪雨を受けて、「こんな青空が一日も早く戻ってきますように」と願っていました。


寒空のトルコにも、早くまばゆい青空をと切に願いますが、被災者の心に青空が広がるのは、多分ずっと先のことでしょう。あるいは、あの幼児に象徴される多くの人々のことを思うと、青空は永遠に来ないかもしれない…と心が曇りますが、それでもいつかはと願うばかりです。

コメント

_ S.U ― 2023年02月12日 08時54分28秒

旧約聖書のバベルの塔の段に、世界の言語が分かれて分断されたのは、人の欲が神の怒りを買った罰だと言われていますが、むしろ、国境が神罰なのじゃないでしょうか。

この「青空のかけら」、いぜん、星形多角形で愚行いたしましたが、進歩がありましたでしょうか。また考えてみると新しいアイデアが出ますでしょうか。

_ 玉青 ― 2023年02月12日 18時42分44秒

旧約が説くディスコミュニケーションの由来譚は興味深いですね。
思うにジョバンニがいうところの「(キリスト教徒が口にする神様とはちがう)ほんとうのたった一人の神さま」がいるとして、その神様が人類に罰を下したとしたら、その最大のものは人々が別々の神様を奉じるようになったこと、それ自体かもしれませんね。言葉を越え、国家を越えても、人はなおコミュニケーション可能ですが、そこに宗教が介在すると、隣に住む人とも話が噛み合いませんし、しばしば陰惨なことも起きがちだからです。まあ、遠くから見れば「お前の母ちゃん出べそ」という子供のケンカ以上のものではないし、出べそと言われたら「ああ、出べそだよ」と言っておけば済むのになあ…と思うんですが、なかなかそこが難しいです。(すみません、いただいたコメントとちょっとずれました。)

ときに星形多角形の件では、お世話になりました。
その後の進展は特にありませんが、今でもこうして折にふれて思い出すということは、その形は定かならねど、かの星は私の心の内で燦然と青い光を放ち続けているのでしょう。

_ S.U ― 2023年02月13日 08時11分12秒

ほんとうのたった一人の神様が、世界の人々に別々の神様を信ずるように仕組んだのだとしたら、一種、神様も自制的自嘲的な(安易に自分の独裁にならないように?)感触があったのかという気がします。神様は偉いですからそういうこともあろうかと思います。
 戦争の原因として、言葉の違いはIT・AI技術により解決しつつありますが、宗教や国境の問題は、商売や経済と結びついて解決の気配が見えません。これも、IT・AI技術で何とかならないかと希望はしますが、今のところメドは立たず、まだ神頼みの状況にありますね。

_ 玉青 ― 2023年02月14日 10時25分26秒

東アジアだと、「儒仏道」や「神儒仏」の「三教一致」みたいな考え方が、わりと人気ですよね。これは日本も中国もパンテオン的信仰をベースにしているから、他宗教にも寛容なのだ…という理解が一般的かもしれませんが、でも厳格な一神教のイスラム教だって、かつてはキリスト教徒やユダヤ教徒を「啓典の民」とみなして、穏便に共存していた時代もあったそうですから、これは多神教/一神教の違いというよりも、心に落ち着きがあれば他者に寛容でいられるという一般則に従っているだけなのかもしれません。(日本でも狂躁の時代には、廃仏毀釈のような横暴がまかり通りました。)

ということは、宗教(あるいはイデオロギー)の違いが直接戦争を生むというよりも、世の中の不安定から宗教的対立が生じ、それが戦争の引き金を引く…と考えた方が、いっそう的確なのかもしれません。為政者は傲慢で、富者は驕り高ぶり、細民が飢えに泣く…なんていう社会は、宗教を問わず安定性を欠き、戦と隣合わせだと思います。

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