旅のあとさき2024年07月11日 06時05分48秒

前回の文章を読み返すと、我ながらいくぶん屈折したものを感じます。

私の家は赤貧洗うが如き…とまでは言わないにしろ、あまり豊かな家ではなかったので、こうした「貧」のテーマと、自己憐憫の情は、自分の中に澱のように潜在していて、このブログがやたらとモノにこだわるのは、そうした欠落感を埋めるための試みに他ならない…といえば、まあ8割がた当たっているかもしれません。

「銀河鉄道の夜」を読んで、ジョバンニに肩入れしたくなるのも、そういう個人史が影響していると思います。

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連想で話を続けると、ジョバンニのカムパネルラに対する思いも、なかなか複雑なものがあったんじゃないでしょうか。

そこにあったのは、おそらく単純な友情だけではないでしょう。
カムパネルラを独占したいという気持ちも当然あったし、彼に対する微妙な嫉視とねたみもまたあったろうという気がします。

ですから意地悪な見方をすると、カムパネルラが死んだとき、ジョバンニの心のどこかに、それを喜ぶ心がわずかに混じっていた、そして「僕ががカムパネルラの死を望んだから、カムパネルラは死んだんだ」という罪悪感にジョバンニは苦しめられた…なんてことは「銀河鉄道の夜」のどこにも書いてありませんけれど、きっと山岸凉子さんあたりが「銀河鉄道の夜」を作品化したら、その辺が大きなテーマになるのかもしれません。

「銀河鉄道の夜」を勝手に深読みするといえば、昔、「銀河鉄道の夜」のアフターストーリーを考えたことがあります。


■その後のジョバンニ

2010年の記事ですから、ずいぶん昔に書いた文章ですけれど、読み返してみて、なかなかいいことが書いてあるなあと自画自賛しました。

「銀河鉄道の夜」は、物語としてはああいう形で決着していますが、物語内の世界線はさらに「可能な未来」に向かって伸びているわけで、登場人物たちのその後の人生には、必然的に「カムパネルラ溺死事件」が、暗く重い影を落とし続けたはず…と想像したものです。

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考えてみると、風の又三郎にしろ、グスコーブドリにしろ、旅立った者と残された者、それぞれに「その後」があり、それを想像すると物語にまた違った味わいが生まれてきますね。(物語の読み方としては、いくぶん邪道かもしれませんが。)