掛図のある風景(後編)2024年08月13日 18時51分46秒

ブルガリアの小学校の壁面を飾っていた博物掛図の数々。その中で目立つのが野生の哺乳類の掛図です。


(画像再掲)

子どもたちの人気者、シカやリスやライオン。
これらの図で特徴的なのは、動物たちが自然環境下で暮らしているように、つまり動物の形態だけでなく、その生活様式と生息環境が分かるように表現されていることです。また、いずれも番(つがい)で描かれているのも目を引きます。

(同)

淡水魚類の図は、5種を並べて図鑑風に描いている点がちょっと違いますが、それでもその生息環境分かるよう、生態画風の描写になっています。

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これを見て、はたと膝を打ったことがあります。
昔、イタリアのMassimiano Bucchiという人が書いた論文をかいつまんで、掛図の歴史を振り返ったことがあります。今から16年も前のことなので、16年ぶりに老いたる膝を打ったわけです。

■掛図の歴史(2)(3)(4)

そこで述べたことを再度書いておくと、学校教育における掛図の歴史は長いですが、1870年~1920年の半世紀こそが、まさに 「掛図の黄金時代」であり、当時、博物学の教授法の改良、すなわち「教師は生徒に無味乾燥な記述と分類を教えるのではなく、生きた自然そのものを教えねばならない」という主張がなされたことが、動植物の掛図の質的発展を促した…というのです。

 「旧来の博物学掛図は、キノコならキノコだけをずらり並べて描くだけでしたが、生物と生活環境との関係が重視された結果、生物のみを取り出して描くのではなしに、それが野外で生活する様を描いた、一見風景画のような掛図が生まれ、さらにこれが「生徒に審美的にも良い影響を与える」と評価されたりもしたのです。」(掛図の歴史(3))

なるほど、こうした掛図変革の波が、ブルガリアの地方都市にも及び、ああいう掛図がずらっと並ぶ光景を生み出したのだな…と、深く得心がいきました。言い換えると、あの教室風景こそ「掛図の黄金時代」をリアルタイムで活写したものというわけです。

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以下、駄弁になります。

「生きた自然を教える」というのは、理念としては素晴らしいですが、なかなか実行するのは難しいですね。そもそも、1枚の絵で動物の生活全体を理解させるのは無理な話で、無理が通れば道理が引っ込むのが世の習いです。

まあ、絵師というのは、1枚の絵で相手に「理解できた」と思わせるのが、才能であり才覚だ…ぐらいに思っていたかもしれませんが、そのためには絵を見る人をして、そこに描かれた以上の情報を、無意識のうちに補わせるような工夫が必要です。その代表が「擬人化」の手法で、上の掛図でいえば、動物たちがみな一夫一婦制の生活を送っているように描いているのはその好例でしょう。

「ライオンのお父さん」「ライオンのお母さん」の絵を見た子供たちは、ただちに「人間のお父さん」「人間のお母さん」の役割や関係性をそこに重ねてしまいます。周知のようにライオンの社会は人間のそれとはだいぶ違うので、子どもたちの素朴な理解は端的にいって間違いですが、その点は教える側の先生も、だいぶ怪しかった気がします。

「後知恵」で過去を断罪するのは控えるにしても、少なくとも「自然に見える描写」と「自然の描写」は違うんだという教訓を、我々はここから汲み取ることができます。(どれほど「最新の学説」に基づいていようが、「恐竜の生活をリアルなCGで再現」みたいな番組は、よっぽど注意しないといけないと思っています。)

【閑語】東京湾を眺めながら2024年08月14日 16時05分31秒

「東京湾と一口にいうけどさ、海岸線を近くでよーく見ると、出っ張ってるところや引っ込んでいるところが一杯あってね、立派な岬もあれば、名のある支湾もあるんだよ。だから、これはまあ、君が思っているほど単純な世界じゃないのさ。」

…と訳知り顔でいう人がいたとして、それで「東京湾は湾である」という明白な事実が覆るわけではありません。


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「イスラエル政府のやっていることは、単なる虐殺行為である」という主張も、東京湾が湾であるのと同じぐらい明白なことと私には思えます。さかしらなことを言ったり、あえて煙に巻こうとする人がいたら、大局的に見てダメなものは、やっぱりダメだと、はっきり言わないといけません。

先日の長崎の一件で、アメリカをはじめとする各国大使の言い分を聞きながら、そんなことを思いました。

「鬼と星」アゲイン2024年08月16日 19時17分49秒

以前、鬼と星の絵柄の湯飲みのことを書きました。

(同上)

この図がいったい何を意味しているのか、その時はまったく分かりませんでしたが、昨日、偶然その謎が解けました。これは「魁星図」あるいは「魁星点斗図」というものだそうです。

魁星とは何か?
どうもソースによって微妙に違うのですが、ここは本場中国に敬意を表して、「百度百科」を参照すると、北斗七星の柄杓の桝(水を汲む方)を構成する4つの星を総称して「魁星」といい、古来文章の神様として尊崇され、ひいては科挙試験の神様として拝まれたものだそうです(科挙試験の首席合格者を「魁甲」あるいは「魁首」と称しました)。まあ、日本の天神様みたいなものでしょう。

魁星が奇怪な鬼の姿で描かれるのは、「魁」の字を分解して、「鬼が斗(升)を蹴り上げる姿」に見立てたからで、このへんは完全に言葉遊びですね。そこに星の絵を添えれば、文字通り「魁星」というわけです。

(「魁星点斗独占鼇頭」図。出典:百度百科の同項より)

さらにその鬼が筆を持ち、伝説の巨亀「鼇(ごう)」に乗っているのが、絵に描くときのお約束で、これは「魁星点斗、独占鼇頭」、すなわち科挙試験に合格すると、受験者名簿の姓名欄に墨で点が打たれ、皇帝に拝謁する際は、首席合格者だけが宮殿前庭に置かれた鼇の像の頭上に立つことを許された…という故事に由来する絵柄だそうです。

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これが湯呑の絵になると、全体が大幅に簡略化されて、蹴り上げているはずの「斗」もないし、「鼇」の姿もありませんが、そもそも日本に科挙制度はないので、あまり細部にこだわらず、それっぽく見えればよかったのかもしれません。いずれにしても、学問成就や家運隆昌といった意味合いを込めて、一種の吉祥画として江戸の人に受容されたのでしょう。

あるいは科挙制度から縁遠いからこそ、こういう異国の蘊蓄を語ることが、ぺダンティックな江戸の文人趣味に叶い、一部でもてはやされたのではないか…とも想像します(もっぱら染付の煎茶碗や香炉に描かれるところが、何となく文人趣味臭いです)。

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何はともあれ、継続は力なり―。
こうして謎が解けて、またひとつ心が軽くなりました。


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【付記】 本項を書くにあたり、上記以外に以下のページを参照しました。

青森県立図書館:伝える伝わる本の世界~「書物の世界」編~
 書物の神様「魁星」其の壱、其の弐
集字魁星点斗図
遅生の故玩館ブログ:古染付魁星点斗図煎茶碗(5客)

苛酷な夏2024年08月18日 09時06分14秒

名古屋は24日間連続の猛暑日というニュースが流れていました。
これはもちろん過去最長で、記録はさらに伸びる見込みです。
ツクツクボウシが盛んに鳴く時期のはずですが、まだ2、3回耳にしただけで、今年はいろいろ勝手が違います。

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暑さもさることながら、私の町には雨が全く降らないので困っています。
ちょっと離れたところで局地的な雷雨が…みたいな話は聞くのですが、夕立からも避けられているようで、ときどき思い出したように打ち水をしても、地面はすぐにカラカラです。動植物にとってもきわめて苛酷な夏です。
各地で水の被害も出ているというのに、なかなか思うようにいかないものです。


庭のすみっこの水瓶。
この水瓶は木陰にあって、嵩(かさ)も大きいので、メダカも炎暑に負けず、このまま夏を越せそうです。水草が繁茂しているおかげで、今年生まれたメダカの子供たちも、そのまま無事大きくなりました。


一方、蒸散もはげしいため、毎日ホースで水を補っていますが、それを目当てにアシナガバチが来る、スズメバチが来る、蝶が来る、小鳥が来る…というわけで、近隣の生き物たちにとって、この水瓶が大事な「水場」と認められているのを知ったときは、ちょっと嬉しかったです。

「みんな苦労してるんだなあ…」と、仲間意識を勝手連的に感じて、打ち水の手にも力がこもります。

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そんな中、例の「32度以下に室温が下がらない職場」で働き続けているせいで、身体の深いところに疲れがたまっているのを感じます。まともにものを考えることもできないので、ブログもしばらくは開店休業状態でしょう。

猛暑、風水害、地震…多くの方が大変な夏を過されていると思います。
どうかくれぐれもご自愛くださいますように。

Quiet Sun、静かなる太陽2024年08月24日 14時43分52秒

依然として暑いです。でも、ここに来て猛暑にもかげりが見えてきました。
コオロギがしきりに鳴くし、その後雨も降ったので、庭の植物もすっかり息を吹き返しました。接近中の台風10号が通過する頃には、もうすっかり秋の気配でしょう。

朝もだいぶ涼しくなりました…と言いつつ、これは人間の方が暑さに慣れたせいもあります。何せ最高気温が35度だと「今日はまだいいな」と思うぐらいになっているので、人間の適応力もなかなか馬鹿にできません。

自分の書いたものを読み返すと、最近は嘆き節が多く、「地球はいったいどうなってしまうのか?」という悲憤も洩らしていますが、今夏はそれが身に沁みて感じられました。

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今から60年前、1964年は「太陽極小期国際観測年(International Year of the Quiet Sun;IQSY)」でした。太陽黒点の極小期に合わせて、1964年1月1日から翌1965年12月31日まで、国際共同観測が精力的に行われた年です。


ブルガリアで発行されたIQSYの記念切手。
当時の共産圏の印刷物には味のあるものが多いですが、これもなかなか趣がありますね。


うーむ、カッコいいなあ…と思いますが、こういうカッコよさは、いったいどこから来るのか、自分でもちょっと言葉にしづらいです。


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それにしても、太陽活動の変化は、地球にどんな影響をもたらすのか?
奇しくも前年の1963年(昭和38年)は名高い「三八(さんぱち)豪雪」の年で、世界中が厳寒の冬でした。それも太陽黒点の減少と関係があるのかどうか。確定的なことは依然明らかではないと思いますが、少なくとも風と桶屋の懐具合よりは関係があるのでしょう。

よく知られるように、太陽黒点は11年周期で極大・極小を繰り返していますが、そこにはさらに長周期の変動もあって、近年は極大期でも黒点の出現そのものが減っています。つまり現在、太陽は長期的停滞の時期にあるらしく、だったらもうちょっと涼しくてもいいのになあ…と思いますが、そこが複雑系の難しさ。これで太陽活動が活発だったら、さらに暑くなっていたかもしれず、今は太陽の停滞に感謝すべきかもしれません。

ストックブックを開いて…再び太陽観測年の話2024年08月25日 15時43分52秒

ストックブックというのは、切手保存用のポケットがついた冊子体の郵趣グッズで、それ自体は特にどうということのない、いわば無味無臭の存在ですが、半世紀余り前の切手ブームを知っている者には、独特の懐かしさを感じさせるアイテムです。

その後、子ども時代の切手収集とは別に、天文古玩の一分野として、宇宙ものの切手をせっせと買っていた時期があるので、ストックブックは今も身近な存在です。

最近は切手に意識が向いていないので、ストックブックを開く機会も少ないですが、開けば開いただけのことはあって、「おお、こんな切手もあったか!」と、感興を新たにするのが常です。そこに並ぶ古い切手はもちろん、ストックブックという存在も懐かしいし、さらには自分の趣味の変遷史をそこに重ねて、もろもろノスタルジアの源泉ではあります。

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昨日、「太陽極小期国際観測年(IQSY)」の記念切手を登場させましたが、ストックブックを見ていたら、同じIQSYの記念切手のセットがもう一つありました。


同じく東欧の、こちらはハンガリーの切手です。
この切手も、そのデザインの妙にしばし見入ってしまいます。

時代はスペースエイジの只中ですから、ロケットや人工衛星も駆使して、地上から、成層圏から、宇宙空間から、太陽本体の活動に加え、地磁気、電離層、オーロラと大気光、宇宙線など、様々な対象に狙いを定めた集中的な観測が全地球的に行われたと聞きます。


IQSYは、太陽黒点の極大期である1957年~1958年に設定された「国際地球観測年(International Geophysical Year;IGY)」と対になるもので(※)、さらに極地を対象とする観測プロジェクト、「国際極年(International Polar Year;IPY)」がその前身だそうで、その流れを汲むIQSYも、いきおい極地観測に力が入るし、そもそも太陽が地球に及ぼす影響を考える上で、磁力線の“出入口”である南北の磁極付近は最重要スポットなので、この切手でも極地の描写が目立ちます。


