江戸の星形を追う2024年11月07日 05時29分46秒

うーむ、トランプ氏か…。世の中の真理は昔から「曰く、不可解」と決まっていて、そう呟きながら華厳の滝へ身を投げる人が後を絶ちませんが、今回もその思いを新たにしました。まこと人の心は予測が難しいです。

楳図かずおさんも亡くなってしまったし、何だかこんなことを書いていても実りがない気もしますけれど、しかし今は書くことが即ち前に進むことだ…と信じるしかありません。

   ★

忘れないうちにメモ。
昨年7月、日本で星を星形(★)で描くようになったのはいつからか?ということを話題にしました。

■星形の話(前編)…晴明判と陸軍星
■星形の話(後編)…放射する光

それはおそらくは近代以降のことで、近世以前は、「日本の星の絵は円(circle)や小円(dot)ばかりで、光条を伴う作例は未だ見たことがありません」と、自分は<後編>で書きました。

確かに上の記事を書いたときは、その例を見たことがなかったのですが、先日、天文方の彗星観測の話題を書いたとき、大崎正次氏の『近世日本天文史料』をパラパラやっていて、次のような図に出くわしました。


描かれているのは、まさに先日話題にしたのと同じ「1811年(文化8年)の大彗星」ですが、注目すべきはその脇の「太陽守」(おおぐま座χ星)と北斗の一部である「天枢、天旋、天璣、天権、玉衡」で、いずれも見事な星形(+光条)をしています。

「これだ!これこそ江戸時代に星形が使われた実例だ!」と心が踊りました。

しかし、心を落ち着けて、図の出典を確認してみます。
『近世日本天文史料』には、『三際図説 竝 寛宝以来実測図説』(さんさいずせつ ならびに かんぽういらいじっそくずせつ)という本が出典だとあります。この書名で検索すると、それが東北大学附属図書館の「狩野文庫」に写本の形で存在することが分かり、しかも画像がネットで公開されているので【LINK】、内容をすぐに確認できます。


たしかに、そこに出てくるのは、『近世日本天文史料』と同じ図です。でも、その隣にまったく同じ図が、こちらは星形でなく小円で描かれている…というあたりから、何だかわけが分からなくなってきます。ここに同じ図が2つ載っている理由も書かれていないし、一体何がどうなっているのか?


さらに、こちらは同書所収の「明和六年(1769)彗星図」です。


拡大すると、なんだか花びらのような不思議な星が描かれています。これも星形のバリエーションなのでしょうか?

   ★

改めて考えると、この『三際図説』という本が、そもそもいつ成立したのか、本自体には年記がないので不明です。本の中には「三際集説」というタイトルの見開き2頁の文章が含まれていて、ここには寛延3年(1750)の日付けがあるのですが、


収録されている天体観測記録は、その後のものが大半であるのが不審です。

   ★

国書データベース【LINK】には、

著者 渡部/将南(Watanabe Shounan)
国書所在 【写】東北大岡本,東北大狩野(寛政以来実測図説を付す),旧彰考(一冊)(陰陽離地算験考・測記と合),伊能家

とあって、本書は東北大に2冊、旧彰考館に1冊、伊能家蔵書に1冊、計4冊が、いずれも写本の形で伝わっていることが分かります。このうち書写年代が分かるのは、東北大学が所蔵する別の1冊、すなわち「岡本文庫(和算関係文庫の一部)」中の一本で、これは明治19年の書写と、だいぶ時代が下ったものです【LINK】。そして著者・渡部将南については、ネットで検索しても、関連書籍を見てもまったく不明。

この明治19年の写本も、上のリンク先で内容を見ることができますが、先の写本とは内容に異同があり、記述が享和元年(1801)の幻日図までで、文化8年の彗星図は集録されていません。でも、他の図を見ると、上の明和6年の彗星図はもちろん、


いちばん古い日付けである、寛保2年(1742)の彗星図でも、


立派な星形が描かれています。ただし近代に入ってからの書写なので、これが本来の表現なのか、写し手の作為なのか、にわかに判断できません。

   ★

江戸時代にも「星形の星」はありそうだけれども、書誌の闇に紛れて、結局よく分らない…という次第で、ごちゃごちゃ書いたわりに、情報量の乏しい記事になりました。こういうのは写本研究者の方には、おなじみのシチュエーションなのかもしれませんが、素人にはわけの分からない世界で、まさに「不可解」です。

