呑珠庵、渋澤龍彦を偲ぶ ― 2024年08月04日 11時22分10秒
今週は広島、長崎の慰霊の日が続きます。
そして広島平和記念日の前日、8月5日もまた鎮魂の日です。
★
文学者の渋澤龍彦(1928-1987)が亡くなったのは、今から37年前、昭和62年の8月5日のことでした。
私は渋澤の小説も訳業もほとんど読んだことがありませんが、彼の有名な北鎌倉の書斎(と隣の居間)のたたずまいは非常に好いていて、関連する本を折々手にしました。
したがって、私は渋澤龍彦のファンではないにしろ(渋澤のファンであれば、たぶん「澁澤龍彥」と書かねば気が済まないでしょう)、「渋澤の書斎のファン」ではあるのです。そういう人は意外に多いんじゃないでしょうか。
★
彼の没後30年を記念して、2017年に世田谷文学館で開催されたのが、「澁澤龍彥 ドラコニアの地平」展で、その図録として刊行されたのが、同題の単行本です。
(平凡社、2017)
先日、この7年前の図録を購入して、7年間の時の厚みが加わった過去をぼんやり回顧していました。考えてみれば、彼が生きていれば100歳老人も目前だし、彼が亡くなった年に生まれた人はすでに37歳ですから、渋澤が「昔の人」となるのも無理はありません。
★
図録の冒頭、「もしかしたら、ノスタルジアこそ、あらゆる芸術の源泉なのである」という渋澤の言葉が掲げられていて、虚を突かれました。
ノスタルジアを視野の外においた芸術も当然あると思うんですが、こうズバッと言われると、なんだか真理のような気もするし、何よりこのブログ自体がノスタルジアを源泉としているので、ひどく共感したということもあります。
「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば 生まれぬ先の親ぞ恋しき」
という道歌があります。
ノスタルジアというのは、自分の個人的経験を超えて、さらにその先に広がっているので、それもひっくるめれば、芸術――精神の営みといってもいいです――の多くがノスタルジアに発しているのも、また確かでしょう。
巌谷國士氏による寄稿「澁澤龍彥と文学の旅」には、ノスタルジアと並んで、「エクゾティシズム」、「インファンティリズム」、「遊び」、そして「書斎の旅」…といったタームが、渋澤を語る上でのキーワードとして出てきますが、これまた他人事ではないなあ…と感じました。
オブジェと書物を媒介として、「ここではないどこか」を旅するというのは、確かにこのブログがたどってきた道でもあります。
★
この図録には、渋澤邸に鎮座する例のオブジェ棚も出てきます。
ときどきは未亡人の龍子氏が掃除されるでしょうから、モノの配置は少しずつ変わっていますが、全体のたたずまいは、渋澤が亡くなった直後に撮影された写真↓と、さほど変わっていません。
(撮影・篠山紀信、「季刊みづゑ・1987冬」号(1987)より)
しかし、或るモノを見たとき、私は30年の歳月をふと感じました。
それは棚の上のサソリの標本です。
(1987年。ちょうど本の綴じにかかって、サソリが見えにくくなっています)
(2017年)
サソリが徐々にずり落ちている…。実に些細なことだし、サソリの位置ぐらいすぐに直せるでしょうが、両者の差異は、不磨のドラコニア王国にも頽落(ディケイ)の兆しが静かに忍び寄っていることを示すものと感じられました。
一面では悲しいことです。でも、変化のない世界には、ノスタルジアもまた生れようがありません。サソリは地へと墜ち、諸物は頽落していく。だからこそ、変わらぬものに価値が生まれ、いっそう輝きを増すのです。「変わらぬもの」のうちには、もちろんモノだけでなく、記憶や、過去そのものも含まれます。
★
書物は自由に時間を往還する手段を与えてくれます。
先ほど、上記展覧会の10年前に行われた没後20年展の図録、『澁澤龍彥 幻想美術館』(監修・巌谷國士、平凡社、2007)を新たに注文しました。
★
偉大なる書斎の先人、渋澤龍彦氏の旅の平安を祈ります。
コメント
_ S.U ― 2024年08月04日 14時38分25秒
渋澤龍彦は、案外昔に亡くなったのですね。私が渋澤の本に関心を持ったのは、足穂の昭和の明石時代以降のものを読むようになり、そして、一時流行った浅田彰氏のソシュール記号学に怒った頃でしたので、亡くなる直前だったのかなと思います。小説には興味がなく、やはり記号の哲学史のようなところが気になって、『思考の紋章学』というのを手にとったかもしれませんがよく覚えていません。ノンフィクションの歴史ものを求めていたのですが、そういうものではなかったのかもしれません。気にはなっても、結局読もうとは思わない人になっています。足穂は、私にとってはノンフィクションです。
_ 玉青 ― 2024年08月06日 18時08分53秒
37年間の重みを改めて噛み締めています。
そういえば、私も渋澤の齢を超えたなあ…と気づいて、ひそかに衝撃を受けています。まあ、それを言い出すと漱石も鴎外も既に超えてしまったわけで、これは比べる方が間違っているかもしれませんが、己の未熟な人生を省みると、やっぱりちょっと恥かしいです。
そういえば、私も渋澤の齢を超えたなあ…と気づいて、ひそかに衝撃を受けています。まあ、それを言い出すと漱石も鴎外も既に超えてしまったわけで、これは比べる方が間違っているかもしれませんが、己の未熟な人生を省みると、やっぱりちょっと恥かしいです。
_ S.U ― 2024年08月07日 05時48分34秒
>齢を超えたなあ…
そういう感じはありますね。昔は平均寿命が短かったというのが大きいですが、渋澤や漱石や鴎外はいわば比較的守備攻撃範囲の広いタイプの人だったので、そういう人同士で比べると、なかなか年齢にものを言わせて及ばない印象があるのではないかと思います。
一方、画を描くよりほかに取り柄がなかったと思われる葛飾北斎のことばに、「己六才より物の形状を写の癖ありて、・・・ 七十年前画く所は実に取に足ものなし。・・・百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん」というのがあって、これを初めて知った時は、そんなアホなことあるかい、と思ったものですが、こと技術一点にしぼれば精神力と集中力次第でこういうことは十分にありうる、齢を取るだけ言動や作品に世人が驚くような味を出してくる人はいくらでもいるし、現に北斎の最晩年の作がそれを証明している、と最近は思うようになりました。技の方向の方針さえ正しく選べば、年齢にものを言わせる無限の可能性があるものと思っています。
そういう感じはありますね。昔は平均寿命が短かったというのが大きいですが、渋澤や漱石や鴎外はいわば比較的守備攻撃範囲の広いタイプの人だったので、そういう人同士で比べると、なかなか年齢にものを言わせて及ばない印象があるのではないかと思います。
一方、画を描くよりほかに取り柄がなかったと思われる葛飾北斎のことばに、「己六才より物の形状を写の癖ありて、・・・ 七十年前画く所は実に取に足ものなし。・・・百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん」というのがあって、これを初めて知った時は、そんなアホなことあるかい、と思ったものですが、こと技術一点にしぼれば精神力と集中力次第でこういうことは十分にありうる、齢を取るだけ言動や作品に世人が驚くような味を出してくる人はいくらでもいるし、現に北斎の最晩年の作がそれを証明している、と最近は思うようになりました。技の方向の方針さえ正しく選べば、年齢にものを言わせる無限の可能性があるものと思っています。
_ 玉青 ― 2024年08月07日 06時11分39秒
ありがとうございます。大いに勇気づけられます。
ただし、「精神力と集中力次第で」という縛りは結構きついですね。最近、いずれも衰えを感じます。まあ、そこは抗いがたいところなので、「いざさらば雪見にころぶところまで」の心境ですかね。
ただし、「精神力と集中力次第で」という縛りは結構きついですね。最近、いずれも衰えを感じます。まあ、そこは抗いがたいところなので、「いざさらば雪見にころぶところまで」の心境ですかね。
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
最近のコメント