蟹と月と琴(後編)2024年09月08日 13時35分09秒

(今日は2連投です)

もう一つの万葉集云々ですが、これは『万葉集』巻十六に収められた「乞食者(ほかひひと)が詠(うた)ふ歌二首」のうちの一首を指します。

新潮日本古典集成(青木生子他校注)の注釈によれば、「乞食者(ほかひひと)」とは、いわゆる路傍で物乞いする人ではなく、「家々の門口を廻って寿歌(ほぎうた)などを歌って祝い、施しを受けた門付け芸人」とあります。


万葉集は、その寿歌を2首採録していて、1首目は鹿の歌、2首目が蟹の歌です。
いずれも捕らえられた鹿と蟹が、やがて我が身が大君のお役に立つであろうと、彼ら自身が述べる体裁になっています。まあ、鹿や蟹にとっては災難ですが、人間側から見れば、豊猟や豊漁を予祝する歌といったところでしょうか。

煩をいとわず、蟹の歌を全文掲げれば以下の通りです(新潮日本古典集成による。太字・改行は引用者)。

おしてるや 難波の小江(をえ)に
廬(いほ)作り 隠(なま)りて居る
葦蟹(あしがに)を 大君召すと
何せむに  我を召すらめや
明(あきら)けく 我が知ることを
歌人(うたびと)と 我を召すらめや
笛吹きと 我を召すらめや
琴弾きと 我を召すらめや
かもかくも 命(みこと)受けむと
今日今日(けふけふ)と 飛鳥に至り 
置くとも 置勿(おくな)に至り
つかねども 都久野(つくの)に至り
東(ひむがし)の 中の御門(みかど)ゆ
参入(まゐ)り来て 命(みこと)受くれば
馬にこそ ふもだしかくもの
牛にこそ 鼻縄(はななは)はくれ
あしひきの この片山(かたやま)の もむ楡を
五百枝(いほえ)剥き垂れ
天照るや 日の異(け)に干し
さひづるや 韓臼(からうす)に搗き
庭に立つ 手臼(てうす)に搗き
おしてるや 難波の小江の 初垂(はつたり)を からく垂れ来て
陶人(すゑひと)の 作れる瓶(かめ)を
今日行きて 明日取り持ち来(き)
我が目らに 塩塗りたまひ
腊(きた)ひはやすも 腊(きた)ひはやすも

以下、同じく現代語訳。

難波入江の葦原に廬りを作って、潜んでいるこの葦蟹めなのに、大君がお召しとのこと、どうして私などお召しなのか、私にははっきりわかっていることなんだけど、歌人にとお召しになるものか、笛吹にとお召しになるものか、琴弾きにとお召しになるものか、でもまあ、お召しは受けましょうと、今日か明日かの飛鳥に着き、置いても置勿(おくな)に辿り着き、杖も突かぬに都久野(つくの)に着き。さて東の中の御門から参上して仰せを承ると、馬にならほだしを懸けて当りまえ、牛になら鼻緒をつけて当りまえ、なのに蟹の私を紐で縛りつけてから、傍(そば)の端山(はやま)の楡の皮を五百枚も剥いで吊し、お天道様でこってり干し上げ、韓臼で荒搗きし、手臼で搗き上げ、故郷(ふるさと)難波江の塩の初垂り、その辛い辛いやつを溜めて来て、陶(すえ)の人が焼いた瓶を今日一走りして明日には持ち帰り、そいつに入れた塩を私の目にまで塗りつけて、乾物にし上げて舌鼓なさるよ、乾物にし上げて舌鼓なさるよ。

この歌に関連して、国文学者の吉田修作氏は、

 「三八八六番歌には「琴弾き」の前に「歌人」「笛吹き」とあり、それらの歌舞音曲の担い手として「吾を召すらめや」という文脈の中に位置付けられている。これらに対し、代匠記〔※引用者注:江戸時代の国学者・契沖による『万葉集』の注釈書、『万葉代匠記』のこと〕は蟹が白い沫を吹く動作や「手ノ数モ多ク爪アリテ琴ヲモ引ツベク見ユル故ナリ」との解答を与えている。蟹の動作を擬人化、戯画化したということだが〔…〕」

と述べられています(吉田修作『古代文学表現論―古事記・日本書紀を中心にして』(おうふう、 2013)、25頁)。

   ★

結局、万葉集の蟹は琴を弾くこともなく、干物にして食べられて終わりで、あんまり風流な結末ではないんですが、蟹と琴の関係を古典に求めると、確かにこういう細い糸があります。

しかし、この糸はいかにも細く、頼りなげです。
そしてあまり風雅・富貴な歌ともいえません。
それにこれだけだと、蟹と琴はいいとしても、月の存在が宙に浮いてしまいます。
ここまで追ってきても、依然この硯箱の謎は深いです。

   ★

うーむ…と腕組みしながら、しばし考えました。
ひょっとしたら、この硯箱は万人向けの、いわば普遍的な風雅や吉祥をテーマにしたものではなく、注文主(最初の持ち主)の属人的な記念品として制作されたのではあるまいか?

なんだか最後の最後で、ちゃぶ台返しのような結論になりますが、そうでも考えないと、この硯箱が存在する意味が分かりません。

(画像再掲)

たとえば、これは可児氏ゆかりの女性が、亡夫追善のため「想夫恋」を下敷きに作らせた硯箱であり、蟹は仏を象徴する「真如の月」を拝んでいるのだ…といったようなストーリーです。まあ出まかせでよければ、ほかにいくらでもストーリーは作れますけれど、そうなると、この絵柄の意味は注文主だけに分かる「暗号」であり、その謎は永遠に解けないことになります。

(関ケ原合戦図屏風に描かれた戦国武将・可児吉長(才蔵))

ここまで頑張ってきて残念ですが、今のところはこれが限界のようです。

(不全感を残しつつ、この項いったん終わり)

コメント

_ S.U ― 2024年09月08日 14時59分16秒

こういう連想ゲームみたいな謎解きは楽しいですね。
蟹と月の関係は、生態学的に解決させたとして、蟹と琴の関係は、私も、昨日、瞬時にひらめいた古典があったので、単なる連想であまり正しいとは思っていませんが、一応、ご披露しておきます。

 私のほうでは、蟹と琴は直接は繋がりません。「廃船」をなかだちにします。廃船と琴には、記紀歌謡に「枯野」というのがあって、「枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り 掻き弾くや・・・」というのがあると、高校の国語教科書にあった福永武彦の「飛天」で学んだのを覚えています。「枯野」というのは、伝説上の船の名で、それを廃船にして焼いた残りから、琴をつくったそうです。たぶん、名のある伝説で、歌謡の文学としても秀逸で印象的と思います。

 廃船と蟹の関係で、私がすぐに思い出したのは、太宰治の「右大臣実朝」に、公暁が実朝の渡宋船が放置されているところから蟹を採取して食べちらかすシーンです。のちの殺害事件の布石となる印象的なシーンですが、これは『吾妻鏡』などの取材ではなく太宰のオリジナルらしく、江戸時代まで遡りません。でも、廃船と蟹の相性は良いと思うので、太宰でなくても、他に文献はあるものと期待します。いずれにしても、絵に描かれていないなかだちを必要にする点が苦しいですね。

 蛇足ですが、西洋の星座に「かに座」とともに「こと座」がありますね。かに座は黄道十二星座なのでインド経由かで日本でも知られていた可能性が高いですが、こと座が日本で江戸時代に遡るかどうか。西洋の竪琴は、戦国時代にキリスト教宣教師がいた時代に、セミナリヨの学生らが奏でたものと思いますが、星座として伝わっていたかは、さっぱりわかりません。

_ 玉青 ― 2024年09月08日 17時49分28秒

個人的印象ですが、こういう蒔絵の画題は、たいてい同時代の平均的知識人の文芸的素養の範囲から選ばれており、あまり突飛な判じ絵めいたものはない気がします。具体的には勅撰和歌集中の秀歌や、類歌の多いポピュラーな詠題、名高い歌枕、源氏物語や伊勢物語の有名なシーンなどです。

しかし、この「蟹・月・琴」の取り合わせは、そうした素養の範囲を超えているように感じます。となると、これは上記の選好プロセスとはまた別の論理、すなわち公共的理解を目的としない、すぐれて私的な目的から制作されたものではないか?…というのが、私の推測の眼目です。

いったんそうと決まれば、S.Uさんの枯野の琴説も、私の珍説も、受容する人が自由に想像の翼を広げて解釈してよいことになりますが、ただ上の推測自体が未確定なので、とりあえず今回は種蒔きだけしておいて、いつか芽が吹くのを待つことにします。

   +

ときにこと座の受容史ですが、安土桃山時代のセミナリヨやコレジオでは、天文学も教授されたそうですから、こと座を知っている日本人がいても不思議ではないですが、仮にいたとしても、それは禁教令とともに、速やかに絶えてしまったのでしょう。

次の画期は『天経或問』の招来で、私はうっかり見落としてましたが、同書の星図は北天星座については、すべて伝統的な中国星座になっていますが、南天星座は蛇(みずへび)、火鳥(ほうおう)、鳥喙(きょしちょう)。孔雀(くじゃく)、波斯(インディアン)、異雀(ふうちょう)、三角(みなみのさんかく)、蜜蜂(はえ)、十字架(みなみじゅうじ)等々、西洋星座がしっかり登場していますね。ということは、少なくとも原本成立の時点で、著者(游藝)の手元には西洋星図があったはずで、当然、北天の西洋星座についても、中国人の一部は知識として持っていたはずです。それがさらに海を越えて日本まで到達したのかどうか? 文献上は確認できなくても、ソ連のロケットじゃありませんが、人の口に戸は立てられませんから、ただちに否定もできないですよね。今後の事実解明に期待したいところです。

_ S.U ― 2024年09月09日 05時51分11秒

思考範囲の制限が取り払われますと、ぐっと楽になりますね。でも、答えを確定するのはより困難になります。私の感覚では、月、蟹、琴は、何か無関係ではなく隠れた糸で結ばれていて、可能性としては、それぞれが一つの共通物のメタファーになっていて三者が「友だち」として行動しているような気がします。だったら、共通物は描かないほうがいいことになります(「判じ物」になってしまいますが)。この共通物というのは、ここで提案されたものとしては、船、海岸、あるいは文武の芸などが考えられますが、もっと、バシッと限定されたものが見つかればと思います。可児氏の可能性もあるかもしれません。可児氏の家紋に蟹があるとは、江戸歌舞伎グッズの手ぬぐいみたいです。家紋もさばけているのですね。

 おっしゃるように中国大陸に長く西洋人宣教師がいたことを考えると、西洋の(北天)星座が日本で見当たらないほうが不思議に思えてきました。江戸期の占星術の研究を広く探せばあるのかもしれませんが、研究者の文献は、仏教、儒教、道教などに対象が意図的に偏っているのかもしれません。

_ S.U ― 2024年09月11日 07時16分49秒

すみません。
後学のために、一つ別の質問をさせてください。
この蒔絵で、月面の塗りつぶしは、銀箔でしょうか?

 酒井抱一の花鳥図や襖絵で、月に銀箔を使っているのがあって、そういう感覚のものかなという疑問を持っています。

_ S.U ― 2024年09月11日 07時25分48秒

重ねてすみません。「前編」でお示しのページに、「月は銀の板を切り抜いた平文(ひょうもん)で表わす」とありました。銀の板だそうです。自己解決です。「平文」の意味は、金属板を埋め込む技法である以上のことはわかりませんでした。
 現代人の感覚では、金箔を使いたいところですが、昔は空気が澄んでいて、月が銀色に見えたのかも知れません。この点は気になります。あるいは、別の工芸上での約束事なのかもしれないと思います。

_ 玉青 ― 2024年09月11日 18時46分16秒

自己解決、何よりです(笑)。
まあ、約束事というほどでもないんでしょうが、蒔絵だと月は銀で表現されることが多いですね。

>それぞれが一つの共通物のメタファー

これについては手元の硯箱で考えているネタがあるので、近日中に記事にします。

_ S.U ― 2024年09月12日 05時52分17秒

>蒔絵だと月は銀
貴重な情報ありがとうございます。
いずれ、月は、昔は、(物理学的、気象学的に)銀色に見えたという論陣を張るかもしれません。

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