でも、こうして書いておけば、きっと今後の展開もあるでしょう。


【参考LINK】 東北大学附属図書館 主要特殊文庫紹介

コメント

_ S.U ― 2024年11月07日 08時57分09秒

日本近世における★*型の星図については、興味がつきませんね。かつては、光彩や遮蔽の形状による回折像の見え方の実験までしました。
 蘭学由来の江戸時代の星形については、
https://www.nao.ac.jp/contents/about/reports/report-naoj/8-34-3.pdf
の5.2節に、中村士氏、荻原哲夫氏の研究がありますが、私はこれらにもとづいて、日本では三浦梅園星図がもっとも古い☆型の星図で、幕府天文方関係者では、高橋景保と伊能忠誨だとということだと思っています。梅園の蘭学知識は、長崎訪問と関係あるとすると1770年代後半以降彼の没年の1789年までの間の移入ということになると思います。いっぽう幕府天文方関係で☆型星図が普及を始めたのはもっとあとの文政年間以降と思いますので、文化年間は微妙で、そこに☆があるなら最初期の例に属するかもしれません。
明和6年(1760年代)以前は、蘭学ソースとは考えにくいように思います。彗星に限れば、実際にこのようなフサフサの毛玉のように見えたのかもしれないと思います。

 ところで、今日気づいたのですが、上の中村、荻原論文には、上の続きに、中国の『崇禎暦書』と『儀象考成』の星図の記号も載せられています。これは、イエズス会系のものです。『儀象考成』が早期に渡来していたかは私は知りしませんが、『崇禎暦書』は、享保の改革で輸入された暦書でそれによる改暦がもくろまれたものです。ということは、『崇禎暦書』の内容は、享保~宝暦の間に天文家によって検討されたことになりますが、それが寛保2年の星図に影響している可能性があるかということになりそうに思います。

_ 玉青 ― 2024年11月08日 18時56分25秒

やや、S.Uさんがこんな隠し玉を持っていたとは!去年教えていただければ、こうして無知をさらすこともなかったのに、お恨みもうしますぞ…というのは冗談ですが(笑)、しかしこんな痒いところに手の届く論文がすでにあったのですね。積年の疑問が氷解してスッキリしました。どうもありがとうございました。

ところで、論文中では「景保星図の端正な星等記号は,余り本質的ではない細部に凝る日本人の性癖が生んだオリジナルなデザインなのかも知れない」と書かれていますが(p.103)、でもこの等級記号は、漢訳書に例がなければ、直接蘭書から採ったんじゃないでしょうかね。この記号には何だかものすごく既視感があります。梅園星図の記号も含めて、そっち方面も少し探索してみます。

_ S.U ― 2024年11月09日 08時47分52秒

まことに申し訳ござりませぬ(笑)。弁解をいたしますれば、私は、この論文の蘭学以降のところを三浦梅園(蘭学の情報を麻田剛立に教えた)、高橋景保、足立信順、伊能忠誨(日本での天王星観測をリードした)について調べただけで、それ以前の東洋のソースについては見ていませんでした。

 そんなに隠し球があるわけではございませんが、下の短縮URLは、
https://x.gd/sAPjK
つい先日見つけた資料です(私の存じ上げない方によるものです)。『崇禎暦書』『儀象考成』の星図情報を西洋星図と比べておられます。○の中に星形があるのは、バイエルとフラムスティードに似ているようですが、梅園-景保の系統は違いますね。もっと後代の星図にあたるべきなのでしょう。

 三浦梅園以降の星図になると、吉雄耕牛→梅園、司馬江漢→麻田、高橋、間の系統が浮かびますが、吉雄耕牛の洋書については私は知りません。梅園の他の文献にあればと思いますが、中村、荻原論文の見解では、この星図が梅園の存命中に梅園の手元にあったものという確証はないそうなので、そんな資料はないのでしょう。ただし、私には、麻田剛立の没後に、幕府側から三浦家に資料が渡ったというルートがあったとも考えづらいので、梅園か剛立存命中の間重富か懐徳堂関係者から発して、江戸の幕府天文方と豊後の三浦家の両方に伝わったルートのほうを優先したいと思います。

