1896年、アマースト大学日食観測隊の思い出(9)…枝幸にて ― 2025年07月19日 08時41分49秒
足掛け5日間の船の旅を経て、7月10日に枝幸に到着した一行は、8月9日の日食当日に向けて、忙しい準備作業に入りました。
まずは荷物の陸揚げです。次に観測基地の場所を決めなければなりません。これについては、使われていない学校校舎がおあつらえ向きだと思われました。
「この校舎には長さ55フィート、幅20フィートほどの広い部屋があり、これは倉庫にも作業場にも使える。加えて部屋はトッド教授のオフィスや寝室,隊員の宿泊所、食堂や調理場にも適当である。そこで近くの海岸に置いていた荷物を、直ちにこの宿舎に運び入れた。」
日食までの約1か月間、ペンバートンの書簡を読むと、メンバーはときに散歩したり、アイヌ集落を訪ねたりするほか、基本的にはトンテンカンテン、毎日観測小屋の建築と機器の設置および調整に余念がありませんでした。
「7月20日 今日はまた曇りである。もちろん皆忙しく動いている、アンドリューは観測小屋の切り妻壁を取り付ける作業にかかり、日食観測の際に壁が開いたり移動したりできるようにした。 この作業にかなりの熟練と労力が必要である。 観測小屋のほかの部分は自分たちで作らなければならない。写真乾板箱の用意は私の仕事として残ったようだ。私は既存の小箱にさらに80個ほど追加しなければならないことに気が付いた。
それでまた仔山羊皮の古い手袋をつけて、ペンキ塗りに従事した。明日はピロードを切り抜いてそれを張り付けることになろう。」
それでまた仔山羊皮の古い手袋をつけて、ペンキ塗りに従事した。明日はピロードを切り抜いてそれを張り付けることになろう。」
(アマースト隊の観測小屋。連載第3回に既出)
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さらに日食当日の天候がどうなるか、尋常でないプレッシャーが一同を襲い、それかあらぬか、我らがゲリッシュ氏も体調を崩しがちです。
「7月31日 昨日は終日にわか雨が多く、雷鳴や稲妻も少しあって、変化のある天気であった。昨夜は気がふさいで、日誌が書けなかった。ティータイムの直前にはまた別の患者を診ることになった。ゲーリッシュ氏がやってきて、何かウイスキーがないかと聞いてきた。悪寒のような状態だと言うのだ。私はニューヨークを出発して以来、ずっとモノグラムのライウイスキーを小瓶に少量入れてもっている。その1日分を渡し、後でキニーネ剤を飲むよう勧めた。また頭痛に効くナンバーワン錠を渡したら、今日は全く元気になった。私はこの遠征観測隊の医官として適切に対応しているのだろうか?」
「8月3日 日食まであと5日しか準備日がない。その日は間違いなくコロナが現れるのか、それとも苦い失望の日になるのか、今日は終日ほぼ晴天であった。日食のある3時5分には太陽はいい状態で出ていた。当然のことだが作業は相当きつい。今日はまた覆いを作るために縫い付け作業をした。」
「8月7日 今朝は曇り、午後は雨になった。皆忙しく動いているが、多分に神経過敏になって、いらいらしている。私は地元の床屋に行って、散髪をしてもらった。床屋が刈り上げにあまりに長い時間をかけるので、それを止めさせた。」
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そんな合間にアマースト隊は、他の日食観測隊と交流もしています。
他に枝幸に布陣したのは、フランスのデランドル隊(隊長はパリ天文台のアンリ・デランドル Henri Deslandres、1853-1948)と、日本の寺尾隊(同じく東京天文台長・寺尾寿 てらおひさし、1855-1923)で、デランドル隊についてはこんな記述があります。
「7月22日 〔…〕日食観測担当の教授(前出のデランドル)をここに招待した。彼は私にこう言った。「われわれ皆が元気なことをお伝えできるのは嬉しいことだ。二、三日前に気分が悪かったときに、あなたがくれた薬を数錠飲んだら全快した。あなたは名医だ。」
トッド教授は私からカフスボタンを借り、「白ワイシャツ」の正装で、午後にどこかに出かけた。おそらくフランスの軍艦に招待されたのだと思う。」
トッド教授は私からカフスボタンを借り、「白ワイシャツ」の正装で、午後にどこかに出かけた。おそらくフランスの軍艦に招待されたのだと思う。」
一方、寺尾隊についてはペンバートンの書簡に出てきませんが、やっぱり交流があったことは、ゲリッシュ資料の中に寺尾の名刺があることから分かります。
その裏面には欧文による自己紹介がペンで書かれており、これは寺尾の自筆でしょう。
寺尾は開成学校(東京大学の前身)で、お雇いフランス人のエミール・レピシエから天文学を学び、その後パリに留学した人なので、こういう場でもフランス語で名乗るのを常としたのでしょう。(パリ天文台にいた寺尾にとっては、デランドル隊との交流の方が気易かったと思います。)
(寺尾寿。ウィキペディアより)
対するゲリッシュも当然名刺を渡したはずですが、下は遠征旅行のあちこちで配ったであろうゲリッシュ本人の名刺。
さらにまたアマースト隊は、多忙な中、地元の人ともこまめに交流しています。
「7月12日 〔…〕午後5時に5人の日本人紳士、すなわち町長と観測所用地の地主、他に3人を招待した。双方から表敬の挨拶が交わされ、それをノザワ氏が通訳した。トッド教授が客に紅茶を供するよう指示があったので、私はコックに急いで出すよう伝えた、紅茶とともに何か食べ物を出したいと思ったので、私はひそかに見つけていたプレッツェル(ビスケットの1種)の缶詰を開け、またコックは焼きドーナツのようなのをそれに加えた、客はこのもてなしを喜んでくれ、何度もお辞儀して帰って行った、」
下のメモは、このとき通訳のノザワさんが書いてくれたものか、あるいはもっと以前、横浜あたりで書いてもらったものかもしれませんが、日本人との交流の際には、大いに役立ったんじゃないでしょうか。
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こうして運命の日、8月9日がやってきました。
最初に書いたように、このときの観測は失敗でした。薄雲が太陽を覆い隠したせいで、科学的に有意なデータがほとんど得られなかったからです。
しかし、それは日食そのものが見えなかったことを意味しません。そのときの光景を、トッド隊長夫人であるメイベルは、『コロナとコロネット』の中で、以下のように文学的に表現しています。
「旋回していたカモメたちは奇妙な鳴き声とともに姿を消した。一匹の白い蝶がぼんやりと舞い去った。そして一瞬にして闇が世界を襲い、この世のものとは思えない夜がすべてを包み込んだ。
言葉では言い表せない閃光と同時に、コロナが神秘的な輝きを放った。薄い雲を通してぼんやりと見えたその光は、言葉では言い表せないほど美しく、想像を絶する天空から来た天の炎のようだった。同時に、北西の空全体が、ほぼ天頂まで、鮮烈で驚くほど鮮やかなオレンジ色に染まり、その上を、液体の炎の粒、あるいは巨大な冥府の火山から噴き出した巨大な噴出物のように、わずかに暗い雲が漂っていた。西と南西の空は、輝くレモンイエローに輝いていた。
夕焼けとは程遠く、それはあまりにも陰鬱で恐ろしかった。青白く、途切れ途切れのコロナの光の輪は、今もなお、胸を躍らせるような静寂を湛えながら輝き続け、自然はこの荘厳な光景の次の段階を息を呑んで待っていた。
それは、全世界が萎縮し消滅する前兆だったのかもしれない。奇妙なほどに恐怖に満ち、美しくも悲痛な、天国と地獄が同じ空に浮かんでいる。」
言葉では言い表せない閃光と同時に、コロナが神秘的な輝きを放った。薄い雲を通してぼんやりと見えたその光は、言葉では言い表せないほど美しく、想像を絶する天空から来た天の炎のようだった。同時に、北西の空全体が、ほぼ天頂まで、鮮烈で驚くほど鮮やかなオレンジ色に染まり、その上を、液体の炎の粒、あるいは巨大な冥府の火山から噴き出した巨大な噴出物のように、わずかに暗い雲が漂っていた。西と南西の空は、輝くレモンイエローに輝いていた。
夕焼けとは程遠く、それはあまりにも陰鬱で恐ろしかった。青白く、途切れ途切れのコロナの光の輪は、今もなお、胸を躍らせるような静寂を湛えながら輝き続け、自然はこの荘厳な光景の次の段階を息を呑んで待っていた。
それは、全世界が萎縮し消滅する前兆だったのかもしれない。奇妙なほどに恐怖に満ち、美しくも悲痛な、天国と地獄が同じ空に浮かんでいる。」
米・仏・日すべての観測隊員にとって、まさにこれは「美しくも悲痛な、天国と地獄が同じ空に浮かんでいる」光景だったことでしょう。
(この項つづく。次回は日食の後日譚)
コメント
_ S.U ― 2025年07月19日 11時13分17秒
_ 玉青 ― 2025年07月19日 16時18分04秒
>計算間違いとか装置の手順のミスで、装置の状況が観測に間に合わなかったとき
いやあ、これは悔しいでしょうねえ。言い訳のできない悔しさというのは、ひたすら耐えるしかないわけで、それに比べれば、たしかに悪天候はまだしもかもしれませんね。
いやあ、これは悔しいでしょうねえ。言い訳のできない悔しさというのは、ひたすら耐えるしかないわけで、それに比べれば、たしかに悪天候はまだしもかもしれませんね。
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私は、大枚をはたいて海外に天文観測に行ったことはないので、プレッシャーというのはよくわかりませんが、国内の経験では、悪天候は自分のミスよりは救われるように思います。いちばん悔やまれるのは、計算間違いとか装置の手順のミスで、装置の状況が観測に間に合わなかったときです。プロの天文家もそうではないかと思います。