貞享暦に触れる2024年05月26日 10時22分14秒

暦の話題は地味ですから、世間の人々の関心をあまり惹かないと思います。
江戸時代の暦の現物も、言ってみればただの煤けた紙に過ぎませんし、何か目を見張るようなものがそこにあるわけではありません。

でも、子細に見れば編暦や改暦のエピソードはなかなかドラマチックで、貞享暦を作った渋川春海(1639-1715)は、冲方丁さんが小説『天地明察』で採り上げ、岡田准一主演で映画化もされました(2012年)。

   ★

渋川春海による暦法改良が認められ、貞享2年(1685)から宝暦4年(1755)まで使われ続けた「貞享暦」。江戸時代中期の人々の生活は、この貞享暦にしたがって営まれました。

私の場合、天文から暦に興味を寄せていったわけですが、それに加えて「煤けた紙」が根っから好きなので、暦の実物を手に取ることも多いです。ただ幕末頃の暦は容易に手に入るものの、貞享暦の現物はなかなか見つけられませんでした。

(江戸後期~幕末に伊勢で発行された暦。左は元治2年(1865)の天保暦、右は文政4年(1821)、手前は天保8年(1837)のいずれも寛政暦)。

いろいろ探してようやく見つけたのが、下の元禄8年(1695)の伊勢暦。出版自体は前年の元禄7年(1694)に行われました。


裏打ちした暦に「元禄七年/米満( )」の署名が入った仮製表紙が付いています。

元禄8年といえば、今から329年前。江戸時代最後の慶応4年(1868)を基準にしても173年前ですから、これは相当古いです(慶応年間の人にとっては、元禄よりも令和の今の方が時代的に近い計算です)。渋川春海も数え年57歳で、まだまだ元気な頃。この暦に仮製表紙が付いているのは、前の持ち主がこれを大事にしていた証拠で、米満某という人は、江戸時代における好古家だったのかもしれません。


暦の冒頭部。残念ながら、この暦には欠失があります。下は同じ発行元(箕曲主計与一大夫)が出した寛延2年(1749)の暦ですが、版元表示に続く2行目の「寛延二年つちのとのミ乃貞享暦」に相当する部分が、手元の暦では切り取られています。

(出典:国書データベース。https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200021235/

(手元の暦の部分拡大。切断の跡を示す切れ込みがあります)

(同上。暦下部の切断跡。上手に貼り合わせてありますが、手で触ると紙の合わせ目が感じ取れます)


それでも暦の末尾に「元禄七年出」とあるので、これが元禄8年用の暦であることは確かでしょう。

   ★

冷静に考えると、元禄時代の古暦を手に入れたから何だというんだ…という気もするんですが、これを見れば渋川春海その人に近づけたような気がするし、まだ赤穂事件も起こっていなかった時代の空気にじかに触れるようで、この煤け具合が大層床しいです。

結局、私はこの暦に学問的にアプローチするでもなく、単に床しがるだけに過ぎないんですが、こうして古暦を並べてみると、「慶応年間の人にとっては、元禄よりも令和の今の方が時代的に近い」と言いつつも、文化的に江戸時代はやっぱりひと連なりで、暦に関しては、幕末の人も元禄の人も同じようなものを使っていたことが分かるし、さらにいえば室町や鎌倉の頃も、暦の体裁は似たり寄ったりですから、そこから日本文化の不易と流行に思いをはせたり…という若干の効用はあります。