 吉雄耕牛、高橋景保が最初に見つけた洋書となると、ダイレクトな天文家の星図ではなく、地理書、航海書、実用書、事典類にある星図のほうが可能性が高くなるような気がします。でも、6等星まで等級の記載があるなら、ちゃんとした星図からの模写したものになるのでしょうか。

_ 玉青 ― 2024年11月09日 18時10分51秒

>ダイレクトな天文家の星図ではなく、地理書、航海書、実用書、事典類にある星図のほうが可能性が高くなる

あ、なるほど。たしかにそうですね。そうなると探索範囲はかなり広がりますね。

景保の等級記号と同じものを探して、アンティーク星図の本を先ほどパラパラやったんですが、一見似たようなものはいろいろ見つかりますけれど、ぴったり同じものは見つかりませんでした。見た目もさることながら、景保の記号の特徴は、何といっても六芒星と五芒星をベースに(3等級と4等級)、そこに光条を加える(1等級と2等級)、中を黒く塗りつぶす(5等級と6等級)という、非常にシステマティックな体系になっていることで、そうした記号システムを採用しているものはないかな?と思ったんですが、それもまだ見つかりません(引き続き探してみます)。

ご紹介の「宣教師による中国星座の同定について」を拝見しました。まことに硬派な発表で、私の理解を超えている点が多々ある…というか、ほとんど理解の埒外にありますが、理解はできなくても、こういうクリアカットな議論は心地よいですね。感嘆のほかありません。

著者の竹迫氏は「古天文の部屋」を主宰されている方とのこと。私も直接は存じ上げませんが、そのサイトにはこれまで何度も立ち寄った記憶があります。自分にないものを羨んでも仕方ありませんが、その豊かな学殖に深い敬意と憧れを感じます。

_ S.U ― 2024年11月10日 06時03分50秒

同じ物はありませんか。引き続きご調査よろしくお願いいたします。
 中村、荻原論文で、中国イエズス会系が言及されているということは、蘭学ルートでは見つかっていないということでしょうし、私も西洋星図の蘭学案件は聞いたことがないので、見つかれば新発見と思います。
 いっぽう、星図帳(スターアトラス)そのものではなく、地理書、航海書、百科事典と書きましたが、当時(間重富が絡んでいるとすると1810年代以前)のその手の西洋書に、詳しい星図がついていたということが、当時の印刷術や紙質・製本の観点から考えられるのでしょうか。まだ、銅版画挿絵が主流の時代ですよね。このへんは、玉青さんのご本領と思いますので、そちらの方面から攻めていただければ案外可能性の範囲は絞られるのではないかと愚考しますが、いかがでしょうか。

_ 玉青 ― 2024年11月10日 14時26分14秒

18世紀にさかのぼると出版事情の違いからよく分らないんですが、19世紀には星図はいろんなところに顔を出します。百科事典は無論のこと、世界地図帖、児童書、一般向けの科学の本…。星表をもとに星図を一から作るのは大変でも、パクってくるのは簡単ですから、著作権のゆるい時代にはそんなパクり星図が横行していた気配があります。

18世紀の品でも、「名もなきマイナー星図」は結構数が残っていて、たぶん名のある星図アトラスから引っ張て来て、一般書に引用された図版を切り取って商品化したものだと思うんですが、(切り抜かれる前の)そうした星図を含む本が、長崎から入ってきてもおかしくはないですね(具体的な事例を念頭においているわけではありません。今のところあくまでも想像です)。

いずれにしても、そうしたマイナー星図にはオリジナルがあるはずですから、まずはオリジナルを突き止めるのが早道だと思います。(私の場合は、そのオリジナルから景保までの中間経路はブラックボックスでもよく、「たぶん何らかのルートで伝わったのであろう」という程度で、とりあえず好奇心は満たされます。)

_ S.U ― 2024年11月10日 17時06分15秒

なるほど、では、次第に依っては役割分担もさせていただきたく存じますので、よろしくお願いいたします。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック