歴史瑣談…鷲雪真と仁徳天皇陵古図2023年04月17日 05時29分48秒

天文趣味や理科趣味とはあまり…というか全然関係ない話題ですが、備忘のためここに書いておきます。

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今を去る30年前、私も人の親となり、大いに張り切っていました。

男の子だから端午の節句を祝うという段になって、普通に人形屋に並んでいる五月人形では面白くないとへそ曲がりなことを考えて、床の間に端午の節句にちなんだ古画を飾ることにしました。今にして思えば、若干スノビッシュな感じもしますが、当時は素敵なアイデアに思えたので、いそいそと京都まで出かけて、縄手通界隈の古美術店で一幅の具足絵を買い求めたのです(まだネット販売のなかった時代です)。


それを押し入れから出してきて、今年も飾りました。

(一部拡大)

まあ、いかに京都で風流人を気取っても、先立つものがないので、これは無名の絵師の作品に過ぎません。しかし無名とはいっても、やっぱり名前はあるわけで、絵の隅っこには「雪真鷲源正直図之」という署名があります。


印章は「鷲正直」と「雪真」の2つ。つまりこの絵を描いたのは、本姓は源、氏は鷲、名は正直、号は雪真という人です(「鷲」は珍しい苗字ですが、確かにあるそうです。ただし、これが普通に「わし」と読むのか、あるいは「おおとり」のような読み方をするのかは不明)。

(外箱蓋裏の記載。蓋表には「雪真筆 菖蒲雛画」とあります)

箱書によれば、以前の持ち主はこれを明治13年(1880)5月に調えたとあるので、絵が描かれたのはそれよりもちょっと前でしょう。

当時、書画骨董人名事典の類をいくらひっくり返しても、その名がまったく見つからなかったので、これは余っ程無名の人か、あるいは素人画家の作かもしれんなあ…と思いました。で、今年久しぶりにその軸を出してきて眺めているうちに、「その後ネット情報も充実したし、今なら何か手掛かりが得られるかもしれんぞ」と思って検索したら、たった一点ですが、同じ人の作品が見つかりました。

(出典:https://aucview.aucfan.com/yahoo/p1060857324/ 一部トリミング)

「鷲正直(雪真)槌鼠図横物」の品名で、2022年8月にヤフオクに出品されたものです。

(出典:同上)

印章も同じなので、同一人物に間違いありません。
文久4年(元治元年、1864)の段階では、「法橋」の位に叙せられているので(これは絵師の名誉称号みたいなものです)、この人は素人ではなく、やっぱり職業画家で、幕末から明治の初めにかけて活動した人なのだろうと想像されました。

これだけなら、「ああ、そうなんだ」で終わる話です。
しかし、検索結果の余波として、ここから話は妙な方向に発展します。それはあの「仁徳天皇陵」、今では「大仙陵古墳(大山古墳)」と呼ばれる巨大古墳に関係したことです(以下、話を簡単にするため、旧称の「仁徳天皇陵」を用います)。

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仁徳天皇陵は、現在は発掘はもちろん立入調査も認められていないと聞きますが、明治の初めにその前方部の一部が崩れて、そこから石室が見つかったことがあります。これは大雨によって偶然崩れたとも、当時の堺県令・税所篤(さいしょあつし、1827-1910)が意図的に発掘(あえて言えば盗掘)したのではないかとも言われます。

石室が発見されたのは明治5年(1872)9月7日のことで、ちょうど同時期に文部省の派遣した社寺宝物調査団が近畿一円で活動しており、同調査団は早くも9月19日に現地を訪れて、同行した絵師の柏木政矩(通名・貨一郎、1841-1898)が、石室と石棺の図面を描いています。

何といっても、現在は禁断の遺跡ですから、このとき描かれた図面はすこぶる貴重なものに違いなく、ただ残念ながら原本は失われて、今はいくつかの写本が残されているのみです。

その写本の1つが、国学者の落合直澄(1840-1891)がかつて所有し、現在は八王子市郷土資料館に所蔵されている「落合家旧蔵『仁徳陵古墳石棺図』」と呼ばれるものです。これはその描線や記載事項の検討から、柏木政矩が描いた原図に最も近いものと推定されています。

それがどんなものかは、八王子市郷土資料館所蔵のオリジナルを複製したものが、ウィキペディアの「大仙陵古墳」の項に掲載されているので、簡単に見ることができます(図は2枚から成ります)。



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で、肝心の鷲雪真がどこに行ったかというと、他でもない上の図を描いた(すなわち柏木の原図を模写した)のが、雪真その人なのです。

すぐ上の図の左下を拡大してみます。


そこには「明治八年四月十五日 鷲雪真模」の文字が見えます。

この書入れについて、この資料を学界に初めて報告した小川貴司氏(1983)は、以下のように述べています(太字は引用者)。

「したがって現在確認できる中では、落合家の図が柏木の原図に最も近似するという結論に達する。そしてこのことは図末の「鷲雪真模」の記述にも見ることができる。これは「鷲雪真ガ模ス」とも読めないことはないが、「鷲雪ガ真模ス」と読むべきだろう。「真模」とは本物をもとに正しく模写した意味という。とすると、本図が写しの写しという可能性はなくなり、より信憑性を高くする。」 (p.248)

「次に落合家の図末の「明治八年四月十五日鷲雪真模」の添書きだが、このような記述は今までの図にはなく、この図の由緒を明確にしている点で高く評価できる。直澄が税所らに会った正確な日付けはわからないが、模写された明治8年4月15日は丁度その前後である。とすると、直澄は模写を見て譲り受けたのではなく、柏木の原図を直接見た上で鷲雪に「真模」させたと推定される。〔…〕なお、鷲雪についてはいかなる人物かわからなかった。」 (p.249)

この推論は、その後も玉利薫氏(1992)や内川隆志氏(2020)がそのまま引用しており、本図は「鷲雪」という画家が原図を「真模」したもの…ということになっています。しかし、同じ時期に「鷲雪真」という画家が現にいた以上、これは小川氏が最初に退けた読み方、すなわち「鷲雪真ガ模ス」を採るべきだと思います。そして筆跡の上でも、「雪真」は「真」の字にやや特徴があって、この3点は私の目には同筆に見えます。

(3点の比較)

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まあ、なんだかんだ言って、鷲雪真の伝は依然として不明なわけですが、少なくとも「真模」の一語を重く見た小川氏の論には一定の留保が必要でしょうし、雪真その人の経歴や、雪真と落合直澄の関係を探るという新たな課題が、今後の歴史家には残されている…と言えるのではないでしょうか。

以上は素人の勝手な考証にすぎません。でも貴重な歴史資料にかかわる事柄なので、あえてブログの隅に書き付けました。


【引用・参考文献】

(1)小川貴司 1983 「落合直澄旧蔵の『仁徳陵古墳石棺図』について」、『考古学雑誌』 69巻2号、pp.244-253.
(2)玉利 薫 1992 「堺県令税所篤の発掘」、『墓盗人と贋物づくり―日本考古学外史―』 平凡社選書 142、pp.138-185.
(3)内川隆志 2020  「好古家柏木貨一郎の事績」、『好古家ネットワークの形成と近代博物館創設に関する学際的研究Ⅲ』 近代博物館形成史研究会、pp.3-29.
http://hcra.sakura.ne.jp/hvsiebold/wp-content/uploads/2020/07/siri2020.pdf

※「鷲正直(雪真)槌鼠図横物」の魚拓はこちら。

コメント

_ S.U ― 2023年04月19日 07時13分23秒

面白そうな話題ですね。
落合直澄は、神職で国学者で明治政府公認の皇典講究所で教鞭を執ったとあります。だとすると、鷲雪真も元幕府に近い士族とか、あるいは官庁か官立学校のお抱えであったとかではないでしょうか。
 鷲姓も神社に関わりがあるという情報をネットで見つけました。こちらも神職の関係の人かも知れないと思います。それから、彗星観測者で天文普及にも貢献されている東亜天文学会の理事に鷲真正さんがいらっしゃいます。

_ 玉青 ― 2023年04月20日 20時38分36秒

おお、これは貴重なご示唆に加え、天文の話題にまでつないでいただき、どうもありがとうございます。官職 and/or 神職というのは、時代的にいかにもありそうですね。そうなると人物探しの範囲もぐっと狭まってくるでしょう。
この件は現在、八王子郷土資料館にも照会中なので、遠からず続報が出せると思います。まあ、このブログではちょっとスレ違いの感じもするんですが、ここまで来たら乗りかかった船です。乞うご期待!といったところです(笑)。

_ S.U ― 2023年04月21日 07時22分16秒

玉青さんがここで取り上げられる話題であれば、およそ何でも天文に無理くり繋げられそうな妙な自信がわいてきました(笑)。

 今後の発展に期待いたします。この石棺の形にも興味があります。
間瀬の童子のような人が昔もいて8人で担いだということでしょうか。
8人で運べる重さか存じませんが。

_ S.U ― 2023年04月21日 07時36分48秒

「間瀬の童子」じゃなくて「八瀬の童子」でした。訂正いたします。
八瀬だから8人というわけではないですね。

_ 玉青 ― 2023年04月21日 17時24分14秒

すべての道は宇宙へと続く。まあ、よその星から見たら、地球上の出来事はすべて「宇宙の話題」に他ならないですよね。

ときにこの凸部は、石棺の蓋と共材で、巨大な石塊を削り出して加工したものらしく、当時の技術でよくできたなあと思います。何せこの石棺は蓋だけで、長さは9尺半、幅は4尺8寸、高さは3尺余りの大きなものですから、これを人が担ぐことは困難でしょう。図面では、この凸部に注記して「紐掛」と書かれていますが、ここに縄やら何やらをからげて、修羅のような運搬具と畜力も駆使して、えんやこらと斜面を引っ張り上げたのかなあ…と想像します。

_ S.U ― 2023年04月22日 06時41分08秒

そうですか。石の厚みは不明ですが、薄いはずはないので、人力では何人いようとも持ち上げるのは不可能でしょうね。前方後円墳の前方部分は、堀を掘って土が余ったのを、後円部分に持ち上げるための坂道として利用したものを完成後は祭壇として利用し、それを残したものだという説があると聞いています。でも、天皇の遺体そのものを修羅で引きずるはずはないので、これは、現地で石棺に納めたものだと思います。

 古代遺跡においては、大石の加工技術がよく話題になりますね。インカ帝国の石垣や水路の石組みはいまでも謎の技術だそうですが、日本にもそれに匹敵する謎があったのなら面白いと思います。

_ 玉青 ― 2023年04月22日 08時53分02秒

S.Uさんとやりとりするうちにも、郷土資料館から回答が来たので、「補遺」として上げることにします。

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