七夕の雅を求めて(7)2023年07月07日 06時57分28秒

この連載も7回目を迎え、いよいよ今宵は七夕。
これまで紹介してきた品々を机の上に並べて、ささやかな乞巧奠を執り行うことにします。


単にモノが散らかってるだけのようにも見えますが、とりあえずはこんな感じです。(この辺は、もうちょっと工夫のしようがあるかも。)


一つ一つの品にこめた思いを振り返れば、これぞ私なりのスノビズムの発露…なんですが、でも、最近こういうのはあまり流行らないみたいですね。しかし、だからこそへそ曲がりの私としては、一層要らざる力こぶを入れたくなるのです。

【閑語】

考えてみると、こういういかにも「伝統でござい」という顔をしたモノに対しては、一寸斜に構える…というのが、私の若い頃のスタンダードだった気がします。

でも、それは伝統やハイカルチャーが実体的に存在したからこそ通用した態度です。たとえば諸道の家元制度なんかも、それが厳然とあればこそ、「なんてくだらない制度なんだ!家元制度こそ諸悪の根源だ!!」と、こぶしを振り上げて痛罵できたわけですが、今や表・裏の千家茶道ですら、体力が落ちてヨロヨロとしていますから、なんだか批判するのが申し訳ないような、むしろ「頑張ってください」と励ましたくなるような気すらします。

「斜に構える」というのは、相手を知った上で反発の態度を示すことでしょうが、今や相手を知る必要もなければ、それで誰も、何も困らないわけです。いわば、伝統もハイカルチャーも、教養も格式も、すべて無化された状態。

見る角度によっては、かつての伝統文化が、新しい文化に置き換わっただけともいえるので、そう大げさに喚き立てる必要はないかもしれませんが、それにしたって、文化の連続性を自ら断ち切って根無し草になるのは、いかにも寂しい気がします。スノビズムだろうが、要らざる力こぶだろうが、ここはあえて守旧派として振る舞うことにしたゆえんです。

(この項おわり)

閑語のつづき2023年07月07日 09時01分00秒

タイムマシンの実現可能性に関連して、「親殺しのパラドックス」というのがあります。有名な話なので今更ですが、もしタイムマシンで過去に戻って、自分が生まれる前の親を殺したら、いったいどうなるのか?という思考実験です。

自分の親を殺したら、自分も生まれないわけだから、そもそも親殺しを企むことはできないし、親を殺すこともできない。でも、その出来ないはずのことを、あえてやらかしたら、一体どうなるのか?

   ★

先ほど、自分のことを称して「守旧派」と書きました。
でも守旧派とはいっても、例えばツイッター上で、日の丸アイコンを用いたり、プロフィールにことさら「日本を愛しています」と書くことは決してないでしょう。西行だって、利休だって、光悦だって、芭蕉だって、そんなことはしないはずです。それはいかにも愚かしい振る舞いだと思います。

それを愚かしいと感じるのは、どうやらネット上で日の丸を打ち振って「日本大好き」と叫ぶ人々は、往々にして中国や半島の文化とその影響を否定し、その上で本朝の絶対的優位を主張したいらしいからです。それは端的に物を知らない態度だし、いにしえの文化創出者がいちばん驚くのも、たぶんその点でしょう。

   ★

彼らの試みは、一種の「親殺しのパラドックス」です。
不可能という以前に、パラドキシカルで不条理な試みです。