草下英明と宮沢賢治(4)2024年06月29日 19時21分46秒



草下の第一著書『宮沢賢治と星』(昭和28年、1953)に収められた文章を、発表順に並べ替えると以下のようになります(初出情報は1975年に出た改訂新版による。なお、「10. 総天然色映画…」は、「当時の時点での個人的な感想で、研究というものではなく、今考えても気恥ずかしい文章」という理由で、改訂新版からは削除されています)。


1. 『銀河鉄道の夜』の星
  「農民芸術」第4集、昭和22年9月(昭和28年5月改稿)
2. 賢治と日本の星
  「農民芸術」第6集、昭和23年3月
3. 星をどのくらいえがいたか
  「四次元」第27号、昭和27年3月
4. 賢治の星の表現について
  「新詩人」第7巻4号、昭和27年4月
5. 賢治の天文知識について
  「四次元」第29号、昭和27年6月
6. 賢治の読んだ天文書
  「四次元」第30号、昭和27年7月
7. 三日星とプレシオスの鎖
  「四次元」第31号、昭和27年8月
8. 賢治とマラルメを結ぶもの
  「四次元」第36号、昭和28年2月
9. 県技師の雲に対するステートメント
  「四次元」第42号、昭和28年5月
10. 総天然色映画『銀河鉄道の夜』
  未発表/書き下ろし
11. 宮澤賢治の作品に現れた星
  未発表/書き下ろし

年次を見ると、昭和23年(1948)から27年(1952)まで、少しブランクがあります。
前回述べたように、草下は昭和23年(1948)8月に念願の「子供の科学」編集部入りを果たし、昭和24年(1949)3月13日には、草下の仲立ちで、稲垣足穂と野尻抱影が最初で最後の顔合わせをするという、驚くべき「事件」もありましたが(過去記事にLINK)、基本的に身辺多忙を極め、独自に研究を進める余裕がなかったのでしょう。

(「子供の科学」発行元である誠文堂新光社・旧社屋(1937年築)。ブログ「ぼくの近代建築コレクション」より許可を得て転載)

しかし、その間も草下の賢治への関心は衰えることなく、昭和26年(1951)には5月と8月の2回花巻を訪れています。

〔昭和26年〕五月三~五日 連休を利用して宮澤賢治の故郷、岩手県花巻市を訪れた。「農民芸術」に二回ほど原稿をのせて頂いただけの縁なのに、厚かましくも関徳久彌氏をお訪ねし、さらに賢治の実弟である宮澤清六氏に御紹介頂いたのだから、かなり図々しいものである。〔…〕これまた粘って賢治の生原稿まで見せてもらった。「銀河鉄道の夜」や「夏夜狂躁」という詩の中で、どうしても確かめておきたい疑問の箇所があったからだ。「プレシオスの鎖」という明らかに天体を指すらしい謎めいた言葉と、「三日星(カシオペーア)」を、原稿で確かめたかったからである。〔…〕 (『星日記』127-8頁)

八月五日 友人と再び花巻市を訪れている。そのあと、仙台に移動して有名な七夕祭りに出会わした。〔…〕ただ、おどろいたのは、街を歩いていて、ばったり野尻先生と小島修介氏に出会ったことだ。野尻先生は七夕祭りに招かれて、小島氏はアストロ・サービスという天文普及の仕事兼野尻先生のボディガードで来ておられたのであった。しかし、何十万という人出の中でばったり会うなんて、まったく奇遇というべきであろう。〔…〕 (同128頁)

こうして原資料に当たり、着々と材料を揃え、翌昭和27年(1952)から、草下は立て続けに賢治と星に関する論考を発表していきます。その発表の場となったのが、「宮沢賢治友の会(後に宮沢賢治研究会)」の機関誌「四次元」です。

(昭和24年(1949)10月に出た「四次元」創刊号と、賢治没後25周年の昭和32年(1957)に出た号外の表紙。昭和57年(1982)に国書刊行会から出た復刻版のカラーコピー)

「四次元」については、ネットではよく分からなかったのですが、なんでも賢治全集を出していた十字屋書店(神田神保町)が始めた雑誌だそうで、最初は同社に「宮沢賢治友の会」事務局を置き、書店店頭でも販売していたのですが、1年もたたずに経営難から十字屋が撤退。以後は編集人の佐藤寛氏が「友の会」もろとも機関誌発行を引き継ぎ、葛飾区金町の佐藤宅がその拠点となりました。その後、氏の健康問題により昭和43年(1968)2月の第201号を以て終刊。昭和44年(1969)4月創刊の「賢治研究」(宮沢賢治研究会)がその後継誌となった…ということのようです。

(「四次元」を主宰した佐藤寛氏(1893-1970)。1972年3月発行「四次元 号外・佐藤寛追悼号」より)

   ★

草下が再び賢治研究にのめりこんだ昭和27年から28年(1952~53)は、草下のライフヒストリーでは節目の年です。

昭和27年、草下は誠文堂新光社内で「子供の科学」編集部から「科学画報」別冊編集部に配置換えとなり、そのことと関係があるのかないのか(おそらくあるでしょう)9月で同社を退社。

一時、友人が経営する小出版社に腰掛けで入ったあと、昭和28年(1953)に平凡社に転職して、『世界文化地理体系』というシリーズものの編集を手掛けることになりました。そして同年9月に出たのが第一著書『宮沢賢治と星』です。

(『宮沢賢治と星』1953年版、奥付)

こうして青年期の草下の動きを見ていると、身辺の変化と賢治との関わりが妙にシンクロして感じられます。この辺のことは活字になった『星日記』では明確に書かれていないし、ひょっとしたら草下自身意識していなかったかもしれないんですが、草下は人生の決断をするとき、賢治に何かヒントを求めていたんじゃないかなあ…という気もします。

   ★

以上、草下と賢治のかかわりを、『星日記』をざっと眺めて抜き書きしてみましたが、これは本当のラフデッサンで、これを見取り図として、これからいよいよ「草下資料」を深掘りしていこうという腹積もりです。ただ、時間もかかることなので、この件はしばらく寝かせておきます。

(この項いったん終わり)


【おまけ】
 『宮沢賢治と星』の1953年の初版には含まれず、1975年の改訂新版――こちらは正確には『宮澤賢治と星』と表記します――が出る際、新たに収録された論考についても、参考のため初出年代順に配列しておきます。

12. 賢治文学と天体
  昭和32年8月『宮沢賢治研究』(筑摩書房)掲載(昭和49年12月改稿)
13. SF作家の先駆者としての稲垣足穂と宮澤賢治
  昭和32年9月「宇宙塵」に掲載
  (改稿して「四次元」第100号、昭和33年12月に転載)
14. 『晴天恣意』への疑問
  「賢治研究」第4号、昭和45年4月
15. Xの字の天の川
  「賢治研究」第16号、昭和49年6月