下の左端の切手は、バンアレン帯の概念図。
宇宙から飛来した電子・陽子が地球磁場に捕捉されて出来たバンアレン帯は、1958年の国際地球観測年のおりに、アメリカの人工衛星エクスプローラー1号の観測成果をもとに発見されたものです。

東西冷戦下でも、こうした国際協力があったことは一種の「美談」といってよいですが、それでも研究者以外の外野を含め、美談の陰には何とやら、なかなか一筋縄ではいかない現実もあったでしょう。


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(※)【2024.8.25訂正】
上記の記述には事実誤認があるので、以下の通り訂正します。

(誤) 「IQSYは、太陽黒点の極大期である1957年~58年に設定された「国際地球観測年(International Geophysical Year;IGY)」と対になるもので」
(正) 「IQSYは、太陽黒点が極大期を迎える1968~70年の「太陽活動期国際観測年(International Active Sun Years;IASY)と対になって、1957~ 58年に設定された「国際地球観測年(International Geophysical Year;IGY)」を引き継ぐもので」

「地球観測年に捧げる曲」が流れた時代2024年08月26日 19時35分09秒

前回書いたように、1964~65年の「太陽極小期国際観測年(IQSY)」は、「国際地球観測年(IGY)」の後継プロジェクトであり、IGYは前者の7年前、1957年7月1日から1958年12月31日を計画期間と定め、実施されました。

ついでといっては何ですが、そのIGY、国際地球観測年の記念切手も載せておきます。こちらも前回と同じハンガリーのものです。


切手では「1957年から59年まで」とあって、「あれ、1年長いぞ?」と思ったんですが、IGYは1958年でいったん終了したあと、おまけのプロジェクト、「国際地球観測協力年(International Geophysical Cooperation Year)」というのが1959年いっぱい続いたので、たぶんそれを勘定に入れているのでしょう。

IGYは東西のブロックを越えて、67の国が参加し、バンアレン帯の発見、プレートテクトニクス理論の確立につながる大西洋中央海嶺の全容解明、南極条約の締結など、多くの重要な成果をもたらしました。身近なところでは、日本の昭和基地が南極に設置(1957)されたのも、IGYの副産物です。

東西両陣営を仕切る「鉄のカーテン」を越えて、科学者がIGYに結集できたのは、スターリンが1953年に死亡し、融和ムードが生まれたことによるらしいのですが、しかしIGYによって新たな東西対決の火ぶたも切って落とされました。すなわち宇宙開発競争の始まりです。これこそ、ある意味でIGYの最大の「成果」でしょう。(それ以前から始まっていた「制宙権」争いを、IGYが強く後押しした…と言ったほうが、より正確かもしれませんが。)


上の横長の切手は、IGY記念切手とは別の宇宙切手シリーズに含まれるスプートニク1号(1957年10月打ち上げ)(※)で、その左下がスプートニク3号(同1958年5月)です。スプートニクに対抗して、アメリカが大急ぎで打ち上げたのが、エクスプローラー1号(同1958年2月)で、これがバンアレン帯の発見につながった…というのは、既に述べました。そしてNASAが設立されたのも、1958年7月のことです。

これら一連の出来事の背後にあったものこそIGYであり、その影響の大きさがうかがい知れます。

IGYについては、日本語版ウィキペディアにも当然項目がありますが、英語版Wikipediaを見たら、トリヴィアルなことも含めて、いっそう詳細な説明がありました。

中でも興味深いのは、IGYがポップカルチャーに及ぼした影響の項目です。
IGYはもちろん真面目なドキュメンタリー番組でも取り上げられましたが、それだけでなく、複数のマンガの題材にもなったし、「1957年の地球観測年に捧げる曲」というジャズナンバーが作られ、後の1982年には「IGY (What a Beautiful World) 」という曲がビルボードのヒットチャートで順位を伸ばし、グラミー賞の年間最優秀楽曲にノミネートされた…といったことが書かれていました。

IGYは科学の世界を越えて、物心両面で人々の生活に大きな影響を及ぼした、戦後の一大イベントだったと言えるんじゃないでしょうか。

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(※)【2024.8.28訂正】 上の切手の画題を「スプートニク1号」と書きましたが、これは「ルナ1号」(ソ連の月探査機、1959年1月2日打ち上げ)であろうと、S.Uさんからコメント欄を通じてご教示いただきました。ご指摘の通りですので訂正します。

グランヴィル 『Les Étoiles』2024年08月31日 10時01分01秒

オリンピックに続き、パラリンピックがパリで始まりました。
今日はパリにちなむ話。

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西洋古書愛好家には、「19世紀フランス挿絵本」というジャンルが耳に親しいと思います。これはひとえにフランス文学者の鹿島茂氏が、古書エッセイでせっせと宣伝に努めたおかげだと思いますが、このジャンルの巨魁に、グランヴィル(J.J. Grandville、1803-1847)という挿絵画家がいます。

彼の風刺のきいた奇抜な挿絵は評判を呼び、いわゆる挿絵画家、すなわち文章に合わせて絵を描くのではなく、彼の絵に作家が文章を当てた著作が出るほどで、こうなるともう「挿絵画家」というより、単なる「画家」ですね。しかし、盛名をはせたグランヴィルも時流と運命には逆らえず、妻に先立たれ、次々と子を喪い、病を得た末に、最期は救貧院で息を引き取りました。

グランヴィルの死後、彼の遺作である「星に変身した女性」という11枚の連作に、Méryという人が文章を添えて出版されたのが、『Les Étoiles (レ・ゼトワール、‘星々’の意)』(1849)です。ただし、それだけだとボリューム不足ということで、こうして出来上がった「第1部: レ・ゼトワール、最後の妖精物語」に、フェリックス伯爵夫人が著した占星術入門書に、グランヴィルとは別人が挿絵を描いた「第2部: 貴婦人の占星術」というのを抱き合わせにして、無理やり一冊にしたのが、『Les Étoiles』でした。

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…というのは、鹿島氏の『愛書狂』(角川春樹事務所、1998)の受け売りで、私もそう信じていましたが、ここには誤解があって、『Les Étoiles』の第2部は、占星術入門書ではなく、「貴婦人の天文学(Astronomie des Dames)」という、太陽系の諸天体や星座を解説する普通の天文入門書です(最後に「貴婦人の気象学(Météorologie des Dames)」という章が続きます)。

(「貴婦人の天文学」より。挿絵画家の名は表示がなく不明。天文学史の本で折々目にする、結構有名な絵ですが、その出典が 『Les Étoiles』です)

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『Les Étoiles』は印刷部数が少なかったせいで、グランヴィルの諸作品の中でも集めにくいものの代表で、鹿島氏もパリ在住中は、なかなか出会えなかったといいます。もちろん今は古書検索サイトのおかげで、状況が劇的に変わりましたが、結構なお値段であることは変わりません。試みにAbeBooksを見たら、現在の出物は11点、お値段はドル建てで627ドルから7,500ドルまでとなっていました。

(美しいカルトナージュ・ロマンチック装の一冊。価格は4,025ユーロ、日本円で64万6千円也)。

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星に関わる本ということで、私も13年前に奮発して1冊買いました。


ただし、ウン十万円というような買物ではなく、当時のレートで約1万3千円でした。これは背革装のぱっとしない本であることに加えて、冒頭のグランヴィルの肖像とタイトルページが欠けているという、決定的な「傷」があったからです。

(羊飼いの星)

(美しい星)

しかし、それ以外の13枚の図版はすべて含まれているので、確かに本としては傷物ですが、グランヴィルのオリジナル版画が1枚1000円で手に入ると考えれば、リーズナブルな買い物だともいえます。この辺はいろいろな価値基準が交錯するところでしょう。

(夕暮れの星)

(悪い星)

再び鹿島氏の『愛書狂』より。

 「〔…〕グランヴィルは『フルール・アニメ』を書き上げたあと、「私はこれまであまりに長いあいだ地上のほうにばかり目を向けてきた。だから、今度は天のほうを眺めてみたい」と二度目の妻に語っていたからである。あるいは、グランヴィルは『もうひとつの世界』でフーリエの宇宙観を絵解きしたことがあるので、人間の魂は地球に八万年住んだあと、今度は地球の魂に引き連れられてほかの惑星に移住するというフーリエの思想に影響をうけたのかもしれない。死期が近づくにつれて、星々が、自分よりもさきにみまかった先妻やその子供たちの住む場所に思えてきたという可能性は十分にある。なかでも、「悪い星」「ある惑星とその衛星」と題された絵は、グランヴィルを見舞った家庭の不幸の絵解きのような気がしてならない。」(p.127)

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この本を売ってくれたのはパリ16区の古書店で、先ほど見たら今も盛業中でした。ただし、名物店主氏は、昨年8月に星界に召された由。まさに諸行無常、万物流転。