今昔プラネタリウム2023年04月29日 08時16分46秒


(伊東昌市『地上に星空を』、裳華房、1998)

今年はプラネタリウム100年。

1923年10月、カール・ツァイス社のツァイスⅠ型機がミュンヘンでお披露目され、これがドームに投影するタイプの、要するに今の我々が普通にイメージするプラネタリウムの元祖だ…というわけで、その100周年を祝うイベントがあちこちで行われています。

明石市立天文科学館の井上毅氏が、この件について簡にして要を得た解説を書かれています。関連情報へのリンクも張られているので、ご参照いただければと思います。

■プラネタリウム100周年
ただ、「プラネタリウム」という言葉自体は、それ以前からありました。
やや枝葉に入りますが、プラネタリウム100周年を祝うにあたり、その「前史」をちらっと見ておきます。

   ★

19世紀以前、「プラネタリウム」という言葉は、「オーラリー」とほぼ同義でした。すなわち、惑星が太陽の周りを回る様子を、歯車で再現した機械装置です。オーラリーにもまた更なる前史があるわけですが、通説に従えばその登場は1712年。こちらは一足早く、2012年に「オーラリー300年」を迎えています。

(オーラリーというと真っ先に出てくる絵。ジョセフ・ライト作「オーラリーについて講義する学者(A Philosopher Lecturing on the Orrery)」1766年、ダービー博物・美術館所蔵)

では、オーラリーと同義であるところのプラネタリウムという言葉の初出はいつなのか?どこの誰が最初に使ったのか?を確認しておきます。

これについては、ネットを徘徊してもちょっと曖昧だったんですが、英語圏の話なら、オックスフォード英語辞書(OED)を見ればすぐ分かるだろうと、図書館まで見に行ってきました(大学関係者なら、わりと気楽にオンラインで見られるらしいですが、私が見てきたのは紙の辞書で、OEDの第2版というやつです)。

「planetarium」の項はわりと簡素な記述なので、オックスフォードに深謝しつつ、そのまま貼っておきます。


まず語義 a というのが、上述の「古義」にあたります。ざっと訳しておくと「惑星の運行を部品の動きによって説明する機械。オーラリー。」という意味で、その用例として、デザギュリエ(J.T. Desaguliers)が、1734年に自著の中で使ったのが古い例として挙がっています。世界は広いので、これが絶対に初出という保証もありませんが、オックスフォードの言うことですから、限りなく初出に近いと考えてよいのでしょう。辞書編纂者は、これに続けて1774年、1805年、1849年の用例も挙げています。

デザギュリエという人は、以前のブログ記事だと、彗星の公転を示す「コメタリウム」の考案者として登場しました。彼は性分として「なんとかリウム」という言葉が好きだったのかもしれませんね。

■回れ、回れ、コメタリウム!


続いて語義 b、c というのは、ちょっと変わった用法ですが、惑星系の模式図とか、あるいはずばり惑星系そのものの意味で、「プラネタリウム」を使った人がいるそうです。


最後の語義 d が、現代的な意味のプラネタリウムで、「様々な時間・場所における夜空の情景をドーム内に投影して、人々の共同視聴に供する装置。又はこの装置を備えた建物。」と説明されています。用例として挙がっているのは1929年の『エンサイクロペディア・ブリタニカ』の解説文です。

ちなみに、オーラリーの故国イギリスは、逆にドイツ生まれのプラネタリウムの導入は非常に遅くて、ロンドン・プラネタリウムのオープンは、戦後もだいぶ経った1958年だそうですから、フランスよりもアメリカよりも、さらにはソ連や日本よりもずっと遅かったことになります。国民感情のしからしむるところなのか、興味深いと思いました。

…と、前史をおさらいしたところで、プラネタリウムの話題で記事を続けます。

(この項つづく)
-------------------------------------------
【附記】 上述のデザギュリエとプラネタリウムの関係については、福山祥世氏がすでに論文にまとめておられました。学部の卒業論文としては随分渋いテーマと感じますが、その見識に大いに敬服しつつ拝読しました。

■福山 祥世「プラネタリウム史における デサグリエの功績」
 2015 年(平成 27 年度) 岡山理科大学 生物地球学部卒業論文

コメント

_ S.U ― 2023年04月29日 10時30分36秒

この福山氏の卒業論文は、私も日本天文学史の研究でお世話になりました。この論文の図6のデザギュリエ本内のウィストンの太陽系の縮図が山片蟠桃の『夢の代』の「ウイストン太陽明界図」そのものだったことがわかったのです。
https://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/Banto_Whiston.html

 してみると、デザギュリエさんはいろいろと偉かったのですね。

なお、山片蟠桃がこのデザギュリエ本そのものを見た可能性については明らかではなく、太陽系図の別刷りだけを見た可能性があります。他に、Swinden, J.H.: Lesen over het planetarium, tellurium, en lunarium. Amsterdam, 1803 という本が江戸幕府に所蔵されていたことを、佐藤明達さんのコメントから知りました。

_ 玉青 ― 2023年04月30日 08時56分30秒

ややや、まったく気づきませんでした。すでにそんな結び目ができていたとは!
時を超え、国を超え、デザギュリエその人も、山片蟠桃も、カール・ツァイス・イェナの技術者も、S.Uさんも、福山さんもすべてを巻き込んで人間の思念は渦を巻いて流れ、それと呼応するのように、天上では諸惑星が太陽の周りを旋回し続けていたのですね。宇宙の営みと人の営みを振り返る時、まこと不可思議の思いを禁じ得ません。

_ S.U ― 2023年04月30日 16時19分19秒

渋くて鋭い研究というのは、いろいろと将来に向けた発展が含まれていることが多いと感じます。そういう研究に出会えることは、本当の幸運だと思います。

ここで、ちょっと脱線しますが、もし、お考えがあればお付き合いをお願いいたします。

佐藤さんから、Swinden, J.H.: Lesen over het planetarium, tellurium, en lunarium. Amsterdam, 1803 の知識を教えてもらいました。これで、このプラネタリウムを題名に戴く本が、1803年以降1862年までに(蕃書調所が洋書調所に改称になった年)に日本に入ってきたことはわかりますが、幕府機関の所蔵になったのがこの間のいつなのかはわかりませんでした。入ってきた時期がわからないと、日本科学史研究としては発展できません。
 入ってきた時期は、蔵書印や蔵書目録ではわからず、「御書物方日記」にもそのような記録はなく、それは、幕府の購入記録とか備品・資産管理目録のようなものを見ないといけないと思うのですが、そういう文献は江戸幕府に存在するのでしょうか。よろしければよろしくお願いします。
 
 それから、さらに脱線しますが、ついでに・・・
 我々の天文同好会の会誌の新号を昨日発行しました。
上のURLでご笑覧いただければありがたいです。

_ 玉青 ― 2023年05月02日 06時38分53秒

いやあ、その辺のノウハウは我ながらぜひあって欲しいのですが、残念なことにからっきしですねえ。まあ、こういうのは実戦の中でこそ身につくので、S.Uさんのほうが余っ程お詳しいと思います。

そんなわけで全然お役に立てませんが、好奇心からウロウロしていたら、以下の資料の存在を知りました。

■蕃書調所書籍目録写
○解説:https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/html/tenjikai/tenjikai2009/shiryo/kaisetsu23.html
○国会図書館デジタルコレクション:https://dl.ndl.go.jp/pid/1086054

収載書目中、『航海暦』は1856年版まで記録されていますが、56年版はその前年か前々年には出ていたはずですから、筆記されたのはたぶん1855年頃でしょう。
この資料はS.Uさんは先刻ご承知かもですが、この写本を見ていて、10コマ目に『七曜儀附説和解』という書名があるのに気づきました。これが問題のSwindenの本である保証はないんですが、「七曜儀」の語は必ずやplanetariumの訳語に相違ないと思うので、「そうか、江戸の人はプラネタリウムを七曜儀と呼んだのか…」というのが、今回の私の新発見です。(もしこれが例の本だったら、「planetarium, tellurium, lunarium」を総称して七曜儀と呼んだ可能性もあります。そして「和解」ということは1855年当時、この本文178頁の蘭書は、すでに和訳されていたのでしょうか。)

それと返す刀で、佐藤氏が挙げられていた『天文方関係史料』も古書店で見つけたので、この機会に購入することにしました。

ご質問の答には最後までなっていませんが、ご質問を機に私の興味がさらに広がったことを喜びつつ、お礼を申し上げます。また「銀河鉄道」最新号のご案内をいただき、どうもありがとうございました。こちらもゆっくり拝読させていただきます。

_ S.U ― 2023年05月02日 08時51分01秒

ありがとうございます。やはり楽な道はなさそうですね。学問にも研究にも王道はなし。あったら苦労はしません。

私は熱心に目録を研究するということはしていないのですが、購入年月日が書かれているのは見たことがないので、いつも残念に思っています。利用者個人でもなかなかこういう記録はしませんよね。お役所では、経理担当のお仕事なのだと思います。間重富クラスの商人さんが関係していないと難しいでしょう。

 なお、佐藤さんご確認のSwindenの書の記載は、『天文方関連資料』では、「天体儀説」となっています。『七曜儀附説和解』については存じませんでした。Swinden 『天体儀説』は、「御書物目録」「御用留」に記載があることになっていますが、「御書物目録」「御用留」がいつ出たバージョンか私にはわからないので、年代情報はわかりません。同時に記載されている別の書物から推定ということになるのでしょうか。それでも、目録の年がわかっても、洋書が本国で出版された以降、目録が作られた以前に購入されたということしかわからないですよね。ご指摘の『蕃書調所書籍目録寫』では天文類の3ページ目にあります。

 『天文方関連資料』は250部限定の大崎氏のその時代の力作なので値打ちがあると思います。

_ 玉青 ― 2023年05月03日 10時52分35秒

やや、天体儀ですか。すると七曜儀の原語とそれを含む書名も気になりますね。
江戸のプラネタリウムから、万年自鳴鐘や須弥山儀の世界へ…。
不思議な扉の向こうに、ワンダラスな世界が広がっている予感がします。

_ S.U ― 2023年05月03日 11時42分11秒

『七曜儀附説和解』の原書については、出版年も書いてありませんよね。おそらく、未詳状態でしょう。もし、福山氏研究のデサギュリエのプラネタリウム教本であれば面白いのですが・・・

 というのは、ここに詳しくは書けませんが、『夢の代』のウィストン太陽系図の惑星データは山片蟠桃自身が和解したと推定されること、間家に同図の彗星軌道部分のオランダ語訳の手稿があることから、デサギュリエの利用した惑星データのオランダ語訳が幕府か大坂方面のどこかにあった可能性が高いと見ております。
 日本のプラネ書については、また、追々ご研究されお知らせいただければありがたいです。

_ 玉青 ― 2023年05月04日 08時49分11秒

承知しました。まあ追々と…ということで、何分よろしくお願いいたします。

_ 玉青 ― 2023年05月20日 19時19分01秒

Swinden, J.H.: Lesen over het planetarium, tellurium, en lunarium. Amsterdam, 1803 が蕃書調所に収蔵された時期について追記します。

先に話題にした、大崎正次(編)『天文方関係史料』(昭和46)所収の「国立国会図書館所蔵 蕃書調所旧蔵天文暦学書目録」(大崎正次編、補訂第3稿)を見ると、Swinden上掲書に対して、「(御書籍目録)天体儀説一冊」の注記が付いているのに目が留まりました。

「(御書籍目録)」の表記は、大崎氏による校訂の過程で、「天保2年重訂御書籍目録」(内閣文庫所蔵:幕府紅葉山文庫の旧蔵書目)に同書が掲載されていることを示す符牒ですから、少なくとも幕府の蔵書となった時期は、1803年以降1831年(天保2)以前にまで、範囲を狭めることができるのではないか…と思いましたが、いかがでしょうか。

_ S.U ― 2023年05月21日 07時27分11秒

お調べありがとうございます。「紅葉山文庫」に記載があると、もう少し年代が絞られるのですね。また、おりをみて勉強してみたいと思います。特に、高橋景保は、天文方と蛮書和解御用と書物奉行を兼任していましたので、これらの職務がどういう関係であったのか、区別があったのかまったく混同されていたのかそういうこともよくわかりません。また、景保の投獄を機にその制度・構造が変わっていたら、それも時期の目安になるかもしれません。

 佐藤明達さんのご指摘通り、この本は、天王星の情報源の一つで、1803年以前に知られていた、天王星、ケレス、パラスの軌道要素の一部が載っています。(Google Books で読めます。Lesenは正しくはLessenです。読本ではなく教則本?) これが、日本にプラネタリウムの語が知られた初期の情報であったことらしいことが今回思いつかれたわけで価値があったと思います